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タマ&ピヨ の 日常☆彡 [全2898件]

2012/05/11楽天プロフィール Add to Google XML

  (oё)/ ナイチンゲール・デー 【看護の日】 の日 (12/05/12)
[ 今日は何の日? (05/09 up) ]  



■ ナイチンゲール・デー 【看護の日】 の日

フローレンス・ナイチンゲール(1880年~1968年)の誕生日にちなみ、1920年(大正9年)、近代(きんだい)看護(かんご)の基礎(きそ)を築(きず)いた功績(こうせき)を讃(たた)えるため、赤十字社が制定(せいてい)しました。

■ まめ知識

世界の偉人の伝記シリーズに必ず登場する人物なので、ご存知の方も多いと思いますがいま一度、ヘレン・ケラーは、1882年(明治15年)1歳7ヶ月のときに脳症の疾患により、目が見えず、耳が聞こえず、話もできなくなるという【三重の障害】をおいました。

そして、1887年(明治20年)およそ7歳のときに、家庭教師として派遣されてきた弱冠20歳のアン・サリヴァン先生に出会い、その後、先生の熱心な指導と本人の努力で大学を優秀な成績で卒業し、障害者の教育と福祉、そして世界平和のために〔全生涯〕をささげた方です!!

※ アン・サリヴァン先生は、その後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになります。

■ ヘレン・ケラー 〔本名 ヘレン・アダムス・ケラー〕

1880年(明治13年)06月27日 アメリカ合衆国のアラバマ州 タスカンビアで誕生しました。

1968年(昭和43年)06月01日 享年87歳で、その生涯に幕をとじました。

※ ヘレン・ケラー戦前、戦後と日本を3回訪問しています。

でっ話は戻りますが、そのヘレン・ケラーが心の支えとし、人生の目標とした人物が日本の、しかも埼玉県民だったことをご存知でしょうか?

■ ヘレン・ケラーが心の支えとした日本人

初めて日本を訪問したヘレン・ケラーが、埼玉県浦和市(現さいたま市)の埼玉会館で講演したとき、次のような言葉で話し始めました。

「私は特別な思いをいだいて、今日、この埼玉県にやって参りました。いつか日本へ行ってみたい…そうしたら必ず埼玉を訪ねてみたい、そう願ってきました。それが今日やっと実現したのです。こんなに嬉しいことはありません。なぜなら私が心の支えとして、人生の目標としてきた人物が、この埼玉の方だったからです。その方のお名前は[塙 保己一 はなわ ほきいち]先生と言います。」と。

世界中で、偉人としてその名が知られているヘレン・ケラーその人の口から、埼玉県ゆかりの人物が自分の心の支えであり、人生の目標であったと聞かされて、満員の会場の人たち誰しもが大変驚いたそうです!!

■ 塙 保己一 (はなわ ほきいち)

塙保己一とは、1746年延享(えんきょう)3年、保木野村(ほきのむら) (現在の埼玉県本庄市)で生まれ、7歳の時に病気のため失明。盲目ながら、日本全国に散らばっていた多くの古い記録や史料を41年かけて集め、分類、整理して「群書類従 (ぐんしょるいじゅう)」を出版し、埼玉県の三偉人として、世界的な学者としても有名な方です。

因みに埼玉県で初めて設立された埼玉県立盲学校の校名が、今年から「県立特別支援学校塙保己一学園」に変更されています。

余談ですが、この学校のバスを近所の駅前で見かけました。

そして、ヘレン・ケラーが日本で最初に訪問したのが東京・渋谷の温故学会(おんこがっかい)で、こちらには保己一のブロンズ像や数々の遺品、それに「群書類従」の版木が保管されており、ヘレン・ケラーはそれを何度も両手で触れて、この自分と同じ重度の障害者である学者の「人と偉業(いぎょう)」に思いをめぐらせ、ヘレン・ケラーは思わず「私は幼いときから、この日本の盲目の偉大なる学者、塙 保己一先生のことを、母から聞かされ育ち、先生を尊敬し、その偉大な業績(ぎょうせき)に励まされて勉強し、精一杯の努力をしました。その結果、目が見えず、耳が聞こえないために、話すことも難しかった私が、途中でくじけることなく学問を続けることができました。そして現在の私があるのです。」と歓喜の思いを表したのだそうです!!

■ 予備 知識

ぐんしょるいじゅう 【群書類従】

古代から、江戸時代の初めまで、千年以上にわたって、多くの人たちが書き残した千八百五十一種類の貴重な文献や書物を項目ごとに分類した大文献集です。

全て保己一の責任のもとで、企画、編集、校正、出版、販売がなされました。また、今日でも、国の内外において日本を研究するためには、欠かせない歴史資料であると言われています。

余談ですが塙保己一は群書類従の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていました。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっています。

■ 温故学会 (おんこ-がっかい)

日本の文化史上に輝く塙 保己一の業績とその人物を広く伝えるために設立された芸術文化団体です。

その代表的な業績である大文献集「群書類従」は、200年以上たった現在でも、当時と同じように国内外の求めに応じて、当時の版木から刷りたてられ、活用されています。

何度も危機にあいながらも、版木は一枚も欠けることなく堅固(けんご)な書庫に保管されており、いつでも見学することができます。

■ 延享 (えんきょう)

江戸中期、桜町・桃園天皇の時の年号。1744年2月21日~1748年7月12日。



最終更新日時 2012/05/12 0:58:07 AM
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  (oё)/ ヘレン・ケラーが、日本を初来日した日 〔2012/05/12 予備資料〕
[ 今日は何の日? (05/09 up) ]  


1937年(昭和12年)04月15日は、"奇跡の人"
ヘレン・ケラーが、日本を初来日した日です。

※ 因みに戦前、戦後と日本を3回訪問しています。

ところで、世界の偉人の伝記シリーズに必ず登場する人物なので、ご存知の方も多いと思いますが、そのヘレン・ケラーが心の支えとし、人生の目標とした人物が日本の、しかも埼玉県民だったことをご存知でしょうか?

