「ふぅ……」
ミュークが胸裏を占める重みに堪えかねたように息を吐く。
それにしても運命とは奇妙なものである。 首人となった母アルフォンヌを探してアダマストルに流れ着いたのが、今では遠い昔のように感じられた。 そこで商王ヘリソンの夜会に招かれ、仮面の男から持ちかけられた取引―――聖女の誘拐という突拍子もない計画に一枚噛むことになる。 彼等の思惑にも興味があったが、それ以上に商王と懇意になり、その情報網と影響力を利用できれば、母を探す大きな手助けとなると公算したからだ。 だが、直に出鼻を挫かれる。 レムリアが持ち込んだ誤情報を鵜呑みにし、すったもんだの結果、聖女シャルロットではなく、妹姫であるプルミエールを連れ去ることになった。 当初の計画は大幅に軌道修正されたが、その時はまだ良かった。 プルミエールを餌に聖女を吊り上げようと、打算的な腹積もりであったからである。 一番の誤算は共に旅をする内に、そのお転婆姫に情が移ったことだ。 いつの間にか逃避行そのものを楽しむようになっていた。 しかし、水都の遺跡でオルカザード家と接触して、事態が激変した。 シャルロットが真の聖女でない事実と共に、プルミエールという手駒さえ失ってしまった。 今では人族の王国と友誼を結び、共同戦線を張って現状の打開を図っていた。
加えて、耳を疑うような噂も聞えてくる。 ウェルティス・フォン=バレル三世の死去に伴って、新教皇に選出されたのはシャルロット・リュズレイだという。 先日、最年少で着座した新教皇の即位及び戴冠の儀が執り行われたそうだ。
今にして思えば、商王ヘリソンはシャルロットの正体を知り、その確証を得る為にウィズイッド家との接触した可能性もある。 聖アルジャベータ公会の暗部を握り、そのお膝元であるナイトクランの富を独占しようと画策したのかもしれない。 もっとも、それを確かめる術はなく、全ては憶測の域である。
「しかし、驚くべきは人の世の移りの速さよ」
ミュークは貴紅酒が注がれた瑠璃杯を傾けて喉を湿らせる。 悠久の時を生きる屍族ならではの感慨である。 もっとも、その驚きの半分はその渦中の只中にいる自分自身に向けられていた。
「まさか、愚痴を聞かせる為に私をここへ?」
ファナ=ローズオリビアが憮然とした面持ちでミュークと対座していた。
「そうつれないことを申すな。 慮外、ここは居心地が良い。 白屍姫殿も寛がれたらどうじゃ?」
ミュークと双子に宛がわれたのは、王室御用達の天上貴賓室だった。 プルミエールが居座っていた部屋を、そのまま使用することになったのだ。 当初、個々に部屋を用意されたのだが、ミュークが双子と同室を希望したのである。 レムリアの様子が気掛かりだった為だ。 ファナにも同等の部屋が用意されていたが、人族と必要以上に馴れ合うつもりはないらしく、丁重に断っていた。 それでも最低限度の礼節を重んじたのは、融和の姿勢を保つことに、なんらかの意図があるからであろう。
「ウィズイッドの当主よ。 今はそのような時では……」
「無粋なことを申すな。 白屍姫殿も存分に飲まれい」
そう言って貴紅酒がなみなみと注がれた瑠璃杯を差し出す。 味も喉越しも最高のものだった。 収穫、栽培、剪定からはじまり特別な熟成法で醸造された最高級品であることは疑いようもない。 それが部屋の隅に据え置かれた木樽単位で飲み放題なのである。 金銭苦から衣食住も儘ならなかったミュークが多少浮つくのは仕方がない。 全ては屍族の性質を理解したカタリナ老公女の配慮だった。 これだけあれば、渇きの禁断症状に苛まれる心配は当分いらないだろう。
「度が過ぎれば、どのような美酒も毒となります」
「ワチキの酒が飲めないと申すのかえ?」
悪酔いしたのか、ミュークがファナに絡む。 ファナは小さく溜息をついて、瑠璃杯を受け取る。 普段ならレムリアが止めに入るところだが、屍族の少年はここに到着するなり、思い詰めた顔で出て行ったまま、戻っていなかった。
「あの少年の姿が見えないようですが?」
ファナもレムリアの異変に気づいていたのだろう。 公宮での様子を見た限り、一人にするのは得策ではないと誰の目にも明らかだった。
「ルムファムに後を着けさせておる。 いざとなれば力ずくでどうにかするであろう。 それに今はワチキが側におらぬ方が良い」
一瞬だけ真顔に戻ったミュークが自嘲するように呟いた。 それから、徐に耳朶の裏側に指先を差し入れ、豆粒状の塊を摘みだす。
「それにしても、便利なものじゃな。 確か“伝蟲(デンチュウ)”と言ったか?」
それは赤と黒で彩られた小型の甲虫だった。 根無し草であるファナを呼び寄せたのは、この鮮やかな色合いの生物である。 ミュークも詳しくは知らされていないが、血を与えた者の間を自在に飛び回ることが可能らしい。
