3255684 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

人生朝露

人生朝露

ブルース・リーと東洋の思想 その1。

荘子です。
荘子です。

李小龍(Bruce lee 1940~1973)。
本日は、ブルース・リー/李小龍(1940~1973)について。
現代において「代表的東洋人」を選ぶとしても、おそらく五指に入る人物であろうと思われます。米中が接近し、日中の国交回復の時期とも重なる1970年代に、彼は32歳の若さでこの世を去っています。ブルース・リーが世界的に認知され、カンフーブームが起こるのも、ほとんどが彼の死後の出来事で、日本における受容も同じようなものだったようです。

参照:Wikipedia ブルース・リー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC

アクションスターの中でも「伝説上の人物」として語られることの多い人ですが、彼にはワシントン大学で哲学を専攻していた思想家というもう一つの顔があります。もともと無名の頃にも自費出版で功夫の紹介本も出していたようです。大変な読書家で、またメモ魔でもあったため、「ブルース・リーの名言(Bruce Lee's quotes)」として、夥しい数の言葉が「彼の言行録から」ということで、世界中で引用されています。

TAO OF JEET KUNE DO。 “The Tao of Gung Fu”。
現在は、ブルース・リーの死後に編集・発刊された『Tao of Jeet Kune Do(1975)』や『The Tao of Gung Fu(1997)』という書物で、彼の思想や哲学の体系を垣間見ることができます。前掲の二冊も「道(tao)」という文字を冠していることでも分かるように、ブルース・リーが影響を受けた思想というと、まずは老子、荘子、禅仏教。禅に関しては鈴木大拙やアラン・ワッツからの影響が見られます。後は孫子、孔子。西洋哲学で興味を持っていたのは、デカルトとスピノザだったようです。哲学者・ブルース・リーの横断的な解説書としては、1997年に発刊されたジョン・リトルの『ブルース・リーノーツ 内なる戦士をめぐる哲学断章』がオススメです。

Finger pointing to the moon。
“Don't think! Feel!
 It is like a finger pointing away to the moon. 
 Don't consentrate on the finger,or you will miss all that heavenly glory.”
(考えるな!感じろ!
 月を指す指のようなものだ。
 指に注意を向けるな、そんなことでは天の美を見失ってしまうぞ。)

参照:Finger Pointing to the Moon - Bruce Lee
http://www.youtube.com/watch?v=sDW6vkuqGLg

指月布袋画賛
これは、禅仏教でよく使われる「指月の喩え」と呼ばれるもの。

Zhuangzi
『世之所貴道者、書也、書不過語、語有貴也。語之所貴者、意也、意有所隨。意之所隨者、不可以言傳也、而世因貴言傳書。世雖貴之我、猶不足貴也、為其貴非其貴也。故視而可見者、形與色也、聽而可聞者、名與聲也。悲夫。世人以形色名聲為足以得彼之情。夫形色名聲果不足以得彼之情、則知者不言、言者不知、而世豈識之哉。』(『荘子』天道 第十三)
→道を学ぶときに、世の人が学ぶのは書物である。書物は言葉を載せているものに過ぎない。一般に言葉は貴いものであると思われている。言葉が貴ばれるのは、それに意があるからであって、意には何らかの指し示すものがある。その意を指す「本質的なもの」というのは、言葉では伝わらない。にもかかわらず、世の人々は書物や言葉で、本質が伝わるとでも思っている。世の人がそれを貴ぼうとも、それは貴ぶべきものではない。目で見えるのは物の形と色、耳で聞こえるのは物の名前と音だけだ。悲しむべきことだな。人はそんなもので相手の心のうちまで理解できると思い込んでいる。だから言うのだよ。知る者は言わず、言う者は知らず、とね。このことが、世の人に理解されないのだ。

禅と荘子の思想を見るとき、ここに差異はありません。

partiality- fluidity- emptiness
ブルース・リーが始めた「ジークンドー/截拳道/Jeet Kune Do」の修練に、
「Partiality(分限)」
「Fluidity(流動)」
「Emptiness(空虚)」
と続く象徴的な図式があります。太極図と、十牛図を模したものですが、彼の著作を読む限りでは、単に観念的に作り上げたものではなく、彼自身の経験と彼の師である葉問の導きがあったからこそのものだと思います。

参照:Wikipedia 截拳道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%AA%E6%8B%B3%E9%81%93

