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カテゴリ:いわれなき三春狐
三春の戊辰戦争 1:三春藩への論難と反論
皆さん。『三春狐に騙された』という戯れ歌をご存知でしょうか。そしてこれを、どういう風にご記憶でしょうか。 これは戊辰戦争の際、三春藩が奥羽越列藩同盟を裏切ったとされることを揶揄して言われてきた言葉です。この言葉に三春の人たちは、どれだけ長い間傷つけられてきたことか。私も、その中の一人でした。そんなこともあってネットを検索していましたら、次のような部分がある長文の論文を見付けたのです。 『征討軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。三春藩五万石の露骨な裏切りである。それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。 三春藩の防衛最前線は、小野新町であるが、このポイントには二本松藩と仙台藩からそれぞれ約50名から成る応援部隊が派遣されていた。同盟間のこういう形は随所に存在したが、小野新町は三春藩領であるから三春軍が第一線に立つのは当然である。同盟間でも、当然の“礼儀”或いは“スジ”としてその形は守られてきた。ところが、小野新町の戦いに於いては、三春藩は藩兵を第二線に引かせていた。そして、征討軍が迫ると真っ先に逃亡、二本松兵、仙台兵が矢面に立って戦闘態勢に入るや、二本松兵、仙台兵に向けて発砲したのである。二本松・仙台藩は、この衝突だけでそれぞれ7名の戦死者を出した。』 くどいようですが、この主張は昔の話ではありません。今からつい3年ほど前の話なのです。 ところで三春町史第3巻近代1の5ページに、次の記述があります。 『会津猪 仙台むじな 三春狐に騙された 二本松まるで了見違い棒』この歌にある三春狐をどうみるか。歴史の大河に竿をさし、小舟をあやつる船頭が無理せず、臨機に接岸させた所が安全であればそれでよい。判官びいきの感傷と義憤は一方の見方で、百年後の三春町民が判断すればよいことである。 この三春町史については、今になれば誰が書いたかは分かりませんが、私はとんでもない無責任な文章だと思っています。こんなことを三春町史に堂々と載せているから、冒頭のような誤解をされるのではないでしょうか。三春町史の奥付を見ますと、昭和50年11月とあります。その年は戊辰戦争後107年後の年であり、将に100年後の町民我々に、「お前ら勝手に判断せい!」とでも言っているようなものです。なぜ107年後の歴史家が三春町史を編纂する時点で三春の『裏切り説』の検証をしなかったのか。なぜ町民に、三春狐とはなんであったかを総括して見せなかったのか。大いに疑問を感じています。 そしてそれに上乗せするような出来事が、2014年の11月にありました。それは、『三春猫騒動(お家騒動)』の展示が行われていた三春歴史民俗資料館でのことでした。名は伏せますが、いずれ私がライスレークの家で、「三春が裏切り者ではなかったという話をする積もりです」と言った時、「それを話すと、かえって(当時の他の藩の人に)冷や水を浴びせられることになるから・・・」と言って言葉を濁したのです。私は町を背負って立つような文化人の反応に、「これでは駄目だ」という思いに愕然としたのです。この三春町史が出版されてから、すでに40年経っています。「これでは、あと60年経って200年になってもこの汚名を払い除けられないな」と思ったのです。私が現代の歴史家に望みたいことは、三春が裏切り者であったらあったと明確にすべきであると思うのです。そうすれば町民の側にも覚悟ができるでしょう。そして違うなら違うと説明すべきです。そうすれば町民も、前向きに考えられるでしょう。いいかげんにして置くことが、一番悪いと思っています。ともかく知り得た間違いを訂正せず、噂を否定しないことは、認めたということになるのではないでしょうか。 例えば、ウィキペディア『二本松の戦い』には、大山柏(大山巌の次男)の見解として、『三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものである』と載せられているのです。私には不満が残りますが、むしろこのようなことの方が、正当に検証しようとする姿勢が見える気がします。 