はいはい、分かってますね。
荘子ですよ。
え~、荘子について、うんたらかんたら書いていますが、この数回の連作をほとんど理解している人がいます。「柔道」「剣道」「弓道」の次は、
「まんが道」の開祖、手塚治虫であります。
特に、今回は手塚治虫のライフワーク『火の鳥』の鳳凰編を中心に。
まず、最初に、『鳳凰編』の舞台は、奈良時代。生まれたその日に片腕を失うという不幸に遭い村人から蔑まれ続けていた「我王(がおう)」が、陰惨ないじめに耐えかねて村人を殺しすところから物語は始まります。村から逃げ出す時に、一匹の虫を助けるという場面があります。非常に重要なシーンなんですが、
これは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のプロット、
参照:青空文庫 芥川龍之介 「蜘蛛の糸」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/92_14545.html
・・・と、誰でも気づくものですよね。
でも、これ、
チャップリンの『殺人狂時代』でも、使われているんですよ。
参照:Monsieur Verdoux (1947) Charlie Chaplin 1/13
http://www.youtube.com/watch?v=tHf6aVlsgsk
開始後6:45~辺りから。(ちなみに、荘子という人は漆園の管理人でした。)
冒頭で、同じように、殺人犯役のチャップリンが虫を助けています。チャップリンからの影響を自認していた手塚治虫は、芥川の『蜘蛛の糸』と、『殺人狂時代』の双方の繋がりを意識していたと思われます。事実、『殺人狂時代』のヒロインは、犯罪者である主人公の「生物に対する慈しみ」に好感を持った(彼女自身も猫と共に主人公に助けられた)わけで、『火の鳥』での虫を救うシーンというのは、キャラクターの配置においては、むしろ、『蜘蛛の糸』よりも『殺人狂時代』からの影響が強いと思われます。
『モダン・タイムス』のヒロインは、茜丸の恋人で、恵まれない境遇ながら、自由に生きようとするブチのキャラクターと、『殺人狂時代』のヒロインは、極悪人の心の中に光を見出している我王の恋人、速魚(はやめ)のキャラクターに見事に一致しています。出会いも同じです。
参照:当ブログ 荘子と進化論 その13。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200909080000/
次に、『鳳凰編』では、仏師としての茜丸と、奇跡の才能を持った我王の、仏像を彫り上げるシーンが多いわけですが、これは夏目漱石の『夢十夜』からですよね。これは、すでに書きました。
参照:当ブログ 荘子と進化論 その6。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200907250000/
あとは、「鼻」。『火の鳥』の連作の中でも重要なテーマですが、これも芥川龍之介の『鼻』であることは、明白ですよね。
参照:青空文庫 芥川龍之介 「鼻」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html
・・・ここで重要なんですが、「鳳凰編」の中で、茜丸は「輪廻転生」を、我王は「遺伝」と「生死」をテーマにしているというパラレルな流れです。我王の鼻は、遺伝で子孫に受け継がれていまして、輪廻ではありません。『ブッダ』を描きあげる前の手塚治虫が、禅宗に近い表現で、我王の悟りを表現していることを理解出来ている人が少ないですね。奈良の大仏建立の描写は、仏教と政治の癒着によりドグマ化すること、というか、「仏教がさらに仏から遠ざかる」ということへの強烈な批判です。あれは、禅ですよ。手塚治虫は、荘子を意識しながら描いています。
『癩之人夜半生其子、遽取火而視之、汲汲然惟恐其似己也。』(『荘子』 天地第十二)
→らい病の人は、夜中に子供が生まれると、急いで灯火を点けて、生まれたばかりの子供の顔を覗き込む。ただただ『自分の姿が子供に似てしまってはいないか』ということを恐れているのだ。
癩之人というのは、現在の呼び名では、ハンセン病のことです。まさに、我王の「鼻」のネタはここから導き出されたと思います。
