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ヒデアキ9985の日記 [全853件]
いのちを考えるセミナ 2012年5月16日 講師 米沢 慧さん
ケアという臨床 24--老齢とはなにか その2 --吉本隆明さんの遺した課題にふれて(1)ーー
★妄想が文藝・文化を創る
老齢というのは知識としてみると、親とか周辺とかをみて、そこで理解した以上のことはなかったのです。老齢は身体としての自然です。だれもが生きているかぎり、老齢を体験しなければわからないことがあるのです。 老齢を体験することを通して、自らが抱え込んでいる老齢とはなにか、吉本隆明さんは、自身でえぐりだそうとしたのです。 自らが体験したところからみると、老齢という概念はみんなうそだ、と吉本さんは言います。 年齢と身体の衰えが対になっているというわれわれの見解に対して、吉本さんはそういうものじゃないんだよ、と主張しました。 身体の動きがわるくなったから老体かというと、そういうもんじゃないんだ、肉体と精神のバランスが崩れることが老齢なんだ、と吉本さんは言ったのです。 身体が衰えることが老齢化だとぼく(米沢)は想ってきました。 しかし、それはちがうのです。子どもだって身体が衰えることがあるのです。老齢とは身体と精神のバランスが崩れることなのです。 何かを実現しようとする意欲が強くても、できなくなってきて、意欲と行為との間の背離が著しくなります。それは考えることと、それに対応する身体の動きがひとつにならないことなのです。 それはからだの反応が遅れることではないのです。やろうという意志とやるっていう運動の隔たりが大きいこと、それが老齢なんだ、と吉本さんはいいます。 ここから、老いを乳幼児との対比でみてみます。 乳幼児は人生の春です。それに対して老いは老齢になると「超人間」になると吉本さんはいいます。 動物はすべてが反射的に動きます。動物は意思と行為に隙間がないのです。動物は意思と行為がひとつになっているのです。すなわち、意思すると動いているのです。動物神経にたよっているのは、俊敏性と生死が直結しているからです。 これに対して人間は、意思とからだを動かすことに時間差があります。 動物は脳と行動が即一体化します。人間は脳の意欲に対して、からだの動きが遅延をおこします。 考える、つまり妄想が文藝・文化をつくってきました。 動物は意思と行動が一体化しています。流れのなかで行動します。人間は意思と行動に背離が起きてしまいます。極端な場合は意思と行動が分離してしまいます。人間は動物としての身体行動が鈍くなっているのです。 人間そのものが身体行動が遅いのです。そのことが言葉を生み出すことに寄与したと考えられます。 動物神経が老齢世代では鈍くなっているというのは、とんでもない誤解だ、と吉本さんはいいます。 老齢はいつも意思しているのだといいます。けれど、身体の行動を起こすことの間の背離がどんどん大きくなっていくのです。 吉本さんは杖について語ります。足腰が悪くなると杖をつくようになります。これは精神的な頼りになっている。運動行動でたよるために杖をもつのですが、ほとんど歩行に役に立っていないと吉本さんはいいます。だから吉本さんは杖は持たないというのです。 すなわち、老化現象と老化とは違うのです。老化は動物にもくるが、老齢は人間にしかこないのです。老齢は動物からもっともとおい「超人間」の姿です。老齢は乳幼児期への退化ではないし、死にむかう過程の抗いの姿でもないと吉本さんはいいます。 老いの段階にある本人にとっては衰えは老人固有のものだと言えないのです。老齢では、老いと衰えがわけられなくなるのです。 超人間としての老人は、一般社会人より鋭敏なんだ、と吉本さんはいいます。 超人間はあくまで生きることに対してのみ気持ちが向いている状態です。往生際が悪いのです。もっと理屈をいうと、老体になったら相当努力しないと自然死にならないと、吉本さんはいいます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年6月5日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
思考する詩を求めて ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」を読む 第21回
