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July 24, 2008
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カテゴリ:意見・提言
「アメリカ人は、ドロボーの末裔である。」

こんな衝撃的な文句を、とある本でみつけた。
※原文出展は古書(1975年)です。
地球に生きる倫理―宇宙船ビーグル号の旅から
ガレット・ハーディン (著), 松井 巻之助 (翻訳)
出版社: 佑学社 (1975)
ASIN: B000J9NL62

欧州からの開拓団が北アメリカ大陸に上陸したあとで、
先住民達(Native American)=俗称インディアンを戦争で駆逐し、
結果として彼らからアメリカ国土を盗んでU.S.A.を建国した。
そいつらの末裔は、泥棒のアメリカ人である、と。

ドロボーということばが穏やかではない。
やや米国嫌いの日本人が、意図的にこう訳したのだろう。
このことば自体、そういう一派が作った反米スローガンか何かだと思い、
そのときには、あまり気にも留めなかった。

しかし、心のすみっこで、チョロチョロと火が燃え続けていた。
米国から発せられる各種国際ニュースの数々や、
産業の末端で、ボクが普段アメリカ企業とビジネス交渉するときに、
アメリカでの業界状況や、その企業体質、
アメリカ人のモノの考え方など、
いろんな面でこのことば「アメリカ人ドロボー説」をあてはめてみると、
彼らの思考方法が、いちいち納得できてしまうのである。

ボクは、そのとき、愕然とした。
そしていまも、その思いは否定できず、膨らんでいる。
特に最近のアメリカを見ていると、
彼らの「盗人猛々しさ」が垣間見える。

いままで、アメリカ合衆国の建国の経緯は、
学校の歴史の授業レベルで知っていた。
だけど、その歴史をもってアメリカ人全体を「盗人の集団」とするのは短絡的だし、
血は継いでいるとはいえ、今いる彼らのジジババより昔の話だし、
そう思うことが彼らに失礼だと思っていたので、
無意識に、そう思わないでいた。

しかし、それも限界だ。
彼らは国として世界に向き合うとき、常に暴虐無人である。

京都議定書からの早々の離脱、
サブプライム問題の発生と放置、
銃社会の負の面を是正できない、
世界の正義、ヒーローになりたがる、
浪費することこそが富の象徴=アメリカンドリームと称して否定しない、
どれだけ富んでも自らのスタイルを気にする、
弱者弱小国へ強圧的に迫ることこそ外交、
治安には武器による抑止力しかないと本気で信じている、

自分が一番強いことに執着し、たとえ無茶をしてでも優位は渡さない、
厳しい戒律を破ったら後がないイスラム教の厳しさではなく、
どんな悪いことをしても懺悔によって救われるキリスト教が大好き。
屁理屈でも押し通せればいつか正義に変わると本気で信じている節がある、

悪いことをやっているという自意識があっても、
それを他国から指摘されると意固地になり問題を複雑にして誤魔化そうとする、
(指摘を謙虚に受け止める余裕がない)
トップが桁違いの総取り、最下層が生活ギリギリに近い、貧富の所得格差を認める。

上に挙げたこれだけのチェックポイントだけ見ても、
いくつかハッとするものがあるだろう。
後ろめたい意識のある者(=盗人)がとる行動や、
実際悪いことをしている人間が開き直ったり
逆ギレする行動に、よく符合するのだ。

彼らは、その罪の意識がある盗人である。
しかし罪をわかっているのに直そうとしない、
知らぬフリをして逃げ切れると信じている。
死ぬ直前に懺悔できるだけして、自分だけは天国に召されようとする。
サイテーの盗人である。

ボクら日本人の感覚で、彼らに勧告すべきことを、挙げてみる。
今の世界の安寧には、彼ら盗人の更正が大切であるからだ。

まず彼ら米国人には、
過去の歴史と現状の認識を、謙虚に客観的に考えてもらいたい。
ディベート好きな彼らだが、
残念なことに、他人の立場による想像力や、共感力が全く感じられないからだ。
なぜ「謙虚」でなければならないのか、
その理由が理解できるまでかなり時間がかかると思うが、
ボクら米国外の国々は、あきらめずに諭し続ける必要がある。

同時に、日本人自らも、歴史上ドロボーだったことがある、
ということを自覚し、
謙虚になるきっかけとして、米国を反面教師として
心に留めなければならないとボクは思う。

それは、明治時代に、開拓と称して屯田兵が、
蝦夷地に出兵してアイヌ先住民族を駆逐し侵略したこと。
ボクは北海道在住時に小学校の教科書で、そんな蝦夷の歴史を学んだ。
教科書なので過激な記述はなかったが、
しかし社会正義の教育に燃えていた当時の担任の先生に、
自分たち内地人のやってきたことを知る必要がある、と教えられたものだ。

当時の北海道には、アイヌコタンと称するアイヌ村の資料館があちこちにあって、
アイヌの末裔によって、アイヌ視点での歴史展示をしていた。
それは教科書よりも過激だった。
その展示には、アイヌの誇り、アイヌの血にこだわる精神が感じられた。

成人してから北海道を廻ったが、
そんな社会的なアイヌコタンは見られなくなり、
観光村、文化村としてのアイヌコタンばかりが残った。
木彫りの熊など物産品を直売したり、
アイヌの舞踊をステージで見せたり、
観光業にひっついてアイヌを伝え生きよう、というモノに変貌していた。

彼らは、内地人からの侵略の歴史に対しての怒りを捨て、許し、
共存の方向に踏み出している。
弱い立場のほうが踏み出したその発展的姿勢に、
ボクはアイヌ人の強さを感じる。
内地人として彼らに敬意を払う。

このアイヌの例を考えると、
人は常に、歴史に謙虚に学ばなければならないことを痛感し、
アメリカ人をどうすれば謙虚にさせられるのか、
常に考えながら、ボクはアメリカ人とビジネスをしている。
それはすこしうまくいくようになってきた。
最後にちょっと紹介しよう。

彼らアメリカ人は、ヒトを疑うことから始める人種である。
だから、周りに刃を向けることが普通なのだ。
その刃を下ろさせることが、最初の一歩。
そのために、いかなる時にもこちらは一本筋を通して、
常にフェアであることをボクは心がけている。
疑うことがフツーな「盗人」の彼らから、信用してもらうように。

本来は彼らに変わってほしいのだが、
自分たちでは歩み寄れない、理解できないひとたちである。
上から目線で、そうやって接すれば、彼らに腹も立たない。
そうやって、アメリカ人を教育しているボクだ。

時間かかりそうだけどね。





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最終更新日  July 25, 2008 12:21:07 AM


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