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2-06【聖堂】


初稿:2010.05.02
編集:2023.04.13
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※光ノ章の本編です

2-06【聖堂】




「誰もいない……?」

 シャルロットは我が目を疑った。 聖堂内にミルフィーナの姿は無く、そればかりか一片の人影すら確認できなかったからである。

「他の出入り口を調べてきていただけますか?」

 ファティマ・イスはエドゥアルトの両手首の拘束を解くと、にべもなくそう告げる。

「やれやれ、人使いの荒い御方だ」

 エドゥアルトは鬱血した皮膚を擦りながら、嘆息混じりに肩を竦める。 しかし、女枢機卿にひと睨みされると、そそくさと側廊へと消えた。

「些か腑に落ちないことがあります」

 ファティマ・イスは自問するように呟く。 そして、視線を内陣方向に据えると、紅の絨毯が伸びる身廊を真っ直ぐに進む。

「腑に落ちないことですか?」

 後に続くシャルロットが鸚鵡返しに尋ね返す。

「ミルフィーナ卿が“ここ”に連れて来られた理由です」

 それは先刻、エドゥアルトがファティマ・イス当人に質した内容と同様のものである。

「先ほど、ファティマさま自身が仰られたように、教会法には“全ての罪人は懺悔の機会を宥恕される”と記載されていますが?」

 シャルロットは個人を断定せずに罪人と定義して話を進める。 ミルフィーナを咎人扱いすることに抵抗があるのだろう。

「その通りです。 しかし、神都には幾つもの聖堂が存在します。 わたくしが疑問に感じたのは、なぜレムギザロス大聖堂でなければならなかったのか、その理由です。 聖女様は、聖下のご遺体が埋葬されるまでの間、何処に安置されているのかをご存知ですか?」

 シャルロットは閉口して記憶に沈殿する知識を手繰る。 そして、女枢機卿の示唆する内容に思い至った。 嘗て目を通した教会憲章の一文―――そこには教皇の死後、その遺体の移送場所についての記録があった。

「まさか……聖下のご遺体がここに?」

「御名答でございます。 故に今この時この場所に、神性の弑逆者を招き入れては、些か裁量が足りぬと陰口を叩かれましょう」

 ファティマ・イスの脚が至聖所の入口で止まる。 紗幕の隙間から窺える主祭壇の上には金銀螺細に装飾された棺が鎮座していた。

「あの聖櫃のなかに……」

 シャルロットが僅かに遅れて女枢機卿の傍らに立ち並ぶ。 少女の心低から恐怖という名の澱みが浮漂していた。 だが、同時に別の感情も目覚める。 水晶の搭の出来事が現実のものであるなら、この内に眠る存在は“ヒト”ではない。 通常であるならば、気が触れたと忌避される内容でも、真実として在らしめることが可能であれば話は別である。 教皇が人外であった事実が明るみになれば、ミルフィーナの潔白の証明には到らなくとも、酌量の余地を促すには十分である。
 シャルロットが大きく唾を飲み込む。 気づけばもう手が届く距離に聖櫃があった。 一旦決意をするとシャルロットは迷わなかった。 ファティマ・イスが止める間もなく、棺の上蓋に両手を置き力任せにそれを押し退ける。 遅れて、聖堂内の静謐な空気にけたたましい反響音が木霊した。

「どうして……」

 棺の内部に目を遣ったシャルロットは失望に打ちのめされる。 随分と間をあけて少女の口から零れた言葉は、掠れたように続かなかった。

「遺体の損傷が重度であれば、処置重視で納棺を見送ることもあります。 ですが、どのような理由があろうとも、死者の魂を冒涜するような行為は感心致しかねますわ」

 ファティマ・イスは僅かに眉を顰めると空の棺から目を逸らす。

「えらく馬鹿でかい音が聞こえたが何事だい?」

 呑気な声に遅れて、エドゥアルトの長躯が二階廻廊の手摺を飛び越えて祭壇上に降り立つ。 軽業師のような身軽さだが着地した場所に問題があった。

「おっと、これは失礼つかまつった。 だが、留守中とは幸いしたな」

 エドゥアルトはおどけたように聖棺の中から左足を抜取る。

「お二人とも悪行過失が目立ちますわね。 本来ならきつく仕置きが必要ですが……、今はそれどころではないようです」

 ファティマ・イスの視線の先、拝廊入口に物々しい気配が集束しつつあった。 今し方の騒音を聞き咎めたのか、それとも警備の准士官に対しての虚実が発覚したのか、ふたつにひとつだろう。 衛兵の中に元老院の息のかかった人間が居たと考えるのが妥当だが、役人らしからぬ手際の良さである。

