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さて、『インセプション(Inception)』を鑑賞してきました。 やはり、予想どおりでした(笑)。 参照:映画『インセプション』オフィシャルサイト http://wwws.warnerbros.co.jp/inception/mainsite/ 質感として近いのは『コッポラの胡蝶の夢(Youth without youth)』(2007)でしょうが(薔薇が独楽になっただけ)、 日本の作品で近いのは、今敏(こん さとし)監督の『パプリカ』(2006)ですかね? 参照:Youtube Paprika opening song http://www.youtube.com/watch?v=DMcVwXSvmBg&feature=related Paprika Parade 2 無生物のパレード (パト2) http://www.youtube.com/watch?v=9DX2rWe3XjU 『パプリカ』はオープニングがかわいいです(今聴くと、イントロはThe Whoの“Baba O'riley”っぽい) 。 『パプリカ』の原作は筒井康隆のSF小説ですが、夢の中に入り込んで、深層意識の世界で交信していくうちに、他人の夢がさらに入り込んで摩訶不思議な物語が展開されているというところは『インセプション』と同じです。「同床異夢」ならぬ「同床同夢」と「胡蝶の夢」・・・どうしても似てしまいますね。筒井康隆の原作の方では「ハイデガー」「芭蕉」「ユング」と、当ブログで取り上げていて、荘子とつながりのある人々が出てくるところも興味深いです。 そしてアニメ版『パプリカ(Paprika)』では「荘子(Zhuangzi)」と「ユング(Carl Gustav Jung)」を意識したつくりになっています。「うる星やつら ビューティフルドリーマー」と同じように、度々蝶が出てきまして、名作『コレクター(The Collector 1965)』のオマージュも入ってます(筒井康隆の原作には蝶そのものは登場しません)。 参照:The Collector: Butterfly Collection http://www.youtube.com/watch?v=L0ZMjIs6Uh0 ↑のシーンとかは、ユングの言う「集合的無意識」。 大乗仏教でいうと「阿頼耶識(あらやしき)」。 荘子における「胡蝶の夢」の一側面ですね。クオリアの集合体としての「夢」。 参照:Wikipedia 集合的無意識(Collective unconscious) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%90%88%E7%9A%84%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98 同 阿頼耶識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98 当ブログ 荘子と進化論 その44。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201003300000/ 網兩問景曰。「曩子行、今子止、曩子坐、今子起。何其無特操與?」景曰「吾有待而然者邪。吾所待又有待而然者邪。吾待蛇付蜩翼邪。惡識所以然。惡識所以不然。昔者荘周夢為胡蝶、栩栩然胡蝶也、自喩適志與。不知周也。俄然覚、則遽遽然周也。不知周之夢為胡蝶與、胡蝶之夢為周與。周與胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。(『荘子』斉物論 第二)」 →モウリョウは影に向って問うた。「おまえは、動いたかと思えば止まり、座ったかと思えば起き上がっている。なんでそんなに節操がないんだ?」影は応えた。「俺は何かにそうさせられているのさ。その何かもまた何かにそうさせられているのさ。俺は蛇であれば鱗、蝉で言えば羽みたいなものなのかもな。どうしてそうなっているのか、どうしてそうならないのかも分かっていないんだ。」 →昔、荘周という人が、蝶になる夢をみた。 ひらひらゆらゆらと、彼は、夢の中では当たり前のように蝶になっていた。自分が荘周という人間だなんてすっかり忘れていた。ふと目覚めると、彼は蝶の夢から現実の人間・荘周に戻っていた。まどろみの中で、自分は夢で、蝶になったのか?実は、蝶の夢が自分の現実ではないのか?そんな考えがゆらゆらとしている。自分は蝶だったのか、蝶が自分であることなんて・・自分と蝶には大きな違いがあるはずなのに・・これを物化という。 『インセプション』もユング心理学を使いながら、夢の中で物語が錯綜するつくりになっていまして、『パプリカ』も荘子→ユングなんです。最近のハリウッド映画は日本のアニメ作品のリメイクやパクリが多いですが、その底流にいるんですよ。彼が。 『アバター(AVATAR)』の中でも主人公ジェイク・サリーが言います。 “Everything is backwards now, like out there is the true world, and in here is the dream.” 『マトリックス(MATRIX)』の冒頭でも主人公ネオが言います。 "You ever have that feeling where you are not sure if you're awake or still dreaming?" 攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL)で、バトーが言います。 「疑似体験も夢も、存在する情報は全て現実であり...そして幻なんだ。どっちにせよ、一人の人間が一生のうちに触れる情報なんて、わずかなモンさ。」 参照:Matrix VS Gits (ghost in the shell) http://www.youtube.com/watch?v=TG1jAhH6luY&feature=related 「火の鳥 復活編」と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5019 ・・・根本を辿ると、ほとんどが禅であり、荘子なんです。押井守は意図的に荘子を使いますが、荘子の影響は手塚作品にもあるし、宮崎駿にもあります。 技術的な部分やプロットだけでなくて本質的な部分で東洋思想を取り入れているわけです。もちろん、それは市場としての日本や中国を意識したものであることは確かですが、文明論的な視点からも、我々の文化がハリウッドに取り入れられているというのが面白いんです。ま、残念ながら、いまどき荘子をまともに読んでるヤツなんて日本ではほとんどいませんがね(泣)。 『一方では君の世界は嘘の世界であるといえるが、そういっている人の方がまた一方から見ると嘘の世界であるかもしれない。荘子の夢が胡蝶となってフワリフワリと花の上を飛んで歩いて暮らしておった。自分が蝶であるか、蝶が自分であるか、どうか、分からぬのである。また「夢」の荘子がほんとうの荘子か、「現(うつつ)」の荘子がうその存在か、どっちがより多くの現実性を持っているのか。夢に夢見るということもあって、ある角度からすると、この問題は必ずしも閑問題ではないのである。面白いところもないとは言えない。今日われわれが、こうしているとこう思っているけれども、それほど非現実性を持ったものではないかも知れぬ。ほんとうに現実性を持ったものは、そう思っているものを、もう一つ突き抜けたところにあるのではなかろうか。自分にはそう思われてならないのである。これは改めて申し上げたいと思います。 そういうわけで、何が現実であり、何が非現実であるかということは、これはお互いに議論をしてわかるものではない。この今われわれに面していると考えられる世界は、もともと一元であるが、それが意識の発生で、二元の世界にわかれて、それから次へ次へと千差万別の世界になったから、お互いに私のほうが現実だ、お前のほうが非現実だといって暮らすようになって、自分の生きている世界だけが一真実の世界のように思われるようになった。そういう私の方が非現実だ、非現実だと言われるお方があるかもしれない。それにはまたやむをえぬところがあると思う。』(鈴木大拙 「禅の世界」昭和16(1941)年の講演より) 参照:アバター(AVATAR)と荘子と鈴木大拙。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5044 「夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉、覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也、而愚者自以為覺、竊竊然知之。君乎、牧乎、固哉。丘也與女、皆夢也、予謂女夢、亦夢也。」(『荘子』斉物論 第二) →夢の中で酒を飲んでいた者が、目覚めてから「あれは夢だったのか」と泣いた。夢の中で泣いていた者が、夢のことを忘れてさっさと狩りに行ってしまった。夢の中ではそれが夢であることはわからず、夢の中で夢占いをする人すらある。目が覚めてから、ああ、あれは夢だったのかと気付くものだ。大いなる目覚めがあってこそ、大いなる夢の存在に気付く。愚か者は自ら目覚めたとは大はしゃぎして、あの人は立派だ、あの人はつまらないなどとまくし立てているが、孔子だって、あなただって、皆、夢の中にいるのだ。そういう私ですら、また、夢の中にいるのだがね。 ・・・紀元前の荘子が提起したパラドックスは、21世紀の今でも大問題なんです。 同時に、プラグマティズムの国で、無用の用がじわじわと浸透しているんです(笑)。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.08.02 18:18:14
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