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楽珍人生

トルコ1  3007 イスタンブール



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(国章として正式に決定した紋章はない)


トルコ共和国 (Türkiye Cumhuriyeti)
面積:780,576平方キロメートル(日本の約2倍)人口:約7,200万人(2007年)言語:トルコ語(公用語)民族:トルコ人の他、少数派として南東部を中心にクルド人、その他アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人等。宗教:イスラム教徒(多数派はスンニー派、少数派としてアレヴィー派)が大部分を占める。その他、ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒等が存在する。国家の政策として政教分離政策を採用している。政体:共和制(1923年10月29日、共和国建国)議会:一院制(550議席)(任期5年)アジアとヨーロッパの2大陸にまたがるトルコは、東洋と西洋をつなぐ橋になろうとしている。ヨーロッパに占める国土の割合は約5%だが、トルコ最大の都市イスタンブールを持つ。約1000万人が居住するイスタンブールは、モスクワとパリに次いで、ヨーロッパの都市部で3番目に人口が多い。一方アジア大陸の一部となっている部分は、乾燥したアナトリア高原が広がり、アナトリア沿岸部には、肥沃な低地が広がる。標高5137メートルのアララト山は国内の最高峰で、聖書による「ノアの箱舟」が漂着したとされる場所である。オスマン帝国が、600年にわたって、この地に中心を置き、第1次世界大戦で連合軍に敗北するまで、アフリカ北部からヨーロッパ南東部、そして西アジアにかけて広大な領土を広げた。1923年、トルコ建国の父として知られる、トルコ初代大統領ケマル・アタテュルクが共和国の基礎を作り、保守的なイスラム社会を現実的で西洋的な国家に変革した。アタテュルク大統領は、アラビア文字ではなくローマ字でトルコ語を書くべきであると主張した。また、イスラム教のベールから女性を解放することを望み、1934年、彼の努力により女性に参政権が与えられた。トルコは1945年には国連に、1952年には北太平洋条約機構(NATO)に加盟した。トルコとギリシャの両国は、NATOに加盟しているが、エーゲ海とキプロスをめぐる紛争により、その関係は緊張している。1974年、軍事クーデターからトルコ系キプロス人住民を保護するため、トルコ軍はキプロスに侵攻した。キプロス北部に3万人のトルコ軍が現在も駐留する。トルコ南東部では、トルコ軍とクルド人国家の独立を求めるクルド労働者党(PKK)の間の内戦が、1980~90年代にかけて続いた。クルド労働者党に対し、トルコ議会がクルド人の権利拡大を認める法案を通過させたため、関係は改善された。1990年トルコは、イラクのクウェート侵攻に反対する西洋諸国を支持し、2003年のイラク戦争では、トルコ空軍基地の使用を米軍に認めた。1999年、トルコは欧州連合(EU)の加盟候補国として承認された。300万を超えるトルコ人が、EU加盟諸国で生活し、その大半はドイツである。 (参考:www.nationalgeographic.co.jp  Wikipedia etc)

 

地図




イスタンブール

イスタンブル市(トルコ語: stanbul )は、トルコ共和国西部に位置する都市。ボスポラス海峡をはさんでアジア(アナトリア半島)側とヨーロッパ(トラキア地方)側の両方に拡がっており、2大陸にまたがる大都市である。首都アンカラを上回る同国最大の都市であり、文化・経済の中心となっている。イスタンブル県の県都でもある。2000年の人口は約880万人で、イスタンブル県全体では1000万人を越える。モスクワ、ロンドン、ルール地方、パリに並ぶヨーロッパ屈指の人口規模をもつ。その歴史は長く、かつてのローマ帝国、東ローマ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国の首都が置かれていた。イスタンブール歴史地区は世界遺産に登録されている。

ブルーモスク

ブルーモスク1




ブルーモスク2




アヤソフィア

アヤソフィア1

(ブルーモスク入場門からアヤソフィアを望む)






トプカプ宮殿

トプカプ宮殿1
バービュッセラーム(挨拶の門)                    ハレムの中庭



トプカプ宮殿2
美術館入場を待つ人々                     ハレム内(果実の間)






(宮殿テラスよりボスポラス海峡を望む)
トプカプ宮殿3
トプカプ宮殿内レストラン


地下宮殿
地下宮殿(イェレバタン貯水池):

