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カテゴリ:陸上競技
中盤での攻防,朝原選手( 6レーン,左から3番目 )は3~4番手に 9月23日( 火 )のスーパー陸上を観戦しました。 天気予報の予想通り好天に恵まれましたが,20~29℃の寒暖の大きな1日( 12時 ~ 17時30分 ) でもありました。 例年より,中高校生による400mリレーは,神奈川県全体からの参加のものでした。 リレーの最後は,10×400mリレーでしたが,嬉しいハプニングがありました。 ウサイン・ボルト選手 特別に招待された,かの有名なウサイン・ボルト選手がスターターを務めましたが。 ラストの200mを大きなゆったりとしたストライドで伴走してくれ,大サービスの緩走ぶり でした。 結局,優勝したチームは9分50秒台,10人の平均タイムが59秒台になりました。 合計20チームが3つのレースに区分され,タイムレースとして,順位を決めました。 朝原選手のラストランでの前評判が高く,観客数も,25,000収容のスタンドはチアリー ダー100数十人による開会式で始まる頃 ( 13時30分 )は,ほぼ満杯になりました。 今回の外国の招待選手は,例年よりメンバーが落ちましたが,フィールド競技ではほぼ盛況だ ったと思います。 ハンマー投げでは,室伏広治選手が徐々に調子を上げ,最後の投擲で81m台で逆転優勝しま した。 珍しくファウルを1回しましたが,80m台を出し,好調でハンマーの軌跡もスピードがあ り,高さもあるものでした。 この大会では,非常に珍しいことがたびたび起こりました。 なぜか,ひどい向かい風でもない( -0.5 ~ -1.0m )のに記録が伸びないのです。 この程度の向かい風ではそれほど記録は落ちないのが普通だと思っていましたが。 たとえば,女子100m(-0.6)で福島千里選手が外国勢を抑えて優勝も,記録は11” 70とICなみでがっかりしました。 男子110mH(-0.7)の優勝タイムは13”71で,東日本実業団での記録回で優勝の 李正俊(韓国)選手が予想を裏切って優勝をさらいました。 男子400mH パーション・ジャクソンが49”33で優勝も,2位の成迫健児選手は4 9”68で,先行したものの追い抜かれました。 16時頃には,100mの男子の選手が現れ,選手紹介で一層ボルテージが高くなったようで す。 朝原選手の紹介では,一段と歓声が高くなりました。期待と応援の半々でしょうか。 女子の100mが始まる16時30分からは,気温が25℃,風は1~2mという具合に条件 が整い始めました。 100mのスタートの模様 番狂わせで,思いもしない幸運の風が吹くよう期待していました。 各レーンに選手がスターティングブロックを取り付け,練習開始です。 朝原選手が50m付近へ,スタート練習で来ると,また声援が。 いよいよスタート。実況のアナウンサーの声が高いような。 1回目は,8レーンの外国人選手がフライング。(あとで録画したのを聞いたら,日本人選手 はまずしないだろうと。) 2回目は揃ってスタート。しかし心もち朝原選手は遅れたかも。 7,8レーンの持ちタイム有利の外国人選手が先頭に立ち,あとは3~6レーンのリレーチー ムが横一線,わずかに3,6レーンの塚原,朝原選手が出ていました。 結果は,1位が10”19,朝原選手が日本勢ではトップの10”37,塚原選手の10”3 9をわずかに抑えました。 ゴール後は,順位はともかく,無事ゴールしてくれたことに感謝しました。 右から3番目の上が赤のユニフォームが朝原選手 「 朝原ごくろーさん 」「 朝原~さ~ん 」「 朝原~~~ 」など男女の悲喜こもごも の歓声がありました。 「 長い間ご声援ありがとうございます 朝原宣治 ~Iam yourSPRINTER ~ 」の大きい垂れ幕をリレーの メンバーで持ち,グラウンドを1周し,満員のスタンドにお別れの挨拶をされました。 この時間が意外に長かったのは,今までの陸上競技者の中でも異例だったかもしれません。 あのマラソンの世界的選手だった瀬古利彦選手でさえも,1988年の11月下旬,千葉で新 設された,国際千葉駅伝のアンカーで登場。 たすきを繋いで,日本チームの一員としてゴールしました。 しばらくして,トレーニング姿で,千葉県のグラウンド周辺に集まったファンに右手を挙げ て,グラウンドを1周しました。 沢山のファン~~女性のほうが多かったかもしれません。~~の声援が大きな後押しになっ て,引退式のようなものになったような気がします。 