遠い雲 5
この富造たちが渡米をしようとしていたこの年は、河野広中が大日本帝国憲法発布の大赦により宮城集治監を出獄した年であった。逮捕されてから六年三ケ月経っていた。当日は大変な大雪であったにもかかわらず、河野は郡山での同志による出獄祝賀会に臨み三春に帰った。着いたときには、小泉村(いまの郡山市)から三春までの二里にわたる沿道は、歓迎の人波で埋まるほどの状況であった。町の人たちは彼を犯罪人としてではなく、むしろ被害者として見ていたことがこの大歓迎となって表れていた。「重ちゃん。河野さんの様子が三春や新聞報道で知らされましたが、これで本当に自由民権運動は息を吹き返すのでしょうか?」 富造はアメリカへ出発する準備の手を休めて重教に訊いた。「うーん。俺もよく分からないが、大日本帝国憲法が発布されたことで、とりあえずの目的は達成したことになるのかな」 重教も手を休めると言った。「しかしやはり俺は、帝国憲法が出来たということだけですべてが終わった、とは思えないんだ。つまり帝国憲法は天皇の側だけを見て人民の側を向いていない。先日起きた甲府の雨宮製糸場の女工ストライキなどは、そのいい例だと思うんだ。守ちゃんや岩ちゃんが獄死したということは、たかがこんなことのためだけだったなどとは決して思いたくないんだ」 重教は返事に詰まった。二人はしばらく黙って荷造りをしていた。「重ちゃん。福音会の塚本先輩からこれを頂いたんですよ」 富造が片づけていた本の間から一冊の聖書を取り出した。「おおっ、福音会の塚本さんから?」 重教は手を伸ばして聖書を受け取りながら訊いた。「それにしても革表紙の、立派なものじゃないか・・・。えーと、なになに、ナショナル バイブル ソサイテイ オブ スコットランドだって? なんだこれは! イギリスの、しかも英文じゃないか。お前、これが読めるのか?」 富造は照れくさそうな顔をした。「お前、もう洗礼を受けたのか?」 重教は驚いたような声を出した。「いや、まだそこまでは行っていませんよ。それにそんなこと、重ちゃんに黙ってできないでしょう?」「いやぁ、それはそうだが、なんでまた塚本さんがお前にくれる気になったのかな?」 重教が、富造を珍しいものでも見るような目で訊いた。 その聖書の裏表紙には、塚本の英字で From M. Tsukamoto To T. Katsunuma と、そして富造の字で、[千八百八十九年第四月廿四日 米国留学之際 塚本学・兄ヨリ受領ス]と書いてあった。 (富造の使用した聖書。ブリガムヤング大学ハワイ校図書館蔵)「以前、重ちゃんに聞いたことのある『科学と宗教は一個のリングで、科学は疑うことから始まり、宗教は信じることから始まる』という言葉を、本当だと思うようになったんです。そのためにも少し勉強しようかと思って・・・」 アメリカへ出発の前日、富造は直親に呼ばれた。床の間の前に端座していた直親は、富造にも座るようにと目でうながした。ちょっとの間、静かさが支配したが、おもむろに直親が口を開いた。「富造」「はい」「お前は武士の子じゃ」「はい」「アメリカへ行っても、武士の心を忘れてはならぬ」「はい」 直親はそう言って座ったまま身体を後ろに回すと、床の間の刀掛けにあった刀を二本手に取った。そしてもう一度、富造の方に向き直った。「富造」「はい」「刀は武士の魂じゃ」「はい」「その魂を、お前にやる」 そう言って片手で差し出された大刀を、富造はなんの躊躇することなく、両手でうやうやしく受け取った。 直親が言った。「これを抜く時は自分の命も断たねばならぬような切羽詰まったときだけじゃ。仇やおろそかに人前で抜くものではない。分かったな?」 直親はそう言いながら、もう一本の小刀を差し添えた。「はい」 富造はそう返事をすると二本の刀を右脇に置き、座布団を外して平伏した。 一瞬、 ──父上は、俺が日本に戻らない覚悟であることを、感づいておられるのかも知れない。 それらの思いがないまぜになると息が詰まり、なかなか頭を上げることができなかった。 その刀は、「相州住 綱廣」の銘のある業物であった。 (二振りの刀。富造の孫・ハワイ島ヒロ市在住のトーマス カツヌマ氏所蔵)