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植木ばさみ 園芸用植木鋏 国治作(東京打刃物)
正直、素人向けの鋏です。購入前、相当悩みましたが案の定でした。本…[>>]
 
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ガーデンデザイナーの日記 [全183件]

2012年5月25日楽天プロフィール Add to Google XML

長勝鋸 対 チルトン窓鋸

N鋸 対 チルトン窓鋸

テスト条件
生樹メタセコイヤ2011年台風風倒被害、切断時 幹径目通750ミリ 直径240ミリ 
せん断道具 改造折込み柄付き鋸

台風15号事務所前メタセコイヤ倒木被害3.jpg

切断前1.JPG

鋸とは、かなり長文なので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8B%B8で調べてください。


鋸の「あさり・あさり」とは
材料の切断が進んでいくと、材料の切断部分と鋸とが接触し、抵抗が増してしまう。それを解消するために鋸の刃には「あさり」と呼ばれる技術が使われている。「あさり」とは、鋸の刃が交互に外側に曲がっていることを指す。

それにより、鋸の厚み以上の太さで切断することができ、材料と鋸との接触による抵抗が少なくなる。また、木屑も外に排出しやすくなり、作業効率が上がるのである。材料によってあさりの大きさも変わり、またあさりの無い刃も存在し今回、テストする二例はいずれも「あさり」のないタイプである。

 窓鋸とは
窓鋸とは、伐木作業に使用されるノコギリで、窓と呼ばれる刃渡り部分のくぼみに切りくずをかき集め、目詰まりを防ぐ工夫がされている構造をいう。

生木と木材の相違
木材とは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%90にあります。調べてください。
切断前の画像

チルトン切断中2.JPG 

長勝鋸切断中4.JPG

伐採したばかりの生木は水分を多く含んで乾燥していないため重い。生木の比重は0.96~0.98木材は乾燥して水分を蒸発させ気乾状態となり比重は0.39(杉材)となる。したがって水分量の多い生木には比重約60%の水分量があるということになり、せん断時に抵抗感が働く。
対象となる鋸は、双方ともアセリが無いため抵抗感が働く。鋸目の数はチルトン鋸が窓から窓まで10目、長勝鋸は5目である。

刃構造比較4.JPG

2、切断時間 チルトン窓鋸 5分 N鋸 6分 ゴムボーイ 8分
長勝鋸講習会では、「何故植木屋の鋸の目は粗いのか」についての質問があったが単純に粗くしないと抵抗が働いてしまうからである。
3、疲労度
チルトン窓鋸: 目が粗いだけに抵抗も無くスムーズな曳き具合。
N鋸:少々目が細かいということもあり、途中抵抗感を感じ途中で鋸の面は動きが鈍くなる。
4、切断面の状況
チルトン窓鋸:抵抗感もなく、やや粗い面になっている。
N鋸:黒い部分は抵抗が働いている部分。
チルトン切断後3.JPG

長勝鋸切断後5.JPG

左は、N鋸、黒くなっている部分は裁断時の抵抗部分。右はチルトン窓鋸
切断面比較日照左長勝鋸右チルトン6.JPG

挽き手にとって挽き切る時間が短いので優っている。しかし、切り口になる綺麗な切断面は刃の粗いチルトン窓鋸より優っている。ちなみに通常刃(ややアセリ有り)は切断に8分かかりまったく伐れない。




最終更新日時 2012年5月25日 17時25分2秒
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2012年4月16日

京都の刃物店創業年と植木鋏について  (3)

2ヶ月に1回のペースで行く京都は、来月にも予定が入っている。今回は、いつも気になっている京都の刃物店です。創業年と植木鋏について調べてみました。

京都の老舗創業番付、京都で戦前というとそれは「応仁の乱の前のことである」ってどこかに書いてあった。重春刃物店 鎌倉時代(1190~1329)なんと822年前です。おそらく戦に付き物なので現代まで続いたのでしょう。

常久刃物は、創業が寛永8年1631年創業から368年包丁や花鋏を扱っている。
ここは、営業時間が短く不覚にも訪問出来ず。しかも1階にあった店舗が3階に移転していました。

金高刃物は、寛永末期に日本剃刀の鍛冶屋を開業し、屋号は「藤原金高」と言いました。江戸末期より、六角堂前に店を移し今に至ります。「刀鍛冶として始まって200年来、それぞれの時代のニーズに合わせて刃物を作ってきた。残念ですがここは休日で見ることが出来ませんでした。寛永末期(1643年)

