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QBスニーク

◆化学療法◆

 初めての化学療法(寛解導入治療)が始まったのは,転院後一週間経った月曜日であった.この日の朝の血液検査の結果,白血球数は24000まで増加していた.急性骨髄球性白血病の兆候が現れていた.化学療法に使う薬は,同じ薬でも細胞を殺す薬であるから,身体へのショックはかなり大きいものであった.その日の夜には尿の出が悪いということで,利尿剤を投与された.利尿剤を投与されると数時間おきに尿意を催し,そのたびに目覚めることとなり,十分な睡眠は得られなかった.下痢も日に日にひどくなり,口内炎もおかゆでさえ食べられないほどひどいものであった.24時間点滴に繋がれっ放しの状態が数週間続くと思うと,気持ちも萎えてしまった.それから,一週間の治療期間中は日記も書けない状態であった.

 一週間後の月曜日,寛解導入治療が終わった.その日の朝の血液検査の結果,白血球数は1300まで減少していた.これから,さらに白血球数は減少するという説明を受けた.薬の威力の凄まじさに驚いた.治療開始から2週間後,ヘパロック.2週間ぶりに点滴から開放された.身体の状態はどん底なはずなのに気持ちは晴れ晴れしていた.寛解導入治療によって,治療開始16日後には白血球数が600まで減少した.結局,この値が第1回目の寛解導入治療の白血球数の下限値となった.

 治療開始後3週間くらいたって,頭髪が抜け始めた.予め治療開始後2~3週間で頭髪が抜け始めるという話は聞いていたし,いつ抜け落ちてもいいように短く刈り込んでもいた.それでも,ある朝目覚めて,枕が自分の抜け落ちた頭髪で覆われている光景をめにしたときは,さすがにショックであった.恐る恐る鏡を覗いて,またショックを受けた.中途半端に残っている頭髪が痛々しさを増していた.本当はしてはいけないことだとわかりつつ,手で頭髪をかきむしってしまう自分がいた.頭髪は桜の花びらが散っていくように,パラパラとベッドのシーツの上に舞い落ちた.完全に頭髪が抜け落ちるまでは,バンダナが手放せなかった.面白いことに生え際が最後まで残っていた.抜け落ちた頭髪には毛根が無かった.ちょうど頭皮表面の辺りで切れていた.頭皮に抗癌剤の成分が分泌するため,その部分で溶け切れてしまうのだろうと勝手な推測をした.真偽の程は今現在でも未確認である.

 ちょうどこの時期に,親族(両親と姉)のHLAの適合検査結果が出てきた.最も確率が高い(1/4)はずの姉のHLAも不適合であることが明らかになった.もともと骨髄移植を前提にしていたため,骨髄バンクへの登録手続きを進めることとなった.担当医師団の一人の若い医師は「移植まで1年も掛かりませんよ.きっと」と話してくれた.会社の有志からHLA検査を受けたいとのお話もあったが,適合する確率はほとんど無いとのことであった.親族間移植の可能性が無くなったことから,かなり長期に渡る闘病生活を余儀なくされることを覚悟した.

 その週末(第1回化学療法の1ヵ月後)に,初めての外泊許可(2泊3日)が降りた.白血球数は1900まで増加していた.不思議なくらい元気で,家族,特に普段会うことが出来ない子供たちに会えることが嬉しかった.控えた方が良いと言われた外食にも出掛けた.決してお勧めできることではないが,このときの食事の光景は今でも鮮明に覚えており,ストレス解消には効果的であった.あっという間に外泊の時間が過ぎていき,別れの時間が近づいてきた.息子が何かを察したのか傍らから離れようとしない.いつものくすぐり攻撃をしてやると,無邪気な笑い声を上げた.家を出ようとすると,大泣きを始めた.化学療法で頭髪を失ってはいたが,“後ろ髪を惹かれる”思い出帰途に着いた.妻の話によると,息子はその後30分以上も泣き続けていたそうである.病室に戻ると,大学時代のアメリカンフットボール部の同僚が本を置いて行ってくれていた.せっかくの休日に顔を出してくれたことを思い,素直に“ありがとう”と心の中で感謝した.

 次の週は,寛解導入治療の成果を調査するために,マルク(骨髄穿刺して骨髄液を抜き取り検査すること)を実施した.週末には骨髄移植に関する説明およびマルクの結果を聞くために,田舎から両親も掛けつけた.骨髄移植に関する説明はかなり厳しい現実を再認識する内容であり,母親は大分ショックを受けているようであった.「どうして,こんな病気になってしまったんだろう・・・.私の所為なのかしら・・・」といった言葉が自然と漏れていた.こんなにまで母親を悩み悲しませてしまったことを公開した.マルクの検査結果も喜ばしくないものであった.寛解導入治療後も,白血病細胞が30%ほど残っており,寛解には至らなかったことを説明された.もう一度,寛解導入治療を実施するとのことであった.