「ああ、アレなら暫くは時間を稼げるはず。 見回りがてら大扉の貫木に細工を施しておいたからな」

 エドゥアルトは後頭部で両手を組むと、しれじれと言ってのける。 まるでこうなることを予期していたかのような抜け目の無さである。

「あら、気が利きますのね。 それでそちらの首尾は如何でした?」

「正面大扉以外の全ての出入り口は内側から千錠されていた。 埃の積もり具合から推測するに、ここ数日の間、使用された形跡はないな。 とどのつまり、神隠しにでもあったのか、娘子軍の団長殿は忽然と姿を消してしまったことになる」

 エドゥアルトは両の掌を上向きに返して、お手上げといった様子で首を振る。 だが、神の御許たる大聖堂で神の仕業とは冗談にもなっていない。

「それではフィーナは何処に……」

 シャルロットのまだ幾分幼さの残る顔が焦燥に歪む。

「そうですわ聖女さま。 先程の問いの答えですが、此方の青年のお陰で確信が持てました」

「えっ? あっ……。 元老院がレムギザロス大聖堂を懺悔の場所として定めた理由ですか?」

 不意に話題を振り戻されて当惑するシャルロット。

「そうです。 なぜ“ここ”でなければならなかったのか」

 ファティマ・イスが腰を屈めて主祭壇の側面に指先を宛がう。

「メナディエルの紋章ですか? いえ、少し違う……」

 シャルロットが覗き込むように女枢機卿の所作を見守る。
 主祭壇に刻まれた紋様は、教義の至純である“正義”“秩序”“公正”を司る三宝玉を宿してはいたが、正式なメナディエルの意匠とは別物であるようだった。

「ほう、これはこれは……」

 エドゥアルトも興味深げに見入っているが、こちらは突き出された二つの曲線をしげしげと観察しているだけだ。 その繊細な見た目とは裏腹に肉付きのよいファティマ・イスと、固さを残しつつも丸みを帯びた少女特有の身体つきのシャルロット。 どちらも趣の違う妙味がある腰付きだ、などと無駄に感慨深げである。
 その間にも、ファティマ・イスの人差し指は謎の紋様をなぞるよう動き、祭壇中央部に埋め込まれた女神の御玉たる翡翠石に到達する。 目の錯覚か、女枢機卿の指先から蒼白い波紋の燐光が広がり、異変は起こった。

「なっ!?」

 シャルロットの驚愕に一瞬遅れてエドゥアルトが声をあげる。 青年の反応が鈍いのは別種の妙趣を抱いていた分である。

「レムギザロス大聖堂の地下は、歴代教皇の遺体を埋葬した地下霊廟となっております」

 それは太古の技法であろうか、主祭壇の円石が音もなく後方へと退き、地下空間へと続く入口が姿を現していた。

「その話なら俺も聞いたことがある。 だが、よくこんな仕掛けがわかったものだな」

 エドゥアルトは女枢機卿の補説に頷くと、序に抱いた疑問を口にする。

「ここは水晶の搭と並ぶ聖域のひとつです。 存在の秘匿はされておりませんが、出入りは祀職官以外、原則禁じられています。 ただ、この紋章の仕掛けは、以前別の場所で目にしたことがありました」

 ファティマ・イスは地下へと続く石段を背に微笑む。

「それでは参りましょうか。 聖女さま、それと……」

「エドゥアルト・ラガ・ディファルですよ。 ファティマ・イス枢機卿猊下」

 エドゥアルトが落胆より呆れた様子で返す。 この女枢機卿に名を覚えて貰うまでには、まだまだ時間が掛かりそうであった。

「あ、あの……、このなかに入るのですか?」

「嫌なら無理強いは致しませんわ。 ですが、ミルフィーナ卿はこの先にいる筈です」

 ファティマ・イスがシャルロットの当惑気味の問い掛けに答える。 真意が何処にあれ、その言葉は少女の心から余計な感情を消し去るには十分だった。

「ふむ、与えられた選択肢は衛兵をやり過ごし引き返すか、はたまた得体のしれない霊廟へと前進するかだが。 俺としては、ぜひとも前者をお勧めしたいところだが―――」

「勿論、先へ進みます」

 シャルロットは僅かに頬を紅潮させると凛として言い放った。

「そう仰ると思ってましたよ。 ま、正義の代理人たる俺としては付き合わざるを得ないがね」

 口から洩れる不平不満とは裏腹に、エドゥアルトも引き返すつもりなど更々なかったのである。



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