続いて安重、創業元禄13年(1700)京都の二条城の周辺には当時、刀鍛冶が多く軒を並べていたようです。安重はその中の一件で、後年花鋏や包丁等も作るようになったという。

意外にも京都人ではなかった菊一文字、大阪堺の鉄砲鍛冶で1813~1837 文化13 ~天保 8 年に始まり1886~1943 明治19 ~昭和17年堺宿屋町より京都市下京区四条御旅町に転移、つまり菊一文字は元来堺の鉄砲鍛冶出身で京都の中では新参者であることがわかった。

つまり1826年から1876年を案分しても150年前には、本格的な花鋏や植木鋏の製造や販売が始まったと想像できる。老舗であった安重刃物店では包丁等は元刀鍛冶が槌を振り、植木鋏は大阪堺から入手するようになったのかもしれない。また、重春のように直接槌を振り植木鋏製作していたことも考えられる。

いずれにしても京都内でその後、農具製造していた野鍛冶が追随して発生し口清・正隆などの京鋏が出来上がったのではないだろうか。京鋏の特徴は最初からガタつきがあることその為、座金は堺産と異なり丸鋼でつくられた。口清・正隆が開発された年代はいまだ不明、その後の「重春」「大覚寺」「安広」へと継続された。




最終更新日時 2012年4月16日 13時50分27秒
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2012年3月3日

閑院宮の展示された鋏は、何処の鋏か・・・
[ 愛鋏 植木鋏 ]  

2月10日、再び京都入り。


皇居にはない、御所透かしが御苑透かしであることが解ったので再び御所閑院宮へ



今回の京都入りは、京都御苑内閑院宮の展示された鋏を確認するのが目的。前年、ネットで競り落とした鋏が何処のものかまた、閑院宮に展示された鋏が何処のものなのかが調査目的。



それでは、閑院宮の展示と「御所すかし」です。全体からは、チョキ鎌や鋸で枝を抜いています。


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関東で言う枝透かしもしくは野透かしになるでしょうか。

続いては、小透かしです。


zakのブログ zakのブログ zakのブログ

こちら御所の手入れでは、芽3本のうち真ん中を抜き、魚の尾のようになるのを嫌うと聞いたことがあります。


なので、チョキ(親指と人指し指)のかたちにするのが基本と聞いています。


閑院宮展示品です。


zakのブログ


1741年から1997年256年の松です。



256年間この松は、様々な出来事を見てきています。



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手入れの手法が説明されています。チョキ鎌については、少々強引な絵になっていますがかなり勢い良く突き戻しをしています。


zakのブログ zakのブログ

ツル手とキリバシです。刻印がいまひとつ読めません。キリバシの説明は、根きり鋏として使われていると説明書きされています。



さて、この閑院宮の鋏は、いったい何処で打たれた鋏でしょうか?それではまず、植木鋏研究会のBさんの情報から修学院、知恩院、安広の画像があるので現況下での比較基準としてみた。つづいて京都菊一文字から現在販売されている京型といわれる鋏3丁の画像を参照した。



その前に、この業界の流通がどの様になっているかを整理してみよう。わたしたちが植木鋏を購入するときは、どこで購入するであろう。通常、金物屋もしくは刃物店で購入する。昨今では、インターネットやホームセンターで購入する機会が増えている。それでは、金物屋もしくは刃物店で扱う道具は、如何にして流通されているかご説明しよう。



流通経路は、製造者・刃物問屋・刃物専門店・消費者へと一般的な流通がなされる。小売店である名の通った金物店は、気に入った製造者がいると製品補償同時に独自のブランドを創り上げるために心血を注いだ。製造者とのパイプのないところは仲買人卸が一括してその役を担う。こうして全国の名の通った金物店に○○型の鋏に独自のブランド銘(刻印)が打たれて流通していった。しかし、いつしか小売店の販売システムが崩れホームセンター等で販売されるようになると誰にでも合う安価な植木鋏も流通されていく。