ヴァレリー『若きパルク/魅惑』改訂普及版 中井久夫訳(みすず書房2003年発行)より。引用もとくに断り書きのない場合は本書です。
★虚ろな頭蓋、その永遠の笑み
金と黒との陰鬱な不滅、 恐怖の月桂冠かぶる慰める手は 死を母の胸に変える仕掛け。 美しい偽り、敬虔な計略! 皆知ってゐてなほ背を向ける、 虚ろな頭蓋、その永遠の笑ひに! (海辺の墓地 第18節)
☆(『若きパルク/魅惑』改訂普及版 「ヴァレリー詩ノート」より) 「(「金と黒との陰鬱な不滅......」)ヴィクトル・ユゴーふう、」とあります。(285頁)
☆辞書・事典から ヴィクトル・ユゴー=、1802年2月26日 - 1885年5月22日はフランス・ロマン主義の詩人、小説家。 生まれたときは小柄で、背丈が包丁ほどしかなく、ひ弱な赤ん坊だったといわれる。生後6週間目に一家はマルセイユへ転居した。以降、コルシカ島のバスティア、エルバ島のポルトフェッラーイオ、パリ、ナポリ、マドリード、と主に母親らとともにヨーロッパのあちこちを転々とする。というのも、生粋のボナパルト主義の父ジョゼフ・レオポールと根っからの王党派の母ソフィーの間で政治思想の違いによる確執が生じ、それが夫婦の間に不和をもたらしていたのである。この確執はのちに『レ・ミゼラブル』の、マリユスの父ポンメルシー大佐とマリユスの祖父ジルノルマンの確執の原型となる。 月桂冠=月桂樹の枝葉で作った冠。古代ギリシャで競技の勝者に与えた桂冠。名誉。栄光。また、勝利のしるし。 仕掛け=物事をある目的に合わせて、作りこしらえること。装置。からくり。しくみ。 計略=前もって考えた方法・手順。特に、人をだまそうとするはかりごと。策略。 虚ろ=中がからで何もない。気力や生気を失い、ぼんやりしているさま。むなしいさま。 頭蓋=脊椎動物の頭部の骨格。頭蓋骨の集合体。脳髄を収容している脳頭蓋、顔面を形成している顔面頭蓋に分け、狭義には前者を頭蓋という。
☆解釈 「金と黒との軍服のように陰気でうっとうしく滅びないもの 恐怖の栄光を被って慰める手は 死の恐怖を母の胸の安心に変えるからくり。 美しい嘘、神を深く敬うようなそぶりでおこなうはかりごと。 皆、知っているのに知らぬふりして背を向ける、 中がからで何もない頭蓋骨、その顔面のいつまでも続く笑みに。
☆comment 海辺の墓地の死者たちを描いているとおもいます。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年 6月4日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
◆直訳「歎異抄」 第121回 殿岡秀秋筆
●直訳「歎異抄」 第121回 引用『現代語 歎異抄』(朝日新聞社2008年7月発行)
★寄進ではなくて信心の深さが本願にかなう
☆原文第十八条 --布施の多少ーその6
「いかにたからものを仏前にもなげ、師匠にほどこすとも、信心かけなば、その詮なし。一紙半銭も、仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて信心ふかくは、それこそ願の本意にてそうらわめ。」
☆辞書から いかに=(「いかに...も」の形で)逆接の条件を示す。どれほど...でも。 仏前=仏壇の前 師匠=先生 欠ける=完全なものの一部がこわれる。また、そうして不完全になる。欠如する 一紙半銭=〔一枚の紙と半文の銭〕(寄進などが)ごくわずかなこと。 他力=自己の力で悟るのではなく、仏や菩薩の力を借りること。仏・菩薩の加護のこと。多くは浄土教で、衆生(しゆじよう)を極楽へ救済する阿弥陀仏の本願の力のこと 願=本願=仏・菩薩が衆生(しゆじよう)を救済するために立てた誓願。多く阿弥陀仏の四十八願、あるいは特にその内の第十八願をいう
☆直訳第十八条 --布施の多少ーその5 「どれほど宝物を仏壇の前に投げ、仏道修行の先生に金銭や物品を与えても、信心が欠如していれば、その効果はないのです。ごくわずかな物を仏の悟った真理を信じますという印に寄進しなくても、阿弥陀仏の力で悟るという心を仏に届かせるほどに信心が深いことこそが、阿弥陀仏が衆生を救済するために建てた誓願の本来の真意にかなうことになるのです」