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスによって建設されたものであり、かつてここには柱廊によって囲まれた中庭を有するフォルムのような空間があり、裁判や商業活動に利用されていた。ユスティニアヌス帝はこれを解体し、最も南にあった柱廊の部分を掘り下げて、ここに貯水槽を設置した。貯水槽は長さ138m・幅65mの長方形の空間で、高さ9m、1列12本で28列、合計336本の大理石円柱を備え、それぞれが煉瓦造の交差ヴォールトを支える。これによって78,000立米の水を貯えることができる。円柱のうち、98本は5世紀に流行したアカンサス柱頭を備えたもので、おそらく流行遅れの在庫処分品であったらしい。このほかにも、目玉飾りで覆われた柱身や、メデューサの顔が彫られた古代の石塊を土台にするなど、特に美的効果を必要としなかったために半端な材料が用いられた。壁体は、水を通さない特殊なモルタルでおおわれた厚さ4mの耐火レンガの壁に囲まれている。
コンスタンティノポリスの給水については不明な点が多く、この貯水池の水がどこからやってきたのかについては明確ではない。おそらく街の北19kmにあるベルグラードの森から供給されたと考えられるが、現在残る水路はオスマン帝国によって作られたもので、「ユスティニアヌスの水道橋」と呼ばれるものも16世紀に創られたものである。
この貯水池は、ジェームズ・ボンドの映画『007 ロシアより愛をこめて』の撮影場所として使われた。




bazaru
グランドバザール



FISH RESTAURANT SUR BALIK
レストラン1






ボスポラス海峡



ダーダネルス海峡

ダーダネルス海峡
ダーダネルス海峡は、トルコの北西にあるエーゲ海とマルマラ海を結ぶ狭隘な海峡。
海峡の延長は約60kmであるが、幅は1.2から6kmほどしかない。この海峡は古代より戦略的な要衝であり、例えばトロイア戦争はこの海峡のアジア側の地で戦われた。ペルシア帝国のクセルクセス1世やマケドニアのアレクサンドロス大王は、それぞれ海峡の反対側に遠征するためにこの海峡を渡り、オスマン帝国のオルハン・ガーズィーがビザンツ帝国のヨハネス6世カンタクゼノス帝の要請を受けて初めてヨーロッパに渡ったのもこの海峡であった。のちにオスマン帝国はこの地で艦隊を創設し、帝国が東地中海の覇権を握る上でも、首都イスタンブルを南から防衛する上でも非常に重要な地となった。





ト ロ イ 

トロイ
伝説上の木馬                   6世紀初頭の大震災でトロイは歴史から消えた

トロイ遺跡
現地の説明案内板 
トロイとはイリオス、トロイアなどと呼ばれるギリシア神話に登場する都市。その話を信じたドイツのシュリーマンによって発掘された。紀元前30世紀に始まる青銅器時代に建設され、その後エーゲ海交易の中心地として繁栄し、全部で9層にもわたる都市遺跡が形成されている。紀元前1200年頃のトロイ戦争により都市は滅亡への道をたどる。しかしこの遺跡が古代都市イリオスであるか否かは議論のわかれるところである。ホメロスのイリアスには複数の都市に関する伝承が混合している可能性が指摘されており、その中に、このトロイア遺跡が含まれているということについては概ね合意が得られていると言える。最も重要な証拠となる第VII層の大部分が発掘によって消失しているので、イリオス遺跡が伝説上のトロイアであるという決定的な証拠はない。とは言え、この遺跡の発掘が考古学の発展に与えた影響は大きく、1998年、世界遺産に登録された。








