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人生朝露

人生朝露

スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その5。

荘子です。
荘子です。

“Jobs(2013)”
スティーブ・ジョブズの映画が二本公開されるそうなので、ちょっとついでに。

映画『スティーブ・ジョブズ』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=lPv8Ltya0_U
回顧モノが下火になってきて、余計な気を遣わなくていいので楽です。

参照:スティーブ・ジョブズと禅と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5010

スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その2。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5077

スティーブ・ジョブズと禅と荘子 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5100

自室でのジョブズ(1985)。
2005年にスタンフォード大学の卒業式で行われたジョブズのスピーチは、西洋人らしからぬ思想の形質、というべきか、東洋人の思考のサーキットに近い軌道を描いておりまして、当ブログはそこに注目しております。

参照:スティーブ・ジョブス 伝説の卒業式スピーチ(日本語字幕)
http://www.youtube.com/watch?v=RWsFs6yTiGQ

このスピーチの中で披瀝されたジョブズの座右の銘"Stay hungry, Stay foolish."という言葉は、スチュアート・ブランド(Stewart Brand)が編集した『全地球カタログ(Whole Earth Catalog)』の最終号からの引用なんですが、1960年代から70年代にかけて、東洋思想の影響を強く受けた「ビートニク」や「ヒッピーカルチャー」の流行が、彼の思考の源流にあったことは、否定しがたいものだと思います。これはアメリカの西海岸で起きた潮流で、一時代のローカルな事象ではあったものの、集中的に起こっています。

フィリップ・K・ディック(Philip Kindred Dick 1928~1982)。
たとえば、インドを放浪して帰国したジョブズが、ロスアルトスの禅センターの門を叩いた1974年。同じカリフォルニアでSF作家、フィリップ・K・ディックが「2-3-74」という神秘体験をしている、といった具合です。ただしこのブームは、常に薬物依存の影がつきまといます。全く誉めれたものではないにせよ、精神にドーピングをした結果、あの時代の西洋人の一部が思想の断層を渡って東洋思想の片鱗を理解したことは紛れもない事実です。

参照:ディックと禅とLSD。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5144/

参照:スティーブジョブズと北アメリカの禅
http://www.youtube.com/watch?v=hemwaNtwGms

・・・で、「スティーブ・ジョブズと禅」に関連する書籍が、彼の死後いろいろと出まして、禅の思想と前掲のスピーチの関連性についていろいろと指摘していらっしゃいました。仏教思想で語りたくなるものですが、少なくともスタンフォード大学のスピーチに関しては、禅の思想の源流である荘子の思想ともっともなじむと思いますので、列記いたします。

参照:「ハングリーであれ。愚か者であれ」 ジョブズ氏スピーチ全訳
米スタンフォード大卒業式(2005年6月)にて
http://www.nikkei.com/article/DGXZZO35455660Y1A001C1000000/

まず、最初の部分は「人間万事塞翁が馬」「無用の用」で読めます。これは省略。

ジョブズ。
≪自分はまもなく死ぬという認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、永遠の希望やプライド、失敗する不安…これらはほとんどすべて、死の前には何の意味もなさなくなるからです。本当に大切なことしか残らない。自分は死ぬのだと思い出すことが、敗北する不安にとらわれない最良の方法です。我々はみんな最初から裸です。自分の心に従わない理由はないのです。≫

ここだけを引っ張り出すと、『徒然草』とも非常によく似ています。
兼好法師((1283~1352)。
≪大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、遁れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。(『徒然草』第五十九段)≫

≪また云はく、「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に樂しまざらんや。愚かなる人、この樂しみを忘れて、いたづがはしく外の樂しみを求め、この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志、滿つる事なし。生ける間生を樂しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人みな生を樂しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。もしまた、生死(しゃうじ)の相にあづからずといはば、實の理を得たりといふべし。」(『徒然草』第九十三段)≫