☆Comment ここで唯円は正しいことを述べています。問題は寄進ではなく、信心の深さなのだというのです。そのとおりです。 しかし、多くの宗教教団は昔からたくさんの寄進をする人を大切にしてきました。もっともそれは現世で大切にするのであって、あの世ではどうなっているかは、だれにもわかりません。 肝心なのはあの世です。あの世はないと想えばすっきりするのですが、どうも行ったことがないのでわかりません。 ただ、教団の中にはいって、修行したり、布教活動したりすることが、救いにつながるとはとうてい想えないのです。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年6月3日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
★吉本隆明さんの詩篇から(『吉本隆明全著作集1 定本詩集』から) その40
★エリアンの詩 その4 --〈エリアンは生きてゐたら廿五歳になつたはずだ〉--
4
風の響きよ! 乾いた空の色を触れまわつて いつか落ちたようだ
建築たちは忘れたように眠りかける 夢の奴がひとつ抜け出して 風の後の寂かさを駈けめぐる それから数えきれない 犬の遠吠えがしたものだ!
エリアンよ! 今宵もまた歩くのか おまへの道はひとりの道...... 陶器色の光が差してきて 酔客たちに出遇ふこともない!
久しかった鬱陶しさの果て 未知らぬ通行者になりたかつたのか ひと並の外套を被いで ネオン・シグナルの下に佇ちどまる あゝと思つても胸がおどるようだ!
痛んできた季節のあひだ あんまりひどかつたのだ 少しはおまへの魂をいたはつておあげ!
そうして 無頼者のやうな自由なこころで 逸楽の夢など追はうよ!
☆辞書から ネオン=放電して橙赤色に光るので、ネオン管として利用される。 シグナル=信号 魂=の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられているもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされる。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある。 無頼者=定職をもたず、素行の悪い・こと(さま)。そのような人をもいう。ならずもの。 逸楽=気ままに遊び楽しむこと。
☆comment 「風が鳴っている。乾いた空の色の触れながら吹いてまわっていつか地上に落ちたようだ。 都会の下町の建築物たちは風の響きを忘れたように立ったまま眠りかける。」 これは擬人法です。 「建築物から夢が一つ抜け出して、風の吹いたあとの街の静かさの中を駆け回っている。 それから数え切れないくらいの犬の遠吠えがしたものだ」 「エリアンよ、今宵もまた歩くのか。 おまえの道は孤独の道だ。電灯の光が 白く濁った陶器色の光になって差してくるが 酔っ払いたちに遇うことはない」 「長く重苦しく陰気な気分の果てに 誰からも見知らむ歩行者になりたかったのか 人並みの外套を着て 光る信号の下で立ちどまる ああとため息が出るようでいて 心が踊るようなのだ
心が孤独で痛んでいた思春期から青年前期の間 精神はひどく傷ついていたのだ エリアンよ、少しはおまえの魂をいたわってやりなさい」 「そうして定職をもたず、素行の悪い人のような 自由なこころで 気ままに遊び楽しむ夢を追っていこうよ」
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年6月2日より)http://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
藤富保男さん『詩の窓』第18回--
藤富保男『詩の窓』(思潮社2011年12月25日発行)より 引用は特にことわりのないかぎり本書からです。
藤富保男さん『詩の窓』第18回--3-4「詩の呼吸器について」より
★着想の巧みな詩について
「思うと想うはどのぐらいの違いがあるのか。想うちうことは想像することであらねばいけない。一般的に人は誰でも空想したり無想したりする。このときの心はある一定の距離を持続する。時に階段をのぼるように跳ね上がって、その距離に振幅を作るわけである。 「想」という文字と意味にこだわって、「連想」「着想」そしてもう一つ「奇想」という状態の思いについて改めて考察し、その詩の例証を挙げてみよう」(145頁)