ペ ル ガ マ

ペルガマ

ベルガマはカイクス川(caicus)の北側に起こり栄えたギリシャ都市。ヘレニズム時代にアッタロス朝(紀元前282-129年)のもとでペルガモン王国の首都として栄えた。ペルガモン王国はユメネス2世の時代(紀元前197年-159年)に勢力を拡大し、最盛期を迎えた。この38年間にベルガマ遺跡は築かれ、またパムッカレのヒエラポリスも同時期に建てられた。アテネのアクロポリスをモデルとしたアクロポリスを築いたが、これは現在ベルガマではなく、ベルリンのペルガモン博物館で展示されている。ベルガマは古代ギリシャ時代にアレキサンドリアに次ぐ規模の図書館を有していた。その蔵書数は20,000冊に及んだといわれている。プトレマイオス朝がパピルスの輸出を停止したのち、ペルガモン王国はぺルガミヌスと呼ばれる羊皮紙を発明した。最後の王アッタロス3世の後継者はおらず、また内戦を防ぐため、彼は遺言としてローマの属州になることを命じた。ベルガマ遺跡内にはアスクレピオン(病院)がある。ここで病人は聖なる泉で入浴し、その後夢で古代ギリシャ神話の薬と治療の神・アスクレピオスが出てきて治療法などを教えたという。出土品の中には回復した病人がアスクレピオスに捧げた小さな壷などがある。また、ベルガマの教会は聖書の「黙示録」に出てくる7つの教会のうちのひとつである。ベルガマ遺跡では1874年に発掘が始まったが、ドイツ人技師カール・ヒュマンが遺跡の一部を発見したのち、1878年にドイツ考古学研究所も発掘に参加した。1927年にはアクロポリスが発見された。カール・ヒュマンは死後、遺言どおりアクロポリスに埋葬された。
「アクロポリス」の頂上付近、更には中腹と麓全体には、多くのヘレニズム文化とローマ時代の遺構が無数に残されている。アクロポリスの丘頂上にある「トラヤヌス神殿」は、 ローマ皇帝・ハドリアノスが前皇帝・トラヤヌスのために、紀元2世紀半ばに建造したものである。 




イズミール

イズミール:ヘロドトスによれば、紀元前1000年ごろにアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、文化的・商業的中心地として大きく発展した。イオニア同盟の主要な都市の一つとなる。ホメロスが暮らしていたのもここであったと言われる。リディアの攻撃(紀元前600年ごろ)によって破壊された。その後、リディアやアケメネス朝ペルシアの支配を経て、アレクサンダー大王の治世下で都市が再建された。紀元前1世紀よりローマ帝国、また、4世紀以降はビザンティン帝国の支配下で繁栄を謳歌する。1415年、オスマン帝国に占領された。17世紀から19世紀にかけては、さまざまな出自の商人たちが集まり、国際商業都市として栄えた。とりわけ、アルメニア商人はイランの絹をヨーロッパの商人に供給して利益をあげた。19世紀になると、オスマン帝国の欧米に対する経済的従属が深まった。港湾部がイギリス資本によって整備され、1866年にはイズミルからカサバ、イズミルとアイドゥンを結ぶ鉄道が、同様にイギリス資本に支えられ開通した。これによってイズミルは、列強の工業製品を受け入れつつ、農作物を国際市場へと供給する拠点となった。列強による鉄道敷設はさらに進められ、1888年にイズミルとアンカラを結ぶ鉄道の敷設権をドイツが獲得し、1893年に開通させた。
イズミルの海岸第一次世界大戦においてオスマン帝国が協商国側に降伏すると、1919年5月15日ギリシア軍はアナトリアに上陸し、イズミルを含む一帯を占領した。その後、1920年8月のセーヴル条約で、ギリシアによるイズミル地方の領有が期限つきで認められたが、1922年9月にはケマル・アタテュルクの率いたトルコ軍が奪還した。この際、アルメニア人居住区で大火が発生し多数のアルメニア人が死亡した。1923年7月のローザンヌ条約によってトルコの主権が回復された。





エ フェ ソ ス

エフェソス1
1万冊を超える蔵書を誇るセルスス図書館跡(117年完成)


エフェソス2
マゼウスとミトリダテスの門             大劇場(25000人収容BC3世紀完成)

ニケの女神
紀元前16-17世紀にかけて、移住してきたギリシャ人が築いたのがアルテミス神殿を中心に繁栄した古代エフェソスの街。紀元前7世紀頃、キンメリア人の攻撃を受け街も神殿も破壊されたが、リディア王クロエソスが再建、後紀元前5世紀、アケメネス朝によって占領、紀元前4世紀アレキサンダー大王の登場を待って、ヘレニズム時代となる。1世紀、初代ローマ皇帝アウグスティヌスによってローマ帝国領アジア州の都とされ広大な帝国内でも5本の指に入る大都市として発展した。3世紀、ゴート族の攻撃を受けたのが直接のきっかで衰退した。、7-8世紀、イスラム教化されたアラブ人の侵略を受け、後土砂に浸食され、港も埋まり廃墟となった。数々の遺構のなかでもとりわけ印象的なのが、図書館とローマ劇場だろう。図書館は「ケルススの図書館」と呼ばれ、2世紀初頭に建築された。3世紀のゴート人侵入のとき、図書館は炎上したが、正面部分だけは破壊を免れた。今日も目にすることができるその姿は独特で、太さの異なる柱の利用や立体的な配置など、視覚効果をねらった傑作である。








ブルーモスク1 

パムッカレへ








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