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3-10【聖座】


初稿:2013.05.04
編集:2023.08.11
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※光ノ章の本編です

3-10【聖座】




 教皇庁アレシャイム―――白の間
 荘厳な白亜の殿堂に、七聖省を司る枢機卿各位と司教評議会の代表者が集っている。 新教皇選出の儀が執り行われているのだ。
 中央に設けられた祭壇上には議長を務めるヴィルヘルム主席枢機卿。 老卿の足元には白と赤、二枚の聖布が敷かれている。 そのひとつ、白い聖布には金髪碧眼の幼い少女が両膝を下ろして、女神へ祈りの言霊を捧げていた。 アンヌフォルト・インドブルクスである。

「(まだか……)」

 空座となっている赤い聖布を見下ろしたヴィルヘルムの顔に苦渋の色が滲む。
 新教皇は各枢機卿の推戴があった人間の中から選ばれる。 フォン家の血族から世襲する形式を、さも禅譲制の如く虚飾する為の儀式であったのだが、今回ばかりは、その形骸化された慣例が幸いした。 元老員が独断でフォン家の世襲権を剥奪したことにより、枢機卿の推戴さえあれば何人であろうとも資格者となり得たからだ。
 聖位は教会法に則り、候補者が複数擁立された場合、枢機卿団による無記名投票により二名にまで絞られて、この白の間で勝敗を決することになる。 祭壇を取り囲んだ枢機卿各位が、候補者を擬えた色の聖布を祭壇上に投げ入れて多数決を採るのだ。 ウェルティス・ゲティス・フォンが排斥されたことで、此度の教皇選挙は、教会の長い歴史ではじめての民主的な教皇選挙といえるだろう。

「ヴィルヘルム主席枢機卿、儀式の進行が滞っているようだが?」

 ライオネル卿が右眼底に埋まる義眼に指を添えると、嘲るように訊ねる。

「(間に合わなんだか……)」

 ヴィルヘルムは出来うる限り儀式の進行を引き延ばしていたが、既に限界だった。 老卿の視線が祭壇下のファティマ・イスに向く。 女枢機卿は下唇を噛んだまま俯いていた。 このまま最終票決を行えば、シャルロットに勝ち目がないことを理解しているようだ。
 アンヌフォルトを擁立するのは、その推薦人であるカルロ卿に白十字教の信者でもあるライオネル卿とアンヌベルク卿の三者。 同宗派では、偶像崇拝を禁ずるが故に、聖女と対立の構図が描かれることは、当然の成り行きである。 一方、シャルロットを擁立するのは主席枢機卿であるヴィルヘルムにファティマ卿、それと聖アルジャベータ公会の重鎮たるハンス卿である。 確定票が三対三で並んでいる以上、全てはここまで態度を決めかねていたマグヌス卿の意思に委ねられた。 彼自身は特定教派に属さない古派よりの思想だが、白十字教に多大な影響力を保持するギルドゥクリエースト家の次期当主候補でもあった。 門閥を背負った人間が家名に傷つける可能性は低い。 故にマグヌス卿の懐柔には、神剣アンネシュティフの入手は必要不可欠な要素だったのだ。 シャルロットがメナディエルの加護に適う者だと証明されれば、冤罪を晴らすと同時に、逆転の目も生まれていた筈だ。 もっとも、このままシャルロットが白の間に現れなければ、彼女への推薦票さえ無効となり、全てが水泡に帰してしまう。

「それでは最終票決を執り行う。 アンヌフォルト・インドブルクスには白の聖布、シャルロット・リュズレイには赤の聖布、教会の未来を担うに相応しき者に七聖の祝福を与え賜え」

 ヴィルヘルムの声が白の間に響き渡る。 白と赤―――二色の聖布が祭壇を囲む枢機卿各位の手から宙に放たれる。
 この場に集う全ての視線が祭壇へと注がれていた。
 故に誰も司教評議会の順席でひとつの影が立ち上がったことに気づかなかった。