アリ 下村光枝 どこを伝わって来たのか アリが一匹 また一匹 わたしの影を早くも知って逃げ出したが 台所の空間を過ぎた一瞬 家具の間へ身を隠すことで 生きのびているが いつその場を逃げ出すか
運という字はハコブとも読むが ハコブことに専念するアリは 何かをハコブために 必ず家具のすき間から出てくるだろう
目白押に 出てきた 出てきた 体を動かしながら信号を送っている 運命について 話し合っているのだろう (2001年12月)(147-148頁)
☆comment
家の中に主婦が蟻を見つけました。それもぞろぞろ出てきます。戸建住宅ではよくある光景です。作者(主婦)は蟻が家の中でどこを出入り口するかを特定しました。家具の隙間です。そこで退治すれば日常生活そのものです。作者ももちろん退治したでしょうが、もう一つ詩への飛躍も試みました。 蟻はよく白いものを運んでいます。この運ぶという動作に作者は注目しました。そして運ぶという文字に想いがつながっていきました。直観がひらめいたのです。 実際の蟻は知らないでしょうが、家の中の蟻の行列は人に気づかれたら最後退治される運命にあるのです。運ぶから同じ漢字をつかった運命へ作者の連想が起こりました。 蟻が必ず出てくると待つ、作者のもとへ、蟻たちが出てきました。蟻たちは運ぶことだけに専念しているのですが、すでに退治することを決めている作者からみると、蟻たちは自分たちの運、すなわち運命について信号を送りながら話しているように見えたのです。 これは思いつき、すなわち、「着想」の素晴らしい詩です。 ぼくの発想とどこが違うのでしょうか。思いつきからもうひとつ、命のあり方へはいっていきたいのがぼくの目指す「思考する詩」です。
しかし、童話を書いていると、着想の大事さを痛感させられます。 着想の巧みさは、もちろん、詩の構成要素の大切なひとつであると想います。この詩はこれでいいのだ、とぼくは想います。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年6月1日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
フロイト『ヒステリー研究』と詩の理論 その119
テキストは、ヨーゼフ・ブロイアーとジークムント・フロイト共著『ヒステリー研究下』(ちくま学芸文庫 2004年2月10日発行)です。引用もとくに断りのないかぎり本書です。
•☆ 第三章 理論的考察(ブロイアー)
★心の分裂とは何か
「強い強度を備えているにもかかわらず、無意識的である表象を、私たちは意識に参入できない表象を呼ぶことにしたい。 このように意識に参入できない表象が存在することは病理的である。健康者においては、そもそも活動的になりうる表象に十分な強度が備わっていれば、それらはすべて意識にも入ってくる。私たちの患者たちにおいて、私たちは、意識に参入できる諸対象からなる大きな複合体と、意識には参入できない諸表象からなるそれより小さな複合体が隣合っているのを見いだす。つまり、患者たちにおいては、心的な表象活動の領域と潜勢的な意識とは一致していない。潜勢的な意識は、表象活動の領域よりも狭く制限されているのである。患者たちにおいて、心的な表象活動は意識的な活動と無意識的な活動に、そして、さまざまな表象も、意識に参入できる表象と意識へ参入できない表象に分かれてしまっている。すなわち、私たちの論じうるのは意識の分裂ではなく、やはり心の分裂なのである。」(73-74頁)
☆辞書から 無意識=通常は意識されていない心の領域・過程。夢・瞑想・精神分析などによって顕在化(意識化)される。潜在意識。深層心理。 表象=心に思い浮かべられる外的対象の像。知覚内容・記憶像など心に生起するもの 意識=思考・感覚・感情・意志などを含む広く精神的・心的なものの総体。特に対象を認識する心の働き。主観。物質・存在・世界・自然など、客観的なものに対する。
☆comment