「オルカザード家に古くから伝わる霊蟲の一種です。 ですが、酔った振りまでして、聞きたかったことはそれですか?」
ファナの鋭い視線がミュークを射抜く。
「なるほど、生き急いではおっても、眼は雲っておらぬらしい。 それでは単刀直入に問おう。 白屍姫殿がワチキ等と行動を共にする理由を知りたい」
「私の帯同を望んだのは、アナタです」
ファナの答えは短い。 事実のみを端的に伝えるところはルムファムに通ずるものがある。 もっとも、あの能面美少女とは違い、その言葉には裏と表が存在していた。
「ならば、質問を変えよう。 オルカザード家の血脈が受け継ぐ、血統アルカナ“魔術師”の現継承者は誰ぞ?」
ミュークは言葉を釣り糸にファナの心裡を探る。
「……これ以上、深入りすれば片腕を失うだけでは済まなくなります。 先程のアナタの言葉ではありませんが、生き急ぐおつもりなら、無駄死にするだけです」
ファナが小さく息を吐いて両眼を閉じる。
「それは光栄じゃな。 じゃがワチキは自暴自棄になっているわけではない。 白屍姫殿と同様に過去に縛られてはおるが、目的と手段は分けて考えておる。 今のワチキには全てを捨て置いても、守らねばならぬモノがあるのでな」
ミュークは自分の言葉にこそばゆさを覚えたのか、一つ咳払いをして話題を本筋に戻す。
「ルドルフの息子はインフェルノ第六圏の強化術式“炎渦呪波”を操りおった。 あの者の出生が確かなら、半屍族の器で第五圏より深層域の屍霊術を制御できるとは到底思えぬ。 ワチキは、そこに“魔術師”の血統アルカナの存在が絡んでおると考える」
ミュークの推論は決定的な証左に欠けている。 故に黙って、その時が来るのを待つ。 煉瓦造りの暖炉で燃え上がる炎がファナの横顔に深い陰を落としていた。
「……あの男は卑劣な姦計を巡らせ、お館様を喰らったのです」
暫しの沈黙の後、ゆっくりとファナの銀灰色の瞳が開いた。
途切れ途切れに紡がれた話は凄絶なものだった。 ラグナウェルは体内に喰蟲(ジキチュウ)―――千年蠱毒でも秘中の秘とされる凶蟲を巣食わせ、生きたままルドルフを喰らったという。 喰蟲は 摂取した生物の記憶や能力を取り込み、母体の血肉と成す。 つまり、ルドルフは肉体的には消滅しているが、その魂魄はラグナウェルの裡で存在しているらしい。
「なるほど、それ故の仇討ちか。 じゃが、あの青年を斃せばルドルフという存在は完全に消滅してしまうのではないのかや?」
それは同時にファナの死を意味する。
ルドルフが滅びれば、主と命を共にすることで不死を得た屍姫も同様に最期を迎えることになる筈だ。
「主を守れずに、おめおめと生き恥を晒す愚か者には、相応しい最期といえるでしょう」
ファナは感情の欠如した声でそう言った。 既に滅びを迎える覚悟はできているのだろう。 その決意に、ミュークは僅かに表情を曇らせただけで、否定も肯定もしなかった。 同様の岐路に立たされた時、逃げることを選んだ自分に、その資格があるとは思えなかったからだ。
「しかし、白屍姫殿ならば、あの三人を相手にしても互角以上に渡り合えるのではないのかや?」
ミュークは円卓に片肘をつき、細顎に軽く指を添えて質問を続ける。
現にあの場でファナは不意打ちとはいえ、ラグナウェルに手傷を負わせ、アーネルとも互角に斬り結んでいた。 鉄環の如き包囲から逃げ果せたのも、彼女の神技があったらればこそだ。
「残念ですが、そこまで自惚れてはいません。 アーネルやラールウェアお嬢様が周囲を固めている限り、あの男には近づくことさえ適わないでしょう」
ファナは不死者であっても、全能ではない。 首を斬り落されても再生することは可能だが、傷を負えば動きは鈍るし、再生速度は通常の屍族と同等だ。 身動きがとれなくなったところを拘束されれば為す術がない。 そうなると、必然的に不意打ち紛いの短期決戦に持ち込むしか勝機はない。 そういった意味で、ロアの遺跡の一件は千載一遇の好機だった。 故にそこで仕留め損なった衝撃は、ファナにとって大きかったようだ。
「それでワチキたちか」
「油断のならぬ男ですが、一騎討ちに持ち込めば勝機が生まれます」
要するに、ラグナウェルに追従する邪魔者を引きつける為、囮になってくれと言いたいのだろう。 身勝手な言い分だが、ミュークがファナに期待することも似たようなものである。 あわよくば、斃してくれと皮算用していない分、ファナの主張のほうが幾分良心的である。
「確かに人族には些か荷が重い役回りじゃな。 しかし―――」
そこでミュークは言葉を切る。
扉口に人の気配を感じたからである。 誰何の声をあげる間もなく、黒檀の扉が勢いよく開け放たれた。
「随分と豪勢な部屋に泊まっているじゃねぇか。 人攫いってのはそんなに儲かるもんなのか」
不躾な物言いと共に現れたのは、左目に被り眼帯をした髭面の大男と、何処か見覚えのある亜麻色の髪の少女だった。
|