従来の販売システムを固持した専門店は、製造販売ないし刃物専門店として現在でも存在している立派なシステムだ。製造者が数少なくてもそれぞれ自信をもった専門店によって細かな注文に応じてオーダーされ刃物専門店の刻印が刻まれ消費者の手にわたる。これから調査していく植木鋏のなかには、京型という京鋏も存在し地域性にこだわり実際に京都で打たれた物ではない鋏であるかもしれないことも考慮して調査していきたい。わかり易くいうと多少の違いは致し方ないと判断する。



1、例えば座金の形状「菊座」といわれる部分

2、刃部分の形状は、代が代わることで若干の相違が出てくる



植木鋏研究会のBさんの情報から修学院、知恩院、安広の画像と菊一文字京型といわれる鋏3丁の画像を見ていただきたい。それでは、鋏の名称を認識しながら特徴的な部分を示そう。


次回へつづく




最終更新日時 2012年3月3日 8時9分8秒
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2012年2月29日

京都 大阪 パート2  (1)

さて、夕方になったので京都を発ち大阪へ
大阪難波で素敵な大阪らしい帽子見つけました。
何処で売っているのでしょうか。

素敵な帽子加工1.jpg


浅香山駅に9時に待ち合わせの後、
佐助さんのところに打ち刃物の実演を見学に行きます。
今回は2度目です。
しかも11月だったので4ヶ月前でしたが何度見ても気持ちが張ります。
こちら9時~12時までたっぷり堪能していました。


DSC00294.JPG

DSC00295.JPG


3寸2分と6寸刃は、裏隙側に刻印が打たれています。

合成画像価格無1.jpg

皆さん真剣な面持ちです。っていうか正面からの画像がありません。


刃付け作業の様子です。

DSC00293.JPG

佐助さん。ほんとうは、堺刃物祭りなのに火を入れて待っててくれました。

見えるでしょうか・・・各ツル手の木型です。

これで様々なツル手が出来上がります。


DSC00297.JPG


今回は、二振りの刈込みが注文されました。
わたしも佐助基金を積み立てて今代の刈込みを
お願いしょうかと思っています。



午後は、あれ?2度目・・・だったかな。

河内長野の「正貞」さんにお邪魔しました。前回購入したツル手鋏

9泉州正定2011-04-08.JPG

80歳で現役バリバリです。

今回、購入した刈込バサミ、泉州特有の竹指し刈込みです。
前回ほしかったのですが今回悩んだ末、5寸刃に決定しました。
厚み・重さ・扱い易さ共に最高の刈込みを手にいれました。

竹指し5寸刈込み原3.jpg


竹指し5寸刈込み原2.jpg

早速、籐を巻いてみました。

その日の午後、夕方から野外バーベキューの始まりです。

なんと午後3時から夜11時半にかけて

ダラダラと酒飲み特有の管を巻きながら・・・、


「くだをまくとは、主に酒に酔った時、
とりとめのないことや不平不満など、
訳のわからないことをぐずぐず言うこと。」


を言うらしい。まさにそのとおりで実のある話は
おそらく数分だったと思う。いや、数秒だったかも・・・
それすらも記憶に無い夜が過ぎていきます。

叩きまくってますが、次の日は覚えていないようです。
しかも皆、興奮してイスがあるのに座ろうとしません。
いったい何を食べ、何を飲んでしまったのでしょうか・・・

20120211220615.jpg

この夜、住谷さんと白枝さんが加わり・・・なんだかよく判らなくなっている状態です。肉眼では見えませんが、飲みすぎて陽気を吐いています。

20120211101746.jpg

次の日の朝です。皆、普通にしていますがおそらく酔っ払いです。朝には、住谷さん、白枝さんが旅立ち、近くのファミレスで朝カレーや和膳で食事ご一路ボクのリクエストで

旧藤田邸跡(藤田伝三郎邸)へ



http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008801.html

水の都・大阪を代表する毛馬桜之宮公園では、淀川リバーサイド地区の公園整備を進め、旧藤田邸跡を整備し、石組みや築山による景観を残した文化財的価値の高い緑豊かな日本庭園


この後は、天王寺で昼飯、ここで武蔵さんが帰路に。お疲れ様でした。
続いて

慶沢園住友別邸

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000008995.html

天王寺公園内の慶沢園。もと住友家茶臼山本邸内の庭園で、
木津聿斉の設計にて、京都の名庭園師小川治兵衛の手によ
り明治41年に着工し、大正7年に完成。



見た感想ですが、率直に申し上げると既に施主としての
意向や趣旨といったものが消え残された「遺跡」のよう
に感じてしまったのは私だけでなく私たちが感じてしま
たことは共通した感覚のようです。



