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楽珍人生

トルコ3 地中海地方3009





パムッカレ


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パムッカレ

パムッカレ夕日
トルコ語で。"綿の城"という意味のパムッカレは、ローマ時代からの温泉地として賑う。丘状台地で湧く温泉は石灰分を多量に含み、真っ白な段々畑のよう見える100メートルにも及ぶ石灰棚の広がる。遠くから眺めれば、昼間は太陽の直射光線に照り返って白く輝き、夕方、太陽が傾くと石灰棚全体がオレンジ色に染まる。
石灰棚の近くの都市ヒエラポリスは、古代王国ペルガモンのエウメネス2世によって紀元前190年頃に建設された都市で、後に口ーマ帝国に譲渡されている。この都市は再三、地震に見舞われ、造られては破壊されるという繰り返しを経て現在に至る。今残っている都市は2世紀から3世紀にかけてローマが本格的に造り替えたもの。斜面を利用した野外劇場は2世紀ドリアヌス帝によって建造されたもので1万人以上収容できる規模を誇る。ファサードのレリーフにはギリシャ神話の神々が並び、3つのアーチがあるドミティアン門、大理石の列柱が並ぶ石畳のメインストリートなどローマ全盛期の威勢を伝えている。



ヒエラポリス 野外劇場
ヒエラポリス2



ヒエラポリスの夕日
ヒエラポリス1



アフロデシアス

アフロデシアス




ア ン タ ル ヤ

アンタルヤ
アンタルヤアンタルヤ:
紀元前2世紀、ペルガモン王アッタロス2世がこの町を開いてアッタレイアと名づけて以来、アンタルヤは常に繁栄してきました。この町はローマ帝国、ビザンチン帝国、セルジュク朝と次々に占領された後、オスマントルコ帝国による支配が始まりました。町の中心部にあるイヴリ・ミナーレ・モスクのエレガントなフルートのような形の尖塔は、セルジュク朝の13世紀に建てられたもので、アンタルヤのシンボルになっています。
この町の最も重要なオスマントルコ時代のモスクは、タイルの装飾がすばらしい16世紀のムラット・パシャ・モスクと18世紀のテケリ・メフメット・パシャ・モスクです。マリーナの隣には、天然の泉の上に4本の柱を建て、その上に切り出された石で造られた19世紀後半の魅力的なイスケレ・モスクがあります。フドゥルルック塔は元は2世紀に灯台として造られました。ケシク・ミナレット・モスクは、ローマ、ビザンチン、セルジュク、オスマントルコの4つの時代、続いたこの町の長い歴史を物語っています。
130年、ハドリアヌス帝がアンタルヤを統治した記念に、美しい3つのアーチでおおわれた門が城壁の中に造られました。マリーナの近くにはこの門と城壁の他の部分を分ける2つの塔が今でも残されています。カレカプス広場にある時計塔も古い要塞の一部です。 アタチュルク公園とカラアリオゥル公園に立つと、色鮮やかでエキゾチックな花々が咲き乱れ、目の前には光り輝く海、後ろには山が連なり、その豊かな自然の美しさにアンタルヤがこれほど人気のあるリゾート地になったわけわかります。



アンタルヤレストラン

(アンタルヤのレストラン BARBUN))






ペ ル ゲ

ペルゲ
ペルガマペルゲ遺跡:
アンタリアから約15キロのところに位置する。トルコ語で現在ペルゲと呼ばれているが、古代名はぺルガ。ぺルガはパンフィリア地域の首都であった。紀元前12世紀に、北アナトリアからギリシャ人による大規模の移動が起こり、多くの移民は現在のアンタルヤの東にある平野へと定住した。この地は「部族の地」を意味するパンフィリアと呼ばれるようになり、次第にパンフィリアではぺルガ、シリヨン、アスペンドス、シデの4つの都市が発展するようになった。
ぺルガ自体は紀元前1000年ごろに、地中海を支配していた海賊から守るため海岸から20km内陸側に建設された。
紀元前546年にペルシア人によって支配されたが、約200年後の紀元前333年にはアレキサンダー大王によって支配された。その後セレウコス朝がパンフィリアを征服した時代には、ぺルガ出身の有名な数学者アポロニウス(紀元前262年―190年)が活躍した。アポロニウスはアルキメデスの弟子で、円錐曲線に関する8冊の本を書いた。
紀元前188年にぺルガはローマ帝国領となり、最盛期を迎えた。現在の遺跡のほとんどはこの時代に建てられたものである。ローマ帝国が滅亡した後も、ぺルガは定住地であり続けたが、セルジューク朝時代に廃墟となった。
聖パウロは聖バルナバとともにペルガを2度訪れたことが新約聖書にも記されている。







