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ユトプスの日記 [全380件]

2012年5月27日楽天プロフィール Add to Google XML

ブッダの海外ドキュメンタリー
[ アジアの歴史 ]  

 

 ブッダにかんする興味深い海外のドキュメンタリーがあるのでぜひ見てみることを勧めたい。ただし、日本語の字幕がない…
 
 こちらのほうはBBC制作で僕的には一番よくできていると思う。仏教に関する映像ドキュメンタリーでは僕が過去に見たものの中では最高の作品だと思う。
さすがは世界のBBC。仏教に興味があり同時に英語も好きだという人にはもってこいの映像。イギリスのアクセントなので非常に聞き取りやすい。




最終更新日時 2012年5月31日 10時15分2秒
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初転法輪
[ アジアの歴史 ]  

shotennhourin

 

 

 『比丘たちよ、出家者はこれらの二の極端に従うべきではありません。
二とは何か。下劣、粗野、凡俗の、聖ならざる、利益を伴わない、諸欲の快楽にふけること、および、苦しい、聖ならざる