この後は、通天閣界隈で「二度付け無し」の揚げ物で
ダラダラと呑みダラぁ~


20120212153735.jpg


と、ここで最終新幹線に間に合わなくなるのでここで私も
帰路に発ちます。



お疲れ様でした。楽しかった2日間です。

今度は、是非こちら鎌倉企画を立てましょう。


最終更新日時 2012年2月29日 10時43分55秒
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2012年2月13日

植木鋏研究会の新年会

今回は、11日・12日が植木鋏研究会の新年会。

しかも今まで面識のない方々も多数。

どうもでした。皆さん

さて、今回もやっぱり乗り込みは京都、前泊が心斎橋。

京都は、前々回から地下鉄とバスめぐりで挑戦。

出来たばっかりの八条口ジャス、コフードコートで昼をとり「乗る&歩く京都」を購入

まずは、近いので東寺「観智院」冬の公開企画で茶室と庭の見学。

ああ でも、やっぱり京都のバスめぐりは難しい。

京都御苑から銀閣寺方面に行こうと思ったら教徒日銀前、あれ間違えた。

今一度丸太町通にもどって銀閣寺方面、100系統で銀閣寺前「橋本閑雪記念館」へ

その後、時間が5時近かったので京都駅へ一路東山通。あれ坪田さんお休みだぁ。

京都から大阪へ・・・いやーさすが大阪。しかも連休ハナ金10日。元気な夜でした。

翌日は、打ち刃物「佐助」さんにほど近い浅香山駅9時に待ち合わせでした。

気持ち勢い余って8時半に着いちゃいました。9時に待ち合わせなのに誰もいません。

あれ、やられちゃたかな・・・・

とおもったら佐助さん方向から6人、揃って迎えてくれました。

はじめまして、松原さん、むらじさん、武蔵さん。 そして、なじみのさとちゃん、欣也さん、ぞのさん、ノブオさん。

すいません。


つづきは、この次・・・・


最終更新日時 2012年2月14日 13時45分45秒
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2012年1月17日

京の「御所透かし」
[ 愛鋏 植木鋏 ]  

2011年4月、いつもは行かない場所であった京都御苑、修学旅行からおよそ38年ぶりの御苑。38年前の記憶はただ広く、時代のターニングポイントであった程度の見識しかない。その年の11月再び京都へ、今回は打ち鎌の調査も兼ねて成瀬金物「カネブン」の打ち鎌と現当主大隈刃物のキリバシを求めて訪れた。

DSC07651.JPG

その際、御所にある松の手入れに興味を抱いた。2010年秋、修学院離宮・野村碧雲荘を見学、碧雲荘は約7千坪に及ぶ庭園だ。そして京都御苑、苑内の広さつまりスケールは、910000平方メートル、27万坪およぶ苑内にあるアカマツやクロマツの樹形に順ずる管理状況が気になっていた。およそ100年を超える樹形への手入れがどのようにして行われているのか興味深いものがある。

池4.JPG

「国民公園」京都御苑の個性と松の「御所透かし」(平成13年度 日本造園学会研究発表論文集(19)) 別タイトル The Characteristics of the Kyoto-Gyoen "National Garden" and "Gosho-sukashi" Pine-Pruning there(PAPERS OF THE 19th SCIENTIFIC RESEARCH MEETING)

作成者(著者) 井原 縁 別作成者(著者) IHARA Yukari 公開者 社団法人日本造園学会 別公開者 The Japanese Institute of Landscape Architecture 正式発行日(W3CDTF形式) 2001-03-30 内容記述 所属名 : 京都大学大学院農学研究科

学会研究発表論文概要によれば
現在の「国民公園」京都御苑では、御苑造成時から共存している「皇室苑地」と「公園的利用の場」という2側面に基づく二律背反的な要素が多数共存しており、この内包する要素の多様性こそが個性といえる。

本研究では、まずその個性が形成された京都御苑の歴史的経緯を辿り、その後、「御所透かし」という特殊な技法が、その個性を守っていくうえで非常に重要な要素のひとつであることを考察する。