「以無法為有法 以無限為有限(無法を以って有法と為し、無限を以って有限と為す)」もそうですが、ブルース・リーの思想の一番根本的な部分を短く表現すると、やはりこれ。
Longstreet (1971)。
“Empty your mind, be formless, shapeless - like water.
Now you put water into a cup, it becomes the cup,
you put water into a bottle, it becomes the bottle,
you put it in a teapot, it becomes the teapot.
Now water can flow or it can crash. Be water, my friend.”
(「心を空っぽにして、どんな形態も形も捨てて水のようになるんだ。
 水をコップに注げば水はコップとなるし、
 水をティーポットに注げば水はティーポットになる。
 水は流れることも出来るし、激しく打つことも出来る。だから、友よ、水のようになるよう心掛けることだ。」(日本語訳は『Cowboy Bebop』#XX よせあつめブルース より))

参照:Tao of Bruce Lee - Be like water
http://www.youtube.com/watch?v=V3B1JtMA0Fc

Cowboy Bebop - "Mish-Mash Blues" - Session XX (unreleased) Part2
http://www.youtube.com/watch?v=H3ZvNa5Ro20

“Be Water”は、老子がメイン。
老子(Laozi)。
『三十輻、共一轂、當其無、有車之用。埏埴以為器、當其無、有器之用。鑿戸牖以為室、當其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用。』(『老子』第十一章)
→三十の輻(や・スポーク)が車輪の轂(こしき)に集まる。中心に何もないからこそ車輪の用がある。土を捏ねて土器を作る。何もないからこそ器の用がある。戸口を鑿で穿ち、窓を開いて部屋とする。何もないからこそ部屋の用がある。故に、何かがあることによって利があり、何もないところに用がある。

『天下莫柔弱於水、而攻堅強者莫之能勝、其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。』(『老子』第七十八章)
→天下に水よりも柔弱なものはないが、堅強な者を攻めるのに水に勝るものはなく、水に代わるものはない。弱が強に勝ち、柔が剛に勝ちうる事を、天下に知らぬ者はいないが、それを行いうる者もない。

『大方無隅、大器晚成。大音希聲、大象無形、道隱無名。夫唯道、善貸且成。』(『老子』第四十一章)
→大いなる方に四隅はなく、大いなる器はいつまでも成らない。大いなる音は耳に届かず、大いなる姿に形はなく、道は隠れて名がない。その生育を善く助けるのは道のみである。

参照:「如水」の由来と諸子百家。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5179/

岡倉天心。
≪われわれはおのれの役を立派に勤めるためには、その芝居全体を知っていなければならぬ。個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならない。この事を老子は「虚」という得意の隠喩で説明している。物の真に肝要なところはただ虚にのみ存すると彼は主張した。たとえば室の本質は、屋根と壁に囲まれた空虚なところに見いだすことができるのであって、屋根や壁そのものにはない。水さしの役に立つところは水を注ぎ込むことのできる空所にあって、その形状や製品のいかんには存しない。虚はすべてのものを含有するから万能である。虚においてのみ運動が可能となる。おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。
 道教徒のこういう考え方は、剣道相撲の理論に至るまで、動作のあらゆる理論に非常な影響を及ぼした。日本の自衛術である柔術はその名を道徳経の中の一句に借りている。柔術では無抵抗すなわち虚によって敵の力を出し尽くそうと努め、一方おのれの力は最後の奮闘に勝利を得るために保存しておく。芸術においても同一原理の重要なことが暗示の価値によってわかる。何物かを表わさずにおくところに、見る者はその考えを完成する機会を与えられる。かようにして大傑作は人の心を強くひきつけてついには人が実際にその作品の一部分となるように思われる。虚は美的感情の極致までも入って満たせとばかりに人を待っている。(岡倉覚三著『茶の本(“The book of tea”)』第三章 道教と禅道より)≫

・・・上記は「茶道は道教の仮りの姿」と主張する岡倉天心(1863~1913)の『茶の本(1906)』から。ブルース・リーの思想と軌を一にします。

Zhuangzi
『吾終身與汝交一臂而失之、可不哀與。女殆著乎吾所以著也。彼已盡矣、而女求之以為有、是求馬於唐肆也。吾服女也甚忘、女服吾也亦甚忘。雖然、女奚患焉。雖忘乎故吾、吾有不忘者存。』(『荘子』 田子方 第二十一)
→仲尼は言った「(中略)お前は外から見える私の姿をそっくりそのまま真似ようとしているが、移りゆく私の一部に過ぎないのだ。お前は過去の私という幻を追っているのだ。市場が終わったあとに馬を買い求めにやってくるようなものさ。変化し続ける形を、私自身も忘れているものだ。お前も、私の教えなど忘れいくのだ。しかし、何も患うことはないよ。お前が過去の私を忘れたとしても、私を忘れていないものの中で私は生き続ける。」

参照:《武之夢 A Warrior's Dream》Donnie yen VS Bruce Lee
http://www.youtube.com/watch?v=NTCBR9cnd7Q

今日はこの辺で。


© Rakuten Group, Inc.