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人生朝露

人生朝露

「民のかまど」と中国古典。

『淮南子』。
『或曰「無為者、寂然無聲、漠然不動、引之不來、推之不往。如此者、乃得道之像。」吾以為不然。嘗試問之矣「若夫神農、堯、舜、禹、湯、可謂聖人乎?」有論者必不能廢。以五聖觀之、則莫得像無為、明矣。(中略)禹沐浴霪雨、櫛扶風、決江疏河、鑿龍門、辟伊闕、修彭蠡之防、乘四載、隨山刊木、平治水土、定千八百國。湯夙興夜寐、以致聰明、輕賦薄斂、以民寛氓、布徳施惠、以振困窮、吊死問疾、以養孤孀。百姓親附、政令流行。(中略)此五聖者、天下之盛主、勞形盡慮、為民興利除害而不懈。』(『淮南子』脩務訓)
→ある人が言うには「無為とは、ひっそりとして音もなく、ぼんやりとして動くともなく、引いては返らず、推しては往かず。このように、道の本当の姿は得られるものではない。」とのことであるが、私はそうではないと考える。試に質問させてほしい。「神農・堯・舜・禹・湯というかつての帝王たちは、聖人と呼ぶにふさわしい人たちであったろうか?」これを否定することは難しいだろう。かつての五人の聖人を見てみると、無為を体現した人物がいないことは明白である。
 (中略)禹王は降りしきる雨を浴び、吹きすさぶ風を櫛として、長江を開き、黄河を通し、龍門を掘り、伊闕をえぐって、彭蠡の堤防をつくり、四乗で駆け回り、山をならして、木を切り、土地を平らにして水を治め、千八百の國を定めた。湯王は夜明け前に起きて夜が深まるまで眠らず、知性の及ぶ限りを尽くして、税を軽くし、民にゆとりを与え、その徳を敷き、恵みを施すことでその困窮を救い、死者を弔い、病者を見舞い、親のいない子供や、子供のいない老人を保護した。百姓は彼を慕い、湯王の政令は流れるように広まった。(中略)この五人の聖人は天下に名だたる主であるが、自らの肉体と知慮のかぎりを尽くして民の利のために事を興して害を除き、それを倦むことはなかった。

・・・『淮南子』の「脩務訓」からなんですが、この脩務というのは注釈によると「勉めて趨る」というくらいの意味なんだそうです。『淮南子』の後半には「学ぶに暇あらずと謂う者は暇ありと雖も亦学ぶ能わず (学問をする暇がないという者は、たとえ暇があったとしても学問をしないものだ)」という慣用句もあるほどで、『老子』や『荘子』の「無為」からすると、一見、対立するような姿勢を見せます。このうち、「禹沐浴霪雨、櫛扶風」という禹王の描写は『荘子』のエンドロール天下篇に見られますが、その辺はいずれ。

次に『日本書紀』の仁徳天皇についての記述を。
堺市に現存する巨大な前方後円墳が、いわゆる「仁徳天皇陵」であるとの根拠とされるあたりです。

大仙陵古墳。
≪當此時、妖氣稍動、叛者一二始起。於是、天皇夙興夜寐、輕賦薄斂、以寛民萌、布徳施惠、以振困窮。弔死問疾、以養孤孀。是以、政令流行、天下太平。廿餘年無事矣。
八十七年春正月戊子朔癸卯、天皇崩。冬十月癸未朔己丑、葬于百舌鳥野陵。『日本書紀』巻十一 仁徳天皇≫
→このとき、妖氣が動いて、一つ、二つの反乱が初めて起きた。ここに天皇は、朝早く起きて夜が更けてから眠り、税を軽くして、負担を減らし、民を緩やかにして、徳を布き、恵みを施して、困窮を救った。死者を弔い、病者を見舞って、孤児や未亡人を養った。これにより、政令は流れるように広まり、天下は太平であって二十余年の間無事であった。
 八十七年正月の十六日、天皇は身罷られた。冬の十月七日、于百舌鳥野陵(もずのみささぎ)に葬られた。