さて,グラウンドを垂れ幕をもって1周した後には,花束が贈呈されました。 胴上げされる,歓喜の表情の朝原選手 川崎市長の阿部孝夫氏,大学( 同志社大 )の同期生の3,000mSCの早狩実紀選手,北 京の400mリレーのメンバーの高平,塚原の両選手,最後に短距離女子の福島選手から受け ました。 朝原選手の涙腺が次第にゆるくなってきましたが。周囲にいた10数人で,胴上げされ,1~ 2~~3回目はとても高く上がり,しかも脚はV字型という偶然も。 半分涙の朝原宣治選手 そして,最後のメッセージをスタンドに向かって伝えてくれました。 以下に,ほとんど全文をお送りします。 「 こんなに幸せな最後を迎えた選手は,他にいないと思います。僕は本当に幸せものです。 これから続く選手が,僕のように長く,最後の最後まで幸福な選手生活を送れるように,育つ 環境,伝などをできるだけのことを,自分の経験などを生かして行きたいと思います。 このリレーのメンバー,陸上競技の選手,スポーツをする選手を応援してください。 今日はどうも有り難うございます。ここまで有り難うございます。 」と。 周囲にいた10数人で,胴上げされ,1~2~~の3回目はとても高く上がり,しかも脚はV 字型という偶然も。 スタート地点に戻って,真ん中の5レーンから,ベテランのスターターの合図で100mのゴ ールまでゆっくりと走り,両手を大きく伸ばして,いつもの仲間の待つゴールへと入線しまし た。 家族と対面する朝原選手 ゴール後は,1コーナーの前列の大阪ガスの応援団と,家族の史子夫人と長女,長男の方が待 つスタンドで,しばしのご対面となりました。 ここで,最後の「 有り難うございました 」の朝原宣治選手からの応答があり,引退記念の イベントが終了しました。 今日の引退イベントは,いかにも朝原選手向きのような気がしました。 とてもメリハリが利いて,まあ日本風なのはいたし方ありませんが,ボルト選手まで呼び込ん でしまったのは,日頃の誠実な人柄を表すものでした。 これからも,丈夫で長く活躍する選手が育つのでしょうか。 ちなみに,世界では40数歳のジャマイカ~スロベニアに移籍したマリーン・オッティ選手は 100mで,オリンピック,世界選手権に挑戦しています。 また年齢を問わずに,いまだにマスターズ陸上で活躍されている選手がおられます。 これからの,朝原選手の行き先は,母校での大学院での復学~指導者としての道を歩むことで しょうか。 希望が溢れる未来に向かって,限りなき前進をきっとしてくれることでしょう。 史子夫人と2人のお子さんの強いバックアップで,新しい朝原選手を見たいものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 朝原選手はどうして,20数年もの長い間長い間陸上競技を続けられたのでしょうか。 彼の元同僚だった為末大選手によれば,競技に執着していないとのことでした。 しかし,一見穏やかな人でも,いざ競技になると一変する例は枚挙にいとまがないほどです。 為末選手は朝原選手と海外遠征など接触が多かったので,彼をよく知っている一人です。 やはり,ありふれた言葉ですが,陸上競技に対する情熱( 熱い気持ち ), 探究心,自分を 成長させてくれる源,大勢の競技者やコーチなどの自分では予想もつかぬほどの恩恵を与えた り,自分も与えたりできる「 広い世界 」と認識できるからだと考えますが。 こういう気持ちは,多分小さい時や若い時にも片鱗があったはずです。 ドイツ遠征では,ドイツ語を積極的に学び,(サッカーの奥寺選手がドイツのリーグ----1F C ケルンなどで活躍した時も語学を大切にしました。)ドイツのコーチや選手との交流されたと か。 いわゆる文化人,国際交流の公人としての役割も果たそうとしています。 スポーツ選手の生活からは,いろいろなことを学ぶことができます。 我々一般人は,国際級のスポーツ選手の戦いぶり,記録,仕草等の表面的な部分しか映りませ んが,彼らの成功の過程をみると,なるほどなと思うことばかりです。 一見ストイックな練習生活も,これからの人生の大きな財産となるような気がします。 競技の生活がなくなると,健康を保つのが大変と聞きます。 健康を大切に,今後のご活躍に期待したいと思います。 <注> 写真は,ビデオから撮ったものですから,うまく映ってませんがご了承ください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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