「御所透かし」は、皇室苑地」という側面に付与される要素であると共に「公園的利用の場」という側面にも寄与する要素であり、時代を経て継承されてきた重要な文化財的要素であると共に松の手入れという景観構成要素でもあるからである。とあ。

内容は、
序説に「国民公園」定義域が説かれ京都御苑「国民公園」の区画資質、京都御苑となる歴史背景と明治2年の東京遷都、その後の第二次大戦前と戦後までの間に明治11年「大内保存」の号令のもと整備され続いて「即位大礼」をもって大正2年から3年の大改修によって苑内植栽の充実を図った。その後、明治10年~16年にかけ「大内保存」事業が布かれ明治17年には葵祭りが復活した。当時は、景観よりも火災延焼による防火植林に重点が置かれたようだ。

苑内65haには、クロマツ約2600本、アカマツ1000本がある。これらの松は、この地独特の自然の形のままで手入れされる「御所透かし」という手法が取り入れられている。
この論文を読むだけでは具体的な技法が浮かび上がらない。また、京都という地域性特徴がつよいので「御所透かし」他に「寺透かし」や「町屋透かし」ことばがあると紹介されている。京都という地域での管理単位表現として捉えたい。
「御所透かし」
比較的厚く仕上げて広い空間にメリハリをつけ、樹木の存在感をだす自然風仕上げが要求される。
「寺透かし」詳細表現はない。
「町屋透かし」樹形の刈込みをはっきりと見せ、目の近さに耐えうるきめの細かさが要求される。
これらは、昭和10年からこの御所に出入りしている小島造園によると「小枝の先が止まっていない、のびのびした枝ぶりの自然樹形に近い形に仕上げる技法であると小島佐一の弁であると記している。具体的な道具が描かれていないのでどのような手入れなのか想像しがたい。

同じく国民公園の東京皇居前広場には、約2000本のクロマツが東京湾に浮かぶ小島に見立てた島々に植えられている。皇居の深い森と対照的に、開放的でしかも荘厳な雰囲気の 国民公園・皇居外苑の景観となっている。明治21年の「皇居御造営」完成後のクロマツなどの植栽整備事業が行われ、その後の整備を経て今日のような美しいクロマツ群ができ上がった。しかし、ここでは京都御所にみられるような「御所透かし」のような名称や管理方法はない。

皇居松1.JPG

皇居松接写.JPG

東京遷都後、公家屋敷を形成していた京都御所周辺は大量の空き家の町となり荒廃した。この状況を嘆いた天皇は、明治10年(1877年)御所の保存を命じ、京都府が火災延焼を防ぐため御所周辺の空き家となった公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑の始まり。昭和24年(1949年)には国民公園として広く開放された。現在は京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁、2005年4月に開館した京都迎賓館は内閣府が、それ以外は環境省が管理している。

御苑内の閑院宮の展示品に管理道具「木鋏、両手、」が展示されているという。何故そこに展示されているかも含めてふたたび御所に訪れ確認したいと思う。いずれにしても1869年(明治2年)に東京遷都され143年が過ぎ、1935年(昭和10年)小島佐一が御所の管理を行ってから77年が経っている。



最終更新日時 2012年1月17日 9時45分44秒
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2011年12月23日

第五の不思議、最終回
[ 近代別荘・別邸史 ]  

第五の不思議、音二郎一行は、どの経路で団十郎を訪ね、葬儀時、何処を道普請したのだろうか?

「鄙びたといっても、茅ヶ崎には団十郎の別荘もある。梨園の長者である団十郎を、音二郎が表敬訪問すると、「松籟の音や波の音が、いまにも頭の上へ落ちて来そうに思われるので、夜などは物すさまじゅう感じますわえ」と療養中の団十郎は言った。茅ヶ崎はまだそんなところだった。」
山口玲子著小説「女優貞奴」第5章 女優開眼

茅ヶ崎の魅力に早くに気付き、別荘「孤松庵」を設けたのが「劇聖」と呼ばれた歌舞伎俳優九代目市川団十郎(1838 - 1903)。今から100年以上前、東海道線茅ヶ崎駅が開設される前別荘地として、芸能ゆかりの地として開かれていく茅ヶ崎のまちの物語はこの団十郎別荘から始まる。