「背教者共に神の鉄槌を!」

 裏返った男の声が殿堂内に轟く。 叫声と共に、白の間の一角で火の手が上がり、悲鳴と怒号がこだました。
 混乱の中、フードを目深に被った僧服の人影が、機械仕掛けの人形のように歪な足取りで走る。 邪魔な人間を突き飛ばし踏みつけ、祭壇に飛び乗る。 その勢いで頭部を覆ったフードがすべり落ちた。

「ゲティス!?」

 ファティマ・イスが驚きの声をあげる。
 蒼白く窶れきってはいるが、その顔は確かにウェルティス・ゲティス・フォンのものだった。 貴族連合に頼った反乱は失敗に終わり、免責と引き換えに教皇庁から追放された彼がなぜこの場にいるのか、誰にも理解できなかった。

「地獄に堕ちて永遠の劫火に焼かれるがいい」

 ゲティスは懐に忍ばせてあった短剣を掴み掲げると、体当たりをするようにアンヌフォルトへと切迫する。

「何をしている早く捕らえろ!」

 更に響き渡る悲鳴と怒号、逃げ惑い転倒した人間に阻まれ警備を任された聖堂騎士団も身動きがとれない。
 狂人の腕が真っ直ぐ伸びた。 洗練されていない素人同然の動作だった。 しかし、死を恐れぬ狂人の行動を妨げることは誰にもできないように思えた。

 ―――鮮血

「貴様……」

 ゲティスが血の滲むよう呻きを発する。 右手で鈍く光る刀身は、アンヌフォルトを庇うように立ち塞がったカルロ枢機卿の右胸に深々と突き立っていた。

「ゲティスさま……ご健在でなによりです」

 カルロは口元に笑みを浮かべると、皮肉を込めてゲティスを睨む。

「元老院と組んで、俺を排斥しておいて、よくもそのようなことを抜け抜けと言えたものだな」

「亡き聖下は……清廉潔白な人柄で稀代の聖人でした。 しかし、誠に残念なことで……その偉大な人徳は……親から子へと受け継がれる類のものではなかったらしい」

 カルロの身体がゲティスに掴みかかるようにゆっくりと崩折れる。
 ゲティスは倒れ込みながらも僧衣を放そうとしないカルロの手を力任せに振り払うと、カルロの胸元から短剣を引き抜く。

「くそっ、だがお前たちの神聖とやらもこれで終わりだ」

 ゲティスは恐怖で立ち竦むアンヌフォルトの細首を片手で鷲づかみ、血の滴る短剣を振り上げる。 しかし、その行為は完遂することはなかった。 素早く祭壇に回りこんだ聖堂騎士のひとりが、長剣を旋回させて凶刃を弾き飛ばしていた。 そのまま流れるような剣捌きで、ゲティスの首筋を長剣の峰側で捉え、その場に昏倒させる。

「遅れて申し訳ありません。 ヴィルヘルムさま」

 聖堂騎士はそう言うと全面兜を脱ぐ。 流れ落ちる銀髪―――下から現れた顔はヴィルヘルムのよく見知ったものであった。

「ミルフィーナ卿か」

 ヴィルヘルムの声に応えてミルフィーナが目礼する。

「ランスロット卿の手引きで、聖堂騎士団に扮してこの場に潜り込みました。 もっとも、聖堂騎士団内部にも元老院の間者がおり、この騒ぎがなければ祭壇に近づくことも儘ならなく」

 口早に状況を説明するミルフィーナ。 そして、彼女が脇に退くと、背後から待ち望んだ人物が現れる。 此方も聖堂騎士団の全身甲冑を纏っていたが、兜は既に脱ぎ落としていた。

「姫、よくぞ無事にご帰還なさった」

 ヴィルヘルムは、ひと目でシャルロットが携えた一振りの剣の正体を見抜く。 だが全ては遅かったのかもしれない。 口には出さなかったが、祭壇の上に落ちた白い聖布の数が全てを物語っていた。

「ヴィルヘルム先生、今はカルロさまを医務室に……シーラ、ノーラ」

 シャルロットはぎこちない動作でカルロの横に跪く。 傷口を確認して、遅れて追随していた双子の守護騎士に呼びかける。 傷は深いが急所は外れているようにみえた。 手早く処置を施せば助かるかもしれない。

