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『禮記(らいき)』を中心に「冠昏喪祭」の「祭」をやっています。その続きで「禮運(らいうん)」篇から。 『故人者、其天地之徳、陰陽之交、鬼神之會、五行之秀氣也。故天秉陽、垂日星。地秉陰、竅於山川。播五行於四時、和而後月生也。是以三五而盈、三五而闕。五行之動、迭相竭也、五行、四時、十二月、還相為本也。五聲、六律、十二管、還相為宮也。五味、六和、十二食、還相為質也。五色、六章、十二衣、還相為質也。故人者、天地之心也、五行之端也、食味別聲被色而生者也。故聖人作則、必以天地為本、以陰陽為端、以四時為柄、以日星為紀、月以為量、鬼神以為徒、五行以為質、禮義以為器、人情以為田、四靈以為畜。以天地為本、故物可舉也。以陰陽為端、故情可睹也。以四時為柄、故事可勸也。以日星為紀、故事可列也。月以為量、故功有藝也。鬼神以為徒、故事有守也。五行以為質、故事可復也。禮義以為器、故事行有考也。人情以為田、故人以為奧也。四靈以為畜、故飲食有由也。』(『禮記』禮運) →人間とは天地の徳、陰陽の交わり、鬼神の集合、五行の秀氣である。天は陽として、太陽や星を構成し、地は陰として、山や川を形成する。五行の性質はそれぞれ四季を巡らせ、月は満ち欠けを繰り返す。五行のはたらきは、お互いを求め、失う関係である。五行、四時、十二月、全ては巡って根本へと還る。五聲、六律、十二管の全ては変化しながらも還るべき宮がある。五味、六和、十二食の全ては変化しながらも還るべき質がある。五色、六章、十二衣も同様である。故に人間とは、天地の中心にあり、五行の端である。味覚や聴覚や色彩を見分けてこれを生かす ものである。故に聖人はそこに法則を定め、天地を根本とすることとした。陰陽を端とし、四季を柄とし、天体を紀とし、月を量とし、鬼神を徒とし、五行を質とし、禮義を器とし、人情を田とし、四靈を畜とし、これによって天地を根本として、事物を峻別できるようにした。陰陽を始まりとするので、感情を推し量ることができるし、四季を基準とするので、その日になすべきことががわかる。太陽と星を道しるべとするので、秩序立てて考えることができる。月の満ち欠けを単位とするので、仕事の目安を定めることができる。鬼神を徒とするので、成り行きを見守ってもらうことができる。五行を本質とするので、始まりに立ち返ることができる。禮義を器とするので、円滑にことを進めることができる。人情を田とするので、人の奥底を省みることができる。四靈を畜とするので、飲食を豊かにすることができる。 陰陽と五行によって、「禮」の構造を説いている部分です。いわゆる陰陽五行説というのは、「道教」の枠組みで語られることの多いものですが、『禮記』では、こういう書き方をしています。説明はなくとも骨格はあります。この記述は、多様な思想を再構築している形跡があるので、おそらくは秦代以降の記録だろうと思います。 参照:The hidden meanings of yin and yang - John Bellaimey https://www.youtube.com/watch?v=ezmR9Attpyc 中國算命術之陰陽五行 https://www.youtube.com/watch?v=1oeObHurI3A 『何謂四靈?麟鳳龜龍、謂之四靈。故龍以為畜、故魚鮪不淰。鳳以為畜、故鳥不獝。麟以為畜、故獸不狘。龜以為畜、故人情不失。故先王秉蓍龜、列祭祀、瘞曽、宣祝嘏辭說、設制度、故國有禮、官有御、事有職、禮有序。故先王患禮之不達於下也、故祭帝於郊、所以定天位也。祀社於國、所以列地利也。祖廟所以本仁也、山川所以儐鬼神也、五祀所以本事也。故宗祝在廟、三公在朝、三老在學。王、前巫而後史、卜筮瞽侑皆在左右、王中心無為也、以守至正。故禮行於郊、而百神受職焉、禮行於社、而百貨可極焉、禮行於祖廟而孝慈服焉、禮行於五祀而正法則焉。故自郊社、祖廟、山川、五祀,義之修而禮之藏也。』(同上) →何を四靈というのであろうか?「麒麟」、「鳳凰」、「神龜」、「龍」これを四靈という。故龍を畜とすれば、大小の魚が逃げ出すことはなく、鳳凰を畜とすれば、鳥が逃げ出すことはなく、麒麟を畜とすれば、獣が逃げ出すことはなく、神龜を畜とすれば、人心からはなれることはない。故に先王は亀の甲羅を使って祭祀や祝い事の日取りを占い、祝詞をあげ、制度を設け、それを繰り返した。国に礼があり、官には紀があり、仕事には職があり、礼には秩序がある。先王は、民衆にこの礼が達していないことを憂いて、郊にて帝を祀るのは、天を敬うためである。國にて社を祀るのは、大地の恵みに感謝するためである。祖廟にて祖先を祀るのは、仁の根本に立ち戻るため、山川を祀るのは、鬼神をおろそかにさせないため、五祀は日々の生活を重んじるためである。ゆえに先王は廟には宗人、祝人を置き、朝廟には三公を、學には三老を置いた。王は中心にあって無為であり、前には巫人を、後ろには史書を、卜筮と世話人を左右に置く。王は至正を守る立場にある。郊祭の礼において帝を祀るので、百神はその職責を果たし、社祭の礼において地を祀るので、大地の恩恵は尽きることがなく、祖廟の礼で祖先を祀るので、人々に孝慈の心が芽生え、五祀の礼が正しく行われることで習俗が乱れることがない。