■ ヘレン・ケラーが【心の支え】とした日本人

初めて来日したヘレン・ケラーが、浦和市(現さいたま市)の埼玉会館で講演したとき、次のような言葉で話し始めたそうです。

「私は特別な思いをいだいて、今日、この埼玉県にやって参りました。いつか日本へ行ってみたい…そうしたら必ず埼玉を訪ねてみたい、そう願ってきました。それが今日やっと実現したのです。こんなに嬉しいことはありません。なぜなら私が心の支えとして、人生の目標としてきた人物が、この埼玉の方だったからです。その方のお名前は[塙 保己一 はなわ ほきいち]先生と言います。私は幼いときから、この日本の盲目の偉大なる学者のことを、母から聞かされ育ち、途中でくじけることなく学問を続け、今の自分があるのも先生のおかげだからです。」と。

世界中で、偉人としてその名が知られているヘレン・ケラーその人の口から、埼玉県ゆかりの人物が自分の心の支えであり、人生の目標であったと聞かされて、満員の会場の人たち誰しもが驚いたそうです。

■ 塙 保己一 (はなわ ほきいち)

塙保己一は、延享3年(1746)、保木野村(ほきのむら) (現本庄市)生まれ。7歳の時に病気のため失明。盲目ながら、日本全国に散らばっていた多くの古い記録や史料を集めて分類、整理して出版しました。これが、「群書類従 (ぐんしょるいじゅう)」です。

因みに群書類従の版木(はんぎ)は、温故学会(おんこがっかい)という芸術文化団体に大切に保管され、200年以上たった現在でも、歴史研究に当時の版木から刷りたてられ、活用されています。

余談ですが塙保己一は群書類従の版木を製作させる際、なるべく20字×20行の400字詰に統一させていました。これが現在の原稿用紙の一般様式の元となっています。

■ ヘレン・アダムス・ケラー

1880年06月27日 アメリカ合衆国のアラバマ州タスカンビアで誕生。

1968年06月01日 死去。87歳没

■ 1882年、1歳7ヶ月のときに熱病にかかり、目が見えず、耳が聞こえず、話ができなくなってしまったという【三重の障害】をおってしまいました。

1887年03月03日(約7歳)にヘレン・ケラーの家庭教師として派遣されてきたのが、大学を優秀な成績で卒業した、当時弱冠20歳のアン・サリヴァン(通称アニー)でした。

※ 彼女はその後約50年にもわたってよき教師として、そして友人として、ヘレンを支えていくことになります。

ヘレン・ケラーはその後、先生の熱心な指導と本人の努力で大学を優秀な成績で卒業し、障害者の教育と福祉、そして〔世界平和のために全生涯〕をささげました。

■ 豆知識

盲・ろう・養護学校→特別支援学校

特殊学級(障害児学級)→特別支援学校

2009年より、埼玉県立盲学校の校名が【県立特別支援学校 塙保己一学園】に変更されています。



最終更新日時 2012/05/12 0:52:12 AM
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  (oё)/ 【知床旅情】 (しれとこ りょじょう) 2012/05/11 資料 
[ レク歌 知識系 (04/28 up) ]  


作詞 森繁久弥(もりしげ・ひさや) 作曲 森繁久弥 唄 加藤登紀子

(1) 知床(シレトコ)の岬に はまなすの咲く頃
  思い出しておくれ 俺達のことを
  飲んで騒いで 丘に登れば
  遥か国後(クナシリ)に 白夜(ビャクヤ)は明ける
  
(2) 旅の情けか 酔うほどに さまよい
  浜に出てみれば 月は照る波の上
  今宵こそ君を 抱きしめんと
  岩影に寄れば ピリカが笑う


(3) 別れの日は来た 羅臼(ラウス)の村にも
  君は出て行く 峠を越えて
  忘れちゃ嫌だよ 気まぐれ烏(カラス)さん
  私を泣かすな 白いカモメよ
  白いカモメよ

* まめ知識 *

知床を舞台にしたご当地ソング。知床とは、北海道北東部に位置する知床半島一帯をさす。知床国立公園があり、2005年7月17日には世界遺産に登録された。

楽曲制作者は、俳優業のほかに歌手としてNHK紅白歌合戦への出場歴もある森繁久彌である。森繁が1960年の映画『地の涯に生きるもの』の撮影で知床半島羅臼に長期滞在した際に制作され、その最終日に羅臼の人々の前で『さらば羅臼よ』という曲名で披露された。1962年の大晦日に放送された第13回NHK紅白歌合戦では、森繁自身によって披露された。



最終更新日時 2012/05/11 2:03:04 AM
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