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rainywoods2001

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2009.07.15
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カテゴリ:映画

バットマンって もとは、 
犯罪被害者遺族である少年だったんですね。
失われたものは 両親だけではなく
彼にとっての信頼できる社会のイメージではないか。
信頼できる社会とは 共同体のようなイメージであり
彼自身の道徳の源泉でもあったか。

犯罪被害者遺族でなくとも 
誰でも 社会との亀裂は大人になる過程で経験する。
いわば一度は 社会から堕ちていくわけだ。
(這い上がるために と 映画では強調される)
まったき孤独のなかで 再び 社会とのかかわりを
見出すことができるか。自らの裡に自由に倫理的なものを
発見できるかどうか。
そこが 無差別殺人者になるかどうかの分かれ目なのかもしれない。

なんてことを考えさせられます。
 
もともと 近代社会が理論的に想定している自由な個人というものは
バットマンみたいなものなんですね。超社会的存在としての個人。
いわば成員が全員バットマンであるようなメタ社会・
脱共同体社会が近代社会。
こういうリベラリズム的なクールな社会像からみると
バットマンというのは等身大のヒーローなんでしょう。

そして 大悪役のほうも 超社会的存在なんで
善悪の選択は 個人的趣味に近いものになっている。
こういう相手に バットマンは
お前なんでこんなことをするんだ 反省しろ とか言わない(笑)
悪に反省をもとめてしまうのは 共同体の作法なんでしょうね。

「殺しもしないし 助けもしない」 という
バットマンの悪人に対するセリフは クールです。
悪人は悪人の運命をたどるがよい その個人の自由は妨げない。
実はこれ 「終身刑」の思想でもあるんでしょうね。
更生なんか 別にもとめない。むしろ求めちゃいかんのです。
個人の尊重のためには 殺してもいかんのですね。
 
半分ヤクザみたいな宮崎学が「法と掟」のなかで
日本人は 憲法の核である 個人の尊厳 をまったく理解していない
と言うのがなんだかわかった気がしました。
日本人が理解しているのは 共同体のなかでの個人だけなんですね。
貴族も 強烈な自由人としての悪人も でてきにくいわけだな。
 
というわけで ダークナイトも見よう。
 
 






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Last updated  2009.07.15 20:56:00
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