三春馬車鉄道(抄) 2006/3 歴史読本
(歴史読本二〇〇六年三月号・二九六ページ「れきどく故郷紀行」より転載) ふるさとに息づく歴史秘話より転載) 明治期の馬車鉄道について調べていった橋本さんは、ついにここまでやってしまいました。 今月の読者・橋本捨五郎さん 三 春 馬 車 鉄 道 わが国最初の馬車私鉄は、明治十五年開業の東京馬車鉄道であった。それから昭和二十四年の北海道銀鏡(しろみ)軌道の解散に至るまで実に六十七年間わが国に馬車軌道が存在した。(中略)馬車軌道は、これを二つに分けることができる。一つは地方交通機関としてのそれ、もう一つは都市交通機関としてのそれである。 (資料・日本の私鉄より) 私が馬車鉄道に興味を持ったのは、明治二十年に福島県郡山まで開通した鉄道の駅と三春との間に、明治二十四(一八九一)年から大正四(一九一四)年まで馬車鉄道が走っていたことを知ったことにあった。そしてそのころ馬車鉄道の会社は、北海道、福島、石川、静岡に各五社、福岡に四社、群馬、埼玉、山梨、佐賀に各三社など、その数約四十社に及んでいた。 当時、欧米の各地では、遠距離を走る蒸気鉄道を補完するものとして、すでに普及していた馬車鉄道が都市内や近郊の交通機関として使われていた。日本においても、これら鉄道の利用状況はまったく同じであった。つまり三春馬車鉄道は、ロンドン、グラスゴー(イギリス)、アンドレジュー(フランス)、リンツ、ザルツブルグ(オーストリア)、ニューヨーク(アメリカ)、ストックホルム、ヨーテボリ(スウェーデン)、チューリッヒ(スイス)、ミラノ(イタリア)など世界の大都市と同時期に、近距離の町の間を繋いでいたのである。馬車鉄道は、いま考えると時代に取り残されたもののような感じがするが、道路の舗装がされていなかったこの頃、揺れや振動が少なく、至極快適な乗り物であった。 ではなぜこの地に、このような最新鋭の交通機関ができたのであろうか? それには阿武隈川の東に発達していた蚕業が関係していたと考えられる。横浜という貿易港と鉄道で結ばれたばかりの郡山へ、商人や貨物を運ぶのがその目的であった。そのためもあってか、この町には第九十三国立銀行(支店・郡山、平、横浜)、安田(現・みずほ)銀行三春出張所などの金融機関をはじめ、県庁支庁、郡役所、税務署、電信局、郵便役所、それに東北全部と北海道を管掌した煙草収納所などが続々と作られた。三春馬車鉄道は、この地方の発展に欠かせないものとなっていた。しかし大正四年、国鉄平郡線(いまのJR磐越東線)が郡山から三春へ通ずるに及んで、その使命を終えたのである。 これらのことを知って三春馬車鉄道の客車の復元に手を染めたのは、昭和五十五年のことであった。それから二年、馬車鉄道に乗った経験のあるお婆さん二人を探し当て、彼女らの話から車体のスケッチをし、資料を集めて実物大の模型を作った。それを郡山歴史資料館に寄付をしたのであるが、そのときすでに二人は、この世にはなかった。しかしそのうちの一人、村田イネさんのご家族の話によると、亡くなるときにこう言われたそうである。「捨五郎さんと馬車鉄道で郡山サ行って……」 私の古臭い名前と実物大の模型に乗って頂いたときの記憶が彼女の意識の混濁の中で結びついてしまったのであろうということを考え合わせれば、あのときが客車復元の最後のチャンスであったと確信している。(三春馬車鉄道客車の実物大模型は筆者により復元、郡山歴史資料館に展示されている) (客車復元のための設計図)