『徒然草』での死生観というのは、格義仏教を勘案しても、荘子の比率が非常に高いです。 「安時而処順、哀楽不能入也(時に安んじて順に処れば、哀楽入る能わず)」という大宗師篇や、死をテーマとした『荘子』の至楽篇などは、ほとんどそのままという部分もあります。

参照:兼好法師と荘子 その4。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005174/
ただし、『徒然草』には「愚を守るにあらず(第三十八段)」ともあるので、ジョブズとはちょっとズレます(笑)。

荘子 Zhuangzi。
『生也死之徒、死也生之始、孰知其紀。人之生、氣之聚也。聚則為生、散則為死。若死生為徒、吾又何患。故萬物一也。其所美者為神奇、其所惡者為臭腐。臭腐復化為神奇、神奇復化為臭腐。故曰『通天下一氣耳。』聖人故貴一。』(『荘子』知北遊篇)
→ 生には死が伴い、死は生の始まりである。だれがその初めと終わりを知り得よう。人の生は氣が集まったもの。集まれば生となり、散じれば死となる。生と死とが一体であるとすれば、私は何を思い煩うことがあろうか? 故に万物とは一つのものなのだ。人は美しく立派なものを尊び、腐って汚いものを憎む。しかし、腐って汚いものいずれは変化して、美しく立派なものとなり、かつて尊んでいたものも、やがては腐って汚いものと変化する。故に『天下は全て一つの氣の巡り』という。聖人はそこに貴賤を設けず、その「一」を貴ぶのである。

ジョブズ。
≪死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいない。それは、あるべき姿なのです。死はたぶん、生命の最高の発明です。それは生物を進化させる担い手。古いものを取り去り、新しいものを生み出す。今、あなた方は新しい存在ですが、いずれは年老いて、消えゆくのです。深刻な話で申し訳ないですが、真実です。≫

兼好法師((1283~1352)。
≪身を養ひて何事をか待つ、期するところ、たゞ老と死とにあり。その來る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の樂しみかあらむ。惑へるものはこれを恐れず。名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。愚かなる人は、またこれをかなしぶ。常住ならんことを思ひて、變化の理を知らねばなり。(『徒然草』)第七十四段)≫

ジョブズ。
≪あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。他人の考えに溺れるあまり、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず。ほかのことは二の次で構わないのです。≫

荘子 Zhuangzi。
『吾生也有涯、而知也無涯。以有涯隨無涯、殆已。已而為知者、殆而已矣。』(「荘子」養生主第三)
→人間の一生には限りがるが、我々の知識欲は無限にある。限りある人生で得られた知覚によって、無限の知識欲を満たそうとするのは自らを危うくさせるだけだ。さらにその知の欲望に身を委ねることは、いよいよ自らを危うくさせるのみだ。

『吾所謂臧者、非所謂仁義之謂也、任其性命之情而已矣。吾所謂聰者、非謂其聞彼也、自聞而已矣。吾所謂明者、非謂其見彼也、自見而已矣。夫不自見而見彼、不自得而得彼者、是得人之得而不自得其得者也、適人之適而不自適其適者也。』(『荘子』駢拇 第八)
→私の言う「善」とは世間の言う仁義ではない。己が内にある自然の徳をあるがままにまかせることを善と言う。私の言う「聡」とは、外界の音がよく聞こえるということではなく、内なる声を聴けることを言う。私が言う「明」とは、外界の色をよく見分けられることではなく、内なる私を見つめられること言う。自分の内にあるものを見つめずに、外にあるものに気を取られたり、自分の心に適うものを求めずに、他人の心に適うものを求めるのは「他人が納得することは自分も納得するものだ」と思い込んでいるからであり、それは「自分の心に適うもの」とは言えない。他人の楽しみを自分の楽しみとしているうちは、「自適」とは言わないものだ。

ちなみに、上記「人の適を適とし、其の適を自適せざる者也」は大宗師篇にもありまして、緒方洪庵の号であり、「適塾」の由来でもあります。

参照:緒方洪庵外伝 適塾開業
http://ogatakoan.com/tekijuku.html

今日はこの辺で。


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