郊、社、祖廟、山川、五祀の祭祀により、先王は礼に内在する本義を修めるよう示したのである。 『禮記』では麒(麒麟)と鳳(鳳凰)とあるものの、後の四神のベースも載っています。 参照:儒教の祭祀と天皇家。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201406210000/ 途中に「帝」というのが、百神を統括する天の存在、「社」というのが土地の神であるとあります。他にも「稷」という、五穀の神もありまして、儒教において「社稷」という場合には、国家そのものを指します。周の礼を基準とした政治体制は、「まつり(祭)」と「まつりごと(政)」が同一線上にある「祭政一致」であり、民衆の教化の術として「礼」の活用があったことが見て取れます。 ちなみに、途中に「五祀」とあるのは「生活の神」もしくは「住まいの神」でして、「戸、竈、中霤、門、行」の五神です。このうち「竈神」は日本でもこれを祀る風習がありますが、大陸では、年末の祭竈節(さいそうせつ)にも残る古い神です。 『是故夫禮、必本於大一、分而為天地、轉而為陰陽、變而為四時,列而為鬼神。其降曰命、其官於天也。夫禮必本於天、動而之地、列而之事、變而從時、協於分藝、其居人也曰養、其行之以貨力、辭讓、飲食、冠昏、喪祭、射御、朝聘。故禮義也者、人之大端也、所以講信修睦而固人之肌膚之會、筋骸之束也。所以養生送死事鬼神之大端也。所以達天道順人情之大竇也。故唯聖人為知禮之不可以已也、故壞國、喪家、亡人、必先去其禮。』(同上) →禮は、必ず大一を根本とし、天地を分け、陰陽を転じ、四時(四季)を巡らせ、鬼神に列する。それが降ることを「命」という。天に則る意味である。禮は天の働きを根本とし、動いては地をゆき、列しては事物をゆき、変じては時に従い、それぞれの仕事のたすけとなる。人にある場合には「養」といい、それを行う場合には「貸力」「辭讓」「飲食」「冠昏」「喪祭」「射御」「朝聘」をもってする。それゆえに、禮義は人の証明であり、人間同士の親睦や、ふれあいを深め、筋や骨の結束を強くするものである。生きていてはそれを養い、死してはそれを送り、鬼神に接する手段でもある。天の道に従い、人の情を大切にする。ゆえに聖人は人に欠くべからざるものとして禮を定めた。国を滅ぼし、家を潰し、命を喪う者は、まず礼を捨て去るものである。 始まりに「大一」とあるのが「太一」のことです。儒教でもそこはあまり変わらないですね。 参照:荘子と太一と伊勢神宮。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5176/ 他に儒教の祭祀において対象となるのは、「功績のあった人物」です。 『夫聖王之制祭祀也、法施於民則祀之、以死勤事則祀之、以勞定國則祀之、能御大菑則祀之、能捍大患則祀之。是故萬山氏之有天下也、其子曰農、能殖百穀。夏之衰也、周棄繼之、故祀以為稷。共工氏之霸九州也、其子曰後土、能平九州、故祀以為社。帝嚳能序星辰以著衆、堯能賞均刑法以義終。舜勤衆事而野死。鯀鄣洪水而殛死、禹能修鯀之功。黃帝正名百物以明民共財、顓頊能修之。契為司徒而民成。冥勤其官而水死。湯以寛治民而除其虐。文王以文治、武王以武功、去民之菑。此皆有功烈於民者也。及夫日月星辰、民所瞻仰也。山林川谷丘陵、民所取材用也。非此族也、不在祀典。』(『禮記』祭法) →かの聖王の定めた祭祀は、次のようなものであった。民に善政、善法を敷いた者、死をいとわずに国事に励んだ者、労して国政の安定に励んだ者、天災による災禍を防ぎきった者、国の大患を退けた者。 例えば、萬山氏が天下を治めていたとき、農という者は、百穀を殖産することができた。夏王朝が衰え、周王朝の棄がこれを次いだので、農は稷にて祀られるようになった。共工氏が九州に覇を唱えていたときに、后土という者は九州の平定をなしたので、后土は社にて祀られるようになった。帝嚳は日月の運行を見定め、民衆に教えることができたため。尭は民に公平な刑罰を課し、義によって一生を貫いたために祀られる。舜は勤勉で死ぬまで民衆に尽くして倦むことがなかったため、鯀は洪水による被害を退けようと一生をささげたため、その子、禹は父の事業を継いでそれを成し遂げたため。黄帝は全てのものの名を明らかにし、顓頊はその黄帝の事業を継承して民衆を豊かにしたため。契は民衆の教化に精励してそれを成し遂げたため。冥は治水事業の途中で亡くなったため。湯は寛容につとめて民を暴虐から救ったため。文王は文治によって、武王は武功によって、民衆を危難から救ったため。彼らは民衆を基準として功績の大きかった人々である。また、太陽や月、星々は民衆が仰ぎ見る対象であり、山林、川谷、丘陵は民衆がその恩恵たる財を取る場所であるためこれを祀る。このような要件でなければ、祭祀の典礼に載らないものである。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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