心の分裂とは何なのでしょうか。意識にはいってくる、つまり思い出せる表象(心に生起する記憶像)と、意識にはいれない、つまり思い出せない表象(心に生起する記憶像)とが分けられてしまっていることなのです。 意識に思い出せる表象(心に生起する記憶像)と、無意識の表象活動とは分かれてしまっています。そして無意識の表象活動は内部に潜んでいて意識に現れてきません。 このような状態は心の分裂であって、病理的だというのです。 どうしたらいいのでしょうか。普段は想いださない表象(心に生起する記憶像)を想いだすように訓練すればいいのです。やり方は様々でしょうが、ぼくは毎朝の瞑想のときに、ホンの一瞬ですが、過去に潜る井戸に飛び込みます。すると過去のある一場面が浮かんでくるという設定にしてあります。やってみると出てきます。もともと知っていたよ、という記憶がほとんどですが、中には忘れていた記憶がよみがえることもあります。そんなこと本当にあったのかな、というような埋没していた記憶がよみがえることもたまにあります。それはまさに無意識の表象が意識に現れる通路がついた瞬間なのです。そのようにして分裂していた心が狭い通路ではあってもつながるようになるのです。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月31日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
詩と小説のちがい その8 殿岡秀秋
★生命の意志の肉声に言葉を近づけるのが詩
吉本隆明さんは「詩とは何か」(全著作集5文学論2第一部141頁)で、中村光夫の『文学入門』(新潮文庫)文を引用したあとで、さらにポール・ヴァレリーの次の文を引用していますので、ここに孫引します。 「ヴァレリィが『文学論』(堀口大學訳)のなかで『詩は、節調ある言語によって、叫び、涙、接吻、歎息等が暗々裡に表現しようとし、また物体がその外見上の生命或いは仮想された意志によって表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを表現しまたは再現しようとするの試みである。』とのべているのは、中村光夫とほぼひとしい地点にたっている。」
☆辞書・事典から ポール・ヴァレリー=アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー( 1871年10月30日 - 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家。多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。 節調=音節(おんせつ)=シラブル(英語 syllable)ともいい、1個の母音を音節主音(おんせつしゅおん)とし、その母音単独で、あるいはその母音の前後に1個または複数個の子音を伴って構成する音声(群)で、音声の聞こえの一種のまとまりを言う。 節=旋律=メロディ=音楽の基本要素の一。楽音の高低変化がリズムと連結され、一つの音楽的なまとまりとして形成される音の流れ 歎息=たんそく=嘆いたり感心したりしてため息をつくこと。
☆comment 「詩は、節調ある言語」である、ということは中村光夫さんの詩の本質は歌であるというところと等しくなります。 現代詩は五・七の音数律を離れてから、リズムを作りだすことに苦労してきました。今もその状況は変わりません。ただし、本質が歌であり、節のある言語であることを念頭において詩を作るといいのではないかとおもいます。これを意識するだけで詩が変わっていく氣がします。 「節調ある言語によって、叫び、涙、接吻、歎息等が暗々裡に表現しよう」とするのは、中村光夫さんの「歌は言葉であるとともに言葉以前の肉声--または叫び声--です。僕等の感動のもっとも直接な表現です」という内容に当たります。 「また物体がその外見上の生命或いは仮想された意志によって表現したいと思っているらしい、それらのもの、或いはそのものを表現しまたは再現しようとするの試みである」というのは、中村光夫さんの「詩はこの肉声に言葉をできるだけ近づける性格を持ち、そのために言語をその日常社会性からできるだけ解放することを目指します」に当たる内容となっています。 生命の意志の肉声に言葉を近づけるのが詩だというのです。
(この項つづく)
(メールマガジン「詩を作る楽しみ」2012年5月30日号よりhttp://www.mag2.com/m/0000163957.html)
(http://blogs.dion.ne.jp/poem_and_fantasy/=詩とファンタジーのレシピ)
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