この屋敷で六代目尾上菊五郎など次代を担う若い歌舞伎俳優も育った。したがって茅ヶ崎は近代歌舞伎伝承の道場であったともいえる。団十郎は1903年明治36年9月13日茅ヶ崎の別荘(孤松庵)で亡くなっている。茅ヶ崎での葬儀で弔問客のため駅から団十郎邸までの道普請や道案内に奮闘したのが高砂(たかすな)緑地の住人川上音二郎であった。では、それは、何処の道だったのだろう。

これはよく知られたエピソードであるが、この時川上一門と福井茂兵衛は、弔問客に備え茅ヶ崎停車場から団十郎別荘かまでの道の整備にあたり、全国へ指令を出して新派劇を一日休演させた(注28)この間音二郎は大磯蹌浪閣に伊藤博文を訪ね、20日の青山斎場での本葬のための弔辞を依頼している。

一国を代表する俳優を葬るのに国家が顕彰するのは当然との西洋での見聞を訴えたのだろう。前代まで最下層の身分に置かれた俳優のために一国を代表する元老の弔辞は、異例のことであった。斎場でこれを代読したのが音二郎である。

15日、遺体は茅ヶ崎駅から東京の本邸に向け搬送されるのだがその前にわざわざ村内を一周して別れを告げている。団十郎の遺志であったのだろう。茅ヶ崎駅から貨車を貸切り、棺は鉄路東京築地の本邸に送られたのだがこの時駅頭で棺を見送る一人の少年がいた。6歳の土方与志である。このことについては前号島本千也氏の論文でも触れられている。端なくも茅ヶ崎駅頭で三世代の代表的な演劇人が会したことを記念する風景である。

注28 注1-6「そこで停車場から師匠の別荘までは一里余もあり、五つも路があって、川上さんの前を通るのが一番近路なので、小川があった処へ橋を架け、所々へ杭を立てて堀越(団十郎の本名)道という貼紙をしてランプを吊り下げたのですが、実にこの機転で東京から来た人達は助かったのです。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より小川稔氏文

今昔マップM29からM42路マーカー.jpg

今昔マップT6からT13路マーカー.jpg

地図左明治29年から42年、地図右大正6年から13年

茅ヶ崎町の中心は、1921年大正10年にはすでに駅北側に形成されている。新町地区と西へ旧東海道筋まで宿場町らしい商店街が形成されている一方、駅南側にはまだ家屋は少ない。南湖へ向かう人は、駅を降り、一旦北口へ出て、商店街から左折して、踏切(現在の地下道)を渡っていたと考えられる。

駅南側に改札が出来るのは茅ヶ崎駅開設からずいぶん経ってからである。昭和2年9月21日、新田信茅ヶ崎町長の覚書に1923年大正12年南湖院長高田畊安から南出入り口を開設する必要なる土地を率先無料にて鉄道省へ寄付せられたるに対して感謝の意を表している。ヒストリア茅ヶ崎2011第3号より

1903年明治36年、博文館の雑誌『太陽』12月号に載った江見水蔭「霙」の冒頭に次のように描かれている。江見水蔭は、1903年明治36年1月25日、川上音二郎一座の翻案劇『オセロ』の本読みに茅ヶ崎館を訪れている。この時の経験が小説「霙」になったもの。
  
「砂の白きに埋れて青麦未だ芽を見せず。桑に葉は無し甘藷は蔓のみの畑。これを幸ひの間道にして、行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。路ならぬ路を踏んで砂山を越し松原に入り、未だ初雪を見ぬ此頃に梅の咲く宿を訪れた。」 

「行来の人の足跡の多いのに釣込れた我、正しき路を捨て。つひ此方を取って行く茅ヶ崎停車場の裏手。」と、正式な出入り口ではないが、停車場の裏手からの路がすでに出来ていたようである。駅南側の海岸地区が次第に開発され、人の往来が多くなれば自然と道(踏跡)が開かれたものと考えられる。

 1923年大正10年測図の地形図では駅南側に、4~5軒の建物が確認されるのみである。駅の改札口があったかどうかは不明であるが、駅を降りた乗客が南口を利用しているのは理解できる。おそらく、各別荘や南湖院への案内・送迎の人力車(タクシー)の拠点が出来ていたと考えられる。
文 地理・地域研究者 島本 千也(しまもとかずや)

震災前の南高砂山付近.jpg


最終更新日時 2011年12月23日 11時56分14秒
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