「無用です……どうやら毒が塗られていたようだ」

 カルロは申し出を拒絶する。 彼の顔は、その言葉を裏付けるようにどす黒く変色しつつあった。

「ヴィルヘルム先生……」

 シャルロットはすがるような眼差しをヴィルヘルムに向ける。 老卿は拾い上げた短剣の刀身を調べ、首を横に振った。

「これは……古老たちに踊らされ、身の丈に合わぬ望みを抱いた……報い」

 カルロは視線を傾けアンヌフォルトの無事を確かめると、たどたどしく言葉を吐き出していく。 その呼気は目に見えて弱まっていた。

「よい……お顔に、なられた……。 今の……アナタになら……教会の未来を……たくせるかも、しれない」

 そう言うと、カルロは傍らに落ちる白い聖布を胸元に手繰り寄せる。 傷口から溢れる鮮血で白布が赤く染まっていく。

「これは……アンヌフォルトさまをお守り……戴いた……礼です」

 死の間際にすら他者を威圧するカルロの鷹眼が見る者を捉えて離さない。 その両眼がゆっくりと閉じられた時、カルロ・ミサ・シークリア枢機卿は静かに息を引き取っていた。

「この者の魂に平穏と癒しが齎されんことを」

 ヴィルヘルムが胸元で十字を切って、死者の魂の安静を祈る。 周囲を見渡すと、幸いなことに火の手は直に消火できたようで、混乱は収束しつつあった。 そして、老卿は全ての感情を切り捨てるように、大きく息を吐いた。

「皆、聞いていたであろう。 これで聖布の数は赤が一枚上回ったことになる。 ワシはカルロ卿の遺志を尊重してシャルロット・リュズレイを次期教皇に選出しようと思う。 如何かな?」

 ヴィルヘルムが毅然に言い放つ。
 今、この好機を逃すわけにはいかなかった。 再審となれば、カルロの聖布は無効とされるだろう。 人死を利用することに負い目を感じるが、慎重に言葉を選び他の枢機卿たちの判断を仰ぐ。

「お待ちください。 貴老は罪人を聖座に据えるおつもりか?」

 ライオネル卿から不服の声が上がる。 シャルロットには、大罪人であるミルフィーナ・ド・グラドユニオンの逃亡幇助並びに、共犯の疑いもかけられている。 それはこの場にいる全ての人間が知るところだ。 白十字教の信徒には彼の意見に同調する者も多い筈だ。

「亡き聖下を害したのは、ミルフィーナ卿ではない。 これは聖下が遺した手記じゃ」

 ヴィルヘルムは、この機が訪れるのを待っていたのだろう。 懐から取り出した羊皮紙の束を祭壇に広げる。 そこには、ウェルティス・フォン・バレル三世の苦悩が綴られていた。 教会の改革を進めるために、病を克服する術が必要だったこと。 その為にオルカザード家の屍族と血の契約を交わした過去。 そして、全ての決着が着いた後、自分の愚かな行いを白日の下に晒して、償うつもりがあると締めくくられていた。
 屍族との取引を行った時点で、不測の事態に備えていたのだろう。 教皇付の侍従は指示されていた通り、密かに手記を持ち出すと、それを信頼できる人物へと届けていたのだ。 この手記がゲティスの手に落ちる前に入手できたのは、ヴィルヘルムの助力もあるが、ファティマ・イスの功績が大きい。

「聖下のご遺体は、納棺されずに何処かへ持ち運ばれていたようですわ」

 ファティマ・イスがレムギザロス大聖堂で垣間見た事実を明らかにする。
 教会の暗部が浮き彫りになる度に 白の間に動揺が走る。 それは暗い奔流となり、疚しき心を持つ者を炙りだしていた。

「世迷言を……お前たち、早くこの者たちを捕らえるのだ」

 ライオネル卿は切羽詰ったようにわめき散らした。 視線の先では、ランスロットが数名の聖堂騎士を背後に従えて佇んでいた。 鎮火と混乱の収拾を部隊に命じて、己はいち早く少数の部下だけを引き連れて、騒動の渦中に馳せ参じていたようだ。