『淮南子』の湯王と『日本書紀』仁徳天皇。
仁徳天皇の行跡が、前掲の『淮南子』の湯王(とうおう)の行跡のコピペであることがわかります。「湯王」の首が、「天皇」のそれと、すげかえられています。

仁徳天皇。
≪四年春二月己未朔甲子、詔群臣曰、朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中。以爲、百姓既貧、而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠徳之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年。頌音不聆。炊烟轉踈。卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者。況乎畿外諸國耶。三月己丑朔己酉、詔曰、自今以後、至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。是日始之、黼衣絓履、不弊盡不更爲也。温飯煖羹、不酸鯘不易也。削心約志、以從事乎無爲。是以、宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺。風雨入隙、而沾衣被。星辰漏壞、而露床蓐。是後、風雨順時、五穀豐穰。三稔之間、百姓富寛。頌徳既滿、炊烟亦繁。
 七年夏四月辛未朔、天皇居臺上、而遠望之、烟氣多起。(中略)天皇曰、其天之立君、是爲百姓。然則君以百姓爲本。是以、古聖王者、一人飢寒、顧之責身。今百姓貧之、則朕貧也。百姓富之、則朕富也。未之有、百姓富之君貧矣。(『日本書紀』巻十一 大鷦鷯天皇 仁徳天皇)≫
→仁徳天皇の四年二月六日、群臣に詔していわく「朕が高台に遠くを登って望んで観るに、国中の家から煙が出ていないことに気づいた。思うに、百姓が貧しくて煮炊きもできないからであろう。朕が聞くとことによると、聖王の御世には、人々は詠徳の音を、家ごとでは康哉の歌を歌う声が聞こえていたという。今朕が位に就いて三年が経ったが、そのような歌は歌われない。家々から煙が立ち上ることもない。これは、五穀が実らず民が窮状に陥っているからであろうと知った。畿内ですら、この様子であるのだから、都から遠い畿外では言うまでもないだろう。」
 同年三月二十一日、詔していわく「向こう三年の間、すべての課役をやめて、百姓の苦しみを憩わせよ」。この日から、天皇の衣装や履物は襤褸になるまでは新調されず、温かいご飯や汁物も酸っぱくなったり腐らないうちは変えられず、御心を削り、志を責めて、事に従い無為に過ごされた。宮垣が崩れ、茅葦の屋根が破れても屋根は葺かれず、隙間風が入って、天皇の衣に露が降り、破れた屋根から差し込んだ星の光で床のご寝所が見えるほどであった。この後、気候も穏やかで、五穀も豊作が続いた。三年経つと、百姓にもゆとりができて、天皇をたたえる声に満ちて、家々の煙も見えるようになった。
 同七年四月一日、天皇が再び高台に上って遠くを望んで家々から炊煙が立っている様をご覧になった。
(中略)
 「天が君主を立てるのは、百姓のためである。ならば、君主は百姓を基本とせねばならぬ。だからこそ、古の聖王は一人でも百姓が飢えたり凍えたりするようならば、わが身を責めたものだ。今百姓が貧しいのならば朕もまた貧しい。百姓が富めば朕も富む。百姓が富んで君主だけが貧しいということは起こらないな。」

・・・いわゆる「民のかまど」の故事ですが、もともと、仁徳天皇が「詠徳之音」と言っているところは『文選(もんぜん)』にありまして、天皇が指標としている聖王の政治が大陸の王であることが分かります。ここ以外にも、仁徳天皇の記録としてある、萱を切りそろえないとか、自発的に民衆が王宮を作るといった記述は、『魏都賦(ぎとのふ)』の記述と共通点が多いです。

参照:中国古典と八紘一宇。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005189/

で、『日本書紀』の中で唯一「無為」とある下線部分の元ネタは、『六韜(りくとう)』です。
太公望・呂尚が周の文王に古代の帝王・堯(ぎょう)の治世について答えたところ。

太公望・呂尚と文王。
『太公曰「君不肖、則國危而民亂。君賢聖、則國安而民治。禍福在君、不在天時。」
文王曰「古之賢君、可得聞乎。」
太公曰「昔者帝堯之王天下、上世所謂賢君也。」
文王曰「其治如何。」
太公曰「帝堯王天下之時、金銀珠玉不飾、錦繡文綺不衣、奇怪珍異不視、玩好之器不寶、淫泆之樂不聽、宮垣屋室不堊、甍桷椽楹不斲、茅茨徧庭不剪。鹿裘禦寒、布衣掩形。糲粱之飯、藜藿之羹。不以役作之故、害民耕績之時、削心約志、從事乎無為。吏、忠正奉法者尊其位、廉潔愛人者厚其祿。民、有孝慈者愛敬之、盡力農桑者慰勉之。旌別淑徳、表其門閭。平心正節、以法度禁邪偽。所憎者、有功必賞。所愛者、有罪必罰。存養天下鰥寡孤獨、振贍禍亡之家。其自奉也甚薄、其賦役也甚寡。故萬民富樂而無飢寒之色。百姓戴其君如日月、親其君如父母。」
文王曰「大哉!賢君之徳也。」』(『六韜』巻一「文韜」盈虚 第二)≫
→太公望は、答えていわく「君主が愚かであると、国は危うくなって民が乱れ、優れた君主の下では、国は安らかに国民は治まるもの。幸福か不幸かは、君主次第。天の時に関わるものでもありますまい。」
 文王いわく「古の賢者について、聞かせてもらえますかな?」
 太公望が答えていわく「古の堯が天下を治めていた時代、あれは賢君の治と言えましょうな。」
 「その政治は、どのようなものだったのでしょう?」
 「堯帝の治世においては、金銀の珠で飾り立てることも、見目麗しい衣装を着ることも、奇怪なものにうつつをぬかすことも、世の珍品を収集することも、淫らな音楽を耳にすることも、王宮の壁や部屋を飾りたてることも、柱に優れた彫刻を施すこともなく、庭園に茅が伸びても切りそろえることもしませんでした。
 また、鹿の皮を着て寒さをしのぎ、普段は質素な布の服を身につけ、黒米や粟の飯を食べ、黍の汁をすすり、民に苦役を課すことも、耕作する民の生活を乱すこともありませんでした。心をわずらわせることも、王の側からのはからいもなく、無為のままで事が進んでいったのものです。(中略)憎らしい者であっても功があれば必ずこれを賞し、身近な者であっても罪があればこれを罰し、未亡人や、子供のいない老人、親のいない孤児を養い、災難にあった家を救いました。質素倹約を旨とし、民への搾取も減らしたので、万民は富み、その営みを楽しみ、飢えや寒さにおびえることもなく、堯をまるで太陽や月のように仰ぎ見て、父や母のように慕ったのです。」

『六韜』における堯と『日本書紀』における仁徳天皇。
一応歴史書としての体裁のある『日本書紀』ですが、仁徳天皇の箇所は、主要なテーマともいえる「無為」と「古代の王(堯・湯)」の記述に漢籍の記録のコピーが多く、これを記した意図が読み取れます。

老子(Laozi)。
『民之飢、以其上食税之多、是以飢。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之輕死、以其求生之厚、是以輕死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。』(『老子』第七十五章)
→民が飢えるのは、上の者が取り立てる税が多いから、それで餓えがひどくなる。民を治め難いのは、上の者が作為を加えるから、それで治め難くなる。民が死を軽んずるのは、生を求めることに厚くなるから、それで民は死を軽んずる。生にこだわらない者は、生を尊ぶ者よりも賢い。

参照:The Beatles Taxman
http://www.youtube.com/watch?v=IKIe8AokW8E

今日はこの辺で。


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