雪女 9
「私のおっぱいは、もう出ないのよ」 そう言われたとき祐長は母の優しさ感じ、思わずその乳首を噛んだ。「あっ痛い! 噛んでは駄目」 雪女が一瞬眉を曇らせた。「私は本当はお前を迎えに来る役回りは嫌でした。祐長は幸せに暮らしているのだから、そのままにしておいてもよいのではないかと思ったのです」 もう朝が近くなっていた。餌でも探そうとするのであろうか、冷たい湖畔から飛び立った五~六羽の白鳥が風を切る羽音も強く、二人の頭上を飛んで行った。 ふと白鳥の姿を追っていた祐長の目に、降る雪にけぶる新城館が目近に見えた。それを見ながら祐長は、「新城館ではまだ孫が眠っているであろう、その寝顔だけでもそっともう一度見てみたい」と思った。「ほほほ」 雪女は祐長の気持を見透かして笑った。「やはりお前もお爺さん。孫は可愛いとみえますね。それなら明日の夜に逝ってもいいのですよ。しかし今夜起きたことは誰にも話してはなりませぬ。もし言えば、伊東家に災難が末代にまでかかることになりましょう」 祐長は返事をしなかった。そして考えていた。 ──いまここで息子や孫に会えばかえって未練が残るであろうし、それ以上に、今夜起きたことを誰にも言わずに明日の夜まで過ごせるであろうか。 それが心配になったからである。 ──なんであれ死とは突然訪れるもの。何時、何処で死ぬかを前もって分かる者などいないし、準備が出来ないからなどという言い訳は死を前にしては通じる訳がない。 祐長はいま逝くことに決めた。そう決意をしてみたが悲愴な感覚はなかった。起こるべきことが起き、成ることが成るだけのように感じていた。ただ、何かをやり残したのではないかという気がかりがあったが、それが何であったか急には思い出せなかった。 ──ところで私は随分と母上と話し合いながら歩いて来ました。人は死ぬとき、必ず自分の一生をなぞると言います。私はこの間に、自分の一生の間に起きたすべての事柄をなぞりました。こうなれば、あとはご一緒に父上や妻や長右衛門の所に逝くだけです。「そうですか。よく思い切ってくれました。私もこれで使いに来た甲斐があるというもの。嬉しく思いますよ」 ──あれ、母上。この洞窟は? ああ、これは断崖のそそり立つ屏風ヶ岩の傍の・・、坂上田村麻呂に退治された鬼が棲んでいたという鬼穴、もうこんなところまで来ていたのですか?「そう。随分歩きましたね。こんな所にまで来ていたのですから。けれどもよくご覧なさい。鬼穴とは違うでしょう」 祐長は今夜起きたことの出来事に、はじめて不思議さを感じた。 ──はて、鬼穴でないとすると・・、この湖は?「ほほほ、本当にお前は子どものときと変わらないのだから・・ほら、よく見てごらん、お前が生まれて育った屋敷の傍の海辺でしょう?」 ──あぁ母上、分かりました。青く晴れ上がった空と暖かい海が見えます! あの伊豆ああぁ、大きな白い波が押し寄せて来ます・・。「ほら分かったでしょう? 私はお前を長い間抱いて歩いていましたから、とても疲れました。思い出してご覧なさい、お前の歩いた後に足跡がなかったでしょう?」 雪女がそう言った。 ──あぁそうでした。そう言われてみれば、雪の上に足跡がありませんでした。すると私は最初から母上にずーっと抱かれて・・? そう言われた雪女は黙って頷いた。 ──こうして母上に連れられて逝くことは、母上の安らかな胎内に戻ることかも知れません。「ほほほ、これは長い間遠くに離れていた可愛い息子が、ようやく母の胸元に帰ってくるということなのですよ」 ──それに母上、私も母上のように亡霊にでもなって、これから子どもたちの助けになることができますか?「祐長、それこそが家の代を重ねるということ、伊東家が未来永劫末代まで続くということです。なにも姿など見せずともよい。今度はお前が、子どもたちを草葉の陰から見守ってあげる番です」 雪女は優しく微笑んでいた。 ──母上に逢えて、そして母上に抱かれて、そして子どもたちを助けることができることが嬉しい。 しかし祐長のそれは、人の話し声ではなく甘えて泣く赤子の声になっていた。七十歳も過ぎて、はじめて母に甘えて泣く赤子の声であった。「ようやく私も、お前を自分の胸に抱くことができて安心しました。これからは父上ともご一緒に暮らしましょう。」 その声は優しい子守歌に聞こえた。そしてその美しい雪女は狂おしそうに胸に抱いた赤子の顔を覗き込んだ。その目からはあの怪しい光が消え、慈愛に満ちた母の黒い瞳に変っていた。そして抱いた子の顔を覗き込んだ雪女の黒い長い髪の毛が、その赤子の顔をばさりと覆った。 間もなくかぼそかった赤子の泣き声が途絶え、二人の白い姿は降る雪の色に滲んでいった。 明けやらぬ薄暗い光の中に、鶴山館の入り口の戸が大きく開け放たれたままになっていた。昨夜来の大雪が館の中まで入って吹き溜まりとなり、あの赤々としていた囲炉裏の火も今は消えて部屋は芯まで冷え切っていた。そしてその囲炉裏のそばで、もはや動くことを忘れたかのように祐長は冷たくなって横たわっていた。 (完) 参 考 文 献 一九八六 郡山の伝説 郡山市教育委員会 石橋印刷 二〇〇五 郡山の地名 郡山市教育委員会 不二印刷