三春裏切り説に関して、反論めいたものがいくつかweb上にアップされています。そのうちの2点を、書き出しておきたいと思います。ところが何とその一つは、私の書いた『三春戊辰戦争始末記』が紹介されており、しかもそれは、つい最近ミクシィ上で見つけたものだったのです。 http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1304319&id=10307505 ただしこのURLをクリックすると、なぜかこのURLの最後の5の次に2006が表示されて開くことができないのですが、2006を消してクリックすると大丈夫です。日付は2006年10月21日とあり、『読んでおきたい基礎文献』の中にあったのです。これは私が書いたものに対する、しかも名指しでの肯定文でしたので、それがどなたのものであったのか是非知りたいと思ったのですが、生憎アップされた方がミクシィを退会なされている現在、残念ながら知る術がありません。やむを得ずご本人の許可を得ず、以下に引用させて頂きました。 『三春戊辰戦争始末記 橋本捨五郎 裏切りと今でも罵倒されている三春藩。だが、史実はどうであったのか? 地元の郷土史家が小説形式を取りながら、地方史や口伝などを丹念にリサーチし、その実体に迫る本。 驚いた事に新政府軍公式記録である「復古記」と、薩摩藩の軍事史料である「薩藩出軍戦状」そして二本松藩の基礎文献である「二本松藩史」の裏づけが取れてしまっており、逆に「仙台戊辰史」の捏造・改竄を証明してしまった形となってしまった。 「無いものは無い」のであり、それを「有った」とするのは問題ではないか? 著者の意図は、130年以上も経ちながら、未だに感情論で左右される事への連鎖を経ちたいという、ヘーゲル哲学に於ける「ジン・テーゼ」を見出そうとする姿勢は、イデオローグ汚染されている中央学“怪”や、利権塗れの“痴呆”史会に、爪の垢を煎じたい気分である(毒) 歴史の女神 クリオが誰に微笑むかは言うまでも無い! 自費出版という事で残念ながら絶版! 但し、ウエイブ上では公開されています。感情論ではない、知識共有を望む方は御覧あれ。』 それからもう一つ。『二本松狐と三春狐〜狐の蔑称は誰が為?』という論文が、2005年のHPにアップされていました。長文ですので、『1 はじめに』だけを著者の了解を頂いた上で、そのまま転載いたします。 『二本松と三春、共に戊辰戦役で明暗を分けた藩である。 片や、新政府軍の猛攻撃を受けて崩壊に及び、片や降伏後に新政府軍の先鋒として藩の存続が保たれた。共に『明治維新』に巻き込まれ、二本松藩は奥羽越列藩同盟の犠牲となり「武士道の誉」と称えられたが、三春藩は生き残ったものの「裏切り者」として現代でも罵倒、侮蔑の対象として蔑まされる対象とされてしまう。三春の行為を揶揄する言葉として「会津猪に仙台むじな三春狐にだまされた二本松丸で了簡違い棒(丹羽氏の家門[×]を表す)」「会津桑名の腰抜侍二羽(丹羽・二本松藩の意味)の兎はぴょんとはねて三春狐にだまされた」「馬鹿だ馬鹿だ二本松は馬鹿だ、三春狐に騙された」という唄を与えられてしまった形となる。 しかし、「狐」の蔑称は三春だけのものであるのか?それならば幕末維新期に掛けてのバトル・ロワイヤルで「狐」にならずしてどのように生き残れればよかったのか?三春が二股膏薬の汚名を被り、二本松が武士道を通したと言う評価は正当だと言えるのか?二股膏薬は他にもいなかったのか? 歴史小説家や研究家が語る「三春は卑怯な裏切り者だ」という法官贔屓な文言をここでは頭の中から一切排除し、自国領土を戦火から救うにはどのような行動を取れば最善であったか。この二つの藩から眺めて考えてみたい。そして、周辺大国(新政府、会津、仙台)のエゴイスティックな動きも含めて、「狐」の称号は誰が持つべきなのか、考えていこうと思う。』 三春に対して、このようなエールが送られて来ているのです。誠にありがたく思っています。三春の、特に文化人たちが理論武装をし、このような自虐史観から町の人を救ってくださることを願って、このレポートを何度かに分けて載せたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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