「残念ですが私もファティマ卿と同意見です。 聖下のご遺体は内側から喰い破られるように損傷していました。 あれは人間の扱う武器で負う類の傷ではないと断言できます」

 ランスロットは戸惑う聖堂騎士の動きを片手で制する。 成り行きを見守る司教評議会の列席者からざわめきが洩れた。
 ライオネル卿が呪詛の声をあげ、静粛を求めるが、彼の声に耳を傾ける者は既にいなかった。

「信じられません。 誰よりも不実を嫌い、善政に努めた聖下が……」

 アンヌベルク卿が呻くように呟いた。
 ウェルティス・フォン・バレル三世は歴代教皇の中でも屈指の聖人であった。 生前の教皇を見知った者には、俄かに信じられる話ではないだろう。

「聖下が為さろうとした宗教改革は、反対勢力との戦いというより、病に侵された己自身、それは時間との戦いだったのでしょう。 故に目的の為に手段を誤ったのかもしれませんわ」

 ファティマ・イスは偉大なる聖人も、またひとりの人間だったのだと説く。

「(これが…こんなものが……アルジャベータが命懸けで守ろうとしたものなの?)」

 シャルロットは目の前で展開する現実を、まるで遠い世界の出来事のように感じていた。 まるで現実感がない。 それは籠姫として俗世と隔離されて育った少女が、はじめて目の当りにした教会の姿だった。
 その時、何かが聞えた。 それを確かめようと視線を彷徨わせる。

「アンヌフォルト……」

 シャルロットのすぐ足元で、冷たくなったカルロの亡骸にすがりついて泣きじゃくる少女がいた。 その子が何者であるのかは直ぐにわかった。 そして、この幼い少女にとって聖座を得ることよりも、大事な存在があることにも。

「(この子はわたしと同じだ……)」

 ようやく、今自分が為すべきことに気づく。 シャルロットは巻きつけた布を解き、美しい装飾の施された長大な剣を露にする。

「(みんな……ごめんなさい)」

 これが神剣に宿る最期の神霊力であるのかもしれない。 命がけで得た神剣の最期の奇跡を、敵対していた人間の為に使うことに反対されるかもしれない。 でも、ここで使わなければ自分は一生後悔し続けるだろう。

「アルジャベータ……力を貸して」

 アンネシュティフから暖かな光りが溢れ、白の間を包み込む。

「シャルロットさま!?」

 ミルフィーナが目を見張る。
 この時になって、周囲の人間もはじめてシャルロットの行動に気づいた。 だが、驚きはしたが、その行為を止めようとするものはいなかった。 まるで時間が止まったかのように、人知を超えた光景を見守っていた。

「法や宗教は、人間が共存を目指す上で、正しくあろうとした結果生まれたものです。 ヒトは弱い、だから、生きる上で基準となるものは必要です。 でも、それは完全ではありません。 生まれや、立ち位置の違いだけで容易に相容れぬものへと変わってしまう」

 シャルロットが言葉を重ねていく。 その姿は純白の光りに包まれていた。

「教会は屍族を教敵として、忌むべき存在だと定めています。 でも、わたしをここまで導いてくれたのはひとりの屍族です。 聖下の命を奪ったのは屍族なのかもしれません。 ですが、過去に失われるはずだった聖下の命を救ったのも、また屍族です。 対話を避け、屍族と友好な関係を築く努力を怠らなければ、防ぐことができた悲しみもきっとある筈です」

 光りは命を宿した燐光となり、雪のように祭壇へと降り積もる。
 その一片がカルロの身体に溶けて消えた時、永久の眠りから醒めるように、閉じた鷹眼がゆっくりと開かれる。 優しく微笑んだシャルロットは、決然と立ち上がり白の間を見渡す。

「わたしは教会を正そうとは考えません。 先人の知恵から学びこそすれ、過去に生きるつもりはないからです。 人間の価値観は時代や世相に影響されて常にカタチを変えていくものだと思うから。 今必要なことは、今を生きているわたし達が決めることです」

 神剣アンネシュテイフを携えたシャルロットの姿は、白ノ間の円天井に描かれた聖女アルジャベータと重なってみえた。 それは神話の一場面のように神々しいものだった。



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