アスペンドス

アスペンドス


ラクダ

アスペンドス遺跡:
アンタルヤの東約47キロに位置し、世界で最も保存状態がよい古代劇場で有名である。その最大収容可能人数は15,000人で、現在も音楽祭やコンサート会場などに使われている。古代劇場の周辺にはアゴラや教会、世界でも最大の15kmに及ぶローマ水道橋がある。
アスペンドスの歴史は紀元前5世紀にさかのぼる。アスペンドスはローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスの時代(161-180年)に地元出身の有名な建築家ゼノンによって建造された。その後もセルジューク朝によって隊商宿として使われていたため、定期的に修復されていた。7000人の観客席のほかにも500のオーケストラ用座席がある。舞台側の上部はのちに修復され、音響効果が改良された。
asupendos










SIDE

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シデシデ(スィデ)遺跡:
シデはアンタルヤから約75km東に位置するパンフィリア古代都市。北西アナトリアのギリシャ人の定住によって紀元前7世紀に形成され、パンフィリアでも重要な貿易港都市となった。アレキサンダー大王が紀元前333年にシデを占領した際、たった一つの駐屯軍を配置した。この占領によりシデにもヘレニズム文化が浸透し、紀元前1世紀まで繁栄した。アレキサンダー大王の死後、彼の将軍のひとりであるプトレマイオスが創始したプトレマイオス朝エジプトの支配下に入った。紀元前2世紀にはセレウコス朝の領地となるが、ある程度の自治権は確保し続け、重要な文化中心地となった。紀元前190年にローマ帝国とペルガモン王国の支援を受けたロードス軍は、カルタゴの将軍ハンニバル率いるセレウコス朝のアンティオコス3世の軍隊を破った。この戦いによりセレウコス朝のシデ支配は終わるが、紀元前1世紀にはキリキア人の海賊により海軍基地がおかれ、シデは奴隷貿易の中心となった。
キリキア人海賊がローマ将軍ポンペイによって打倒されると、シデはついにローマ帝国の一部となり、ほかの周辺都市とともにパンフィリア州として統治されるようになった。シデはアナトリアの重要な商業中心地となり、3世紀まで繁栄し続けた。現在残っている遺跡のほとんどはこの時代の遺跡である。
シデは4世紀以降衰退の一途をたどった。ビザンツ時代初期にはかなりのユダヤ人が住んでいたが、その後市民は次第にアンタルヤへと移住し、シデは「Eski Adalia(旧アンタルヤ)」と呼ばれるようになった。
アナトリアでも有数の広大な遺跡は大きな岬にもある。岬は都市要塞で本土から分けられており、これらの要塞は中世に修復された。岬には遺跡群があり、ローマ古代劇場もそのひとつである。アナトリアに点在する古代劇場はギリシャ式がほとんどだが、シデにはギリシャ式古代劇場の建設に適した丘の斜面がなかったため、ローマ式になったと思われる。アスペンドスの古代劇場ほど保存状態はよくないが、それでも規模はほぼ同じである。
古代劇場以外に、シデ遺跡には3つの神殿や水道橋、ニンファエウムがある。ニンファエウムとはギリシャ神話に登場する半神半人の妖精、ニンフに捧げられた碑のことで、シデのニンファエウムのデザインは凝っている。
シデではまた、ザクロがよく育つことで知られているため、アナトリアのザクロもシデと呼ばれるようになった。







ブルーモスク1 

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