 二週続けての外泊許可が降りた.初日は,赤血球と血小板を輸血してからの外出であったので,家に着いたら,22:00を回っていた.前回の外泊に比べて疲労感が強く,外出する気分になれなかった.外食は1回だけに制限した.すき焼きを食べた.

 翌週半ばから,第二回寛解導入治療が始まった.治療前の白血球数は3000であった.治療開始後3日目頃から39℃前後の発熱が3~4日続いた.第二回寛解導入治療開始一週間後の白血球数は500であった.そのころ,姉がはるばる遠くから見舞いに来てくれた.HLAが適合しなかったことに責任を感じてくれているのを知り,感謝すると共に,申し訳ない気持ちで一杯であった.お互いにこみ上げてくるものをこらえながら笑顔で話し続けた.治療後で体調が悪いのもすっかり忘れていた.

 第2回寛解導入治療開始二週間後の白血球数は依然500のままであった.白血球が正常なレベルまで戻るのを待つ日々が続いた.体調は徐々に戻っていくためか,余計なことを考える余裕が出てきた.“異形成症候群を併発した白血病の長期生存確率は低下する”とか,“寛解導入治療を2回以上実施した場合の長期生存確率は低下する”とか,“ドナーが見つからなかったらどうなるんだ”とか,さらには幸運にも命を存えられたとしても,“仕事に復帰できるのか”とか“ブランクを埋めるのにどれくらい掛かるのか”とかありとあらゆる“余計なこと”を考えてしまうのである.ある日の日記には,このようなことが1ページ以上にわたって書かれていた.普段は数行しか書いていないのに・・・.

 第2回寛解導入治療開始二週間後の週末,外泊は無理な状態であったが,嬉しい知らせが届いた.骨髄バンクからドナー候補者リスト(最大5名分)が届いたのだ.リストにはしっかり5名分のデータが記されており,自分のHLAが決して珍しい型ではないことがわかっただけでも胸の痞えが無くなった感じがした.この段階で総額43.7万円の出費(内訳:コーディネイト料10万円,三次検査費用2.5万円(本人)+3.4万円×5人(ドナー)=17万円,ドナー障害保険料2.5万円,ドナー健康管理等調査費11.6万円)を覚悟しなければならなかった.

 第2回寛解導入治療開始三週間後くらいから,小粒ではあるが出血斑が目立ち始める.白血球数は1000前後を行ったり来たりで,好中球がほとんど無い状態が続く.原因不明の発熱もこの頃から始まった.

 第2回寛解導入治療開始四週間後になっても,白血球数は1000前後,好中球は増えているが,白血病細胞も増えている状態であった.微熱も相変わらず引かない状態が続く.日記には“最悪”という文字が増え始める.

 第2回寛解導入治療開始後1ヶ月が経過した.微熱の原因を探る最後の手段として胸部のカテーテルを抜くことになった.カテーテルを抜くと,それまで何の反応も示さなかった抗生剤に対して,蕁麻疹が出るようになってしまった.何が原因かは不明のまま,抗アレルギー剤を服用しながら,様子を見ることになった.翌日から微熱が無くなった.カテーテルからの感染が疑われたが,何も出なかったとのことであった.

 第2回寛解導入治療開始5週間後の週末,5週間ぶりの外泊が叶った.白血球数は3200であった.金曜日の朝ごはんもキャンセルして,9時には病院を出て,30分後には家に着いていた.その日は,子供たちが通う幼児園のお遊戯会だったので,しばらくすると,私以外は出掛けてしまった.妻のお母さんが私の代わりに付き添って行ってくれた.5週間ぶりということもあり,疲れも気にせずに,外出しまくった.前々から欲しいと思っていたPocketPCも手に入れた.そして,いつものように,あっという間に別れの時間がやってきた.今回も息子が「バイバイ」と言いながら大泣きしている.娘の方はドライなものだ.妻が「体調が良ければ,また来週会えるからね」となだめている姿を見ると,こっちまで涙が出そうになったので,急いでドアを閉めた.段々別れが辛くなっていく.

 週明け,第2回寛解導入治療の効果を確認するために,マルクを実施した.麻酔が上図だったのか,いつもよりも痛くなかった.検査の結果,白血病細胞の含有率は60%程度であり,第2回の寛解導入治療でも寛解に至らなかったことを告げられた.もうこのときには開き直っていたのか,当時の日記を見ても,寛解導入失敗に関するコメントが見当たらない.

 転院から3ヶ月が経過したこの週末,2週連続の外泊許可が降りた.白血球数は3200であった.段々,外出する元気がなくなっていることに気付く.それでも気力を振り絞って,外泊最終日の日曜日には外食に出掛け,子供たちへのクリスマスプレゼントも準備した.別れのときはいつもより気が楽であった.息子がもう寝入っていたからである.

 翌週,2回の寛解導入治療の効果が無かったことを受けて,治療方針の変更が告げられた.「今後は,白血球の動向を見ながら,適宜輸血を行い,化学療法は極力行わない方針でいく.ただし,万一,白血病特有の症状が現れたときには対処療法的に抗癌剤を投与する」とのことであった.
[2002.06.15更新]

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