容姿が遺伝によって、我王の場合には「業」として、受け継がれていくという発想・・輪廻ではないです。
「荘子」には、多くの病人や障害者が出てきますが、差別的な表現とは言えないものばかりでして、「癩與西施。恢詭譎怪。道通為一。」(おかしな譬えかもしれないが、ハンセン病の患者と、絶世の美女西施は、「道」においては一つである。)(『荘子』斉物論第二)としています。容姿による差別なんて、万物斉同の世界では当然無価値です。
当然、「鳳凰編」にも「夢」と「蝶」は出てきます。これも上手く使っていますね。もちろん「胡蝶の夢」です。
ちなみに、
「鳳凰編」という割には、途中で「ホウ」とカタカナ表記で火の鳥を呼んでいるシーンがありますね。
「鯤(こん)の大きさは、幾千里か分からないほどだ。化して鳥となり、鳥になった鯤は鵬(ほう)という。」(『荘子』逍遥遊篇 第一)
という、荘子の冒頭で大いなる旅に出る「鵬(ホウ)」という大鳥を意識したものかも知れません。
参照:荘子と進化論 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200904180000/
同じく傑作として名高い『未来編』においても、荘子からインスパイアされたと思われる箇所が数多く見受けられますが、面白いところでは、ナメクジの戦争ですね。人類が滅亡してしまった後に、地球に君臨することになるのがナメクジで、しかも知能が発達してから、また同じような争いをするようになる・・・。
これは、もう間違いなく「荘子」の「蝸牛角上の争い」です。
『戴晋人曰「有所謂蝸者、君知之乎?」曰「然。」「有國於蝸之左角者曰觸氏、有國於蝸之右角者曰蠻氏、時相與爭地而戰、伏尸數萬、逐北旬有五日而後反。」君曰「噫!其虚言與?」曰「臣請為君實之。君以意在四方上下有窮乎?」君曰「無窮。」曰「知遊心於無窮、而反在通達之國、若存若亡乎?」君曰「然。」曰「通達之中有魏、於魏中有梁、於梁中有王。王與蠻氏、有辯乎?」君曰「無辯。」客出而君尚然若有亡也。』(『荘子』則陽第二十五)
→戴晋人は尋ねた。
「王様は蝸牛(かたつむり)というものをごぞんじですか?」
王「無論。」
「このかたつむりの左の角の上に触氏の国がありました。また、右の角の上には蛮氏の国がありました。あるとき、両者は領土の争いで数万の犠牲を払いました。そして、残敵を十五日間にもわたって追いかけた末、ようやく引き上げたそうです。」
王「それは、単なる戯言ではないか。」
すると、戴晋人は、「では、現実の話に戻しましょう。王様は、宇宙の東西南北と上下に際限があると思われますか?」
王「無限だろうな。」
戴晋人「ならば、この無限の世界からみて、我々が行き来している国などは、大きな存在だといえるでしょうか?」
王「ん~~。」
戴晋人「この国々の中に魏という国があり、魏には梁という都があり、梁の中に王がいらっしゃいます。この宇宙の中で、王と蛮氏との間で何の違いがございましょうか?」
王は答えた。「確かに、そうなるな。」
人間の争いと、カタツムリ「右の角」と「左の角」の戦争。そして、この宇宙と人間社会の関係を、ミクロとマクロで考えている、荘子らしい話です。
「火の鳥」においても、ナメクジは争い、そして滅亡してしまいます。最後のナメクジはこう呟きます。
『なぜ、私たちの先祖は、かしこくなろうと思ったのでしょうな。 もとのままの下等動物でいれば、もっとらくに生きられ・・死ねたろう. に・・進化したおかげで・・』(手塚治虫『火の鳥』未来編より)
「未来編」の最終的なオチは・・
YouTube pearl jam- do the evolution
http://www.youtube.com/watch?v=FS69fuCOhTM&feature=related
or
YouTube DO THE EVOLUTION
http://www.youtube.com/watch?v=FoNmNmXExZ8&feature=related
これと同じなんですよね。
参照:荘子と進化論 その12。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200909070000/
あとで、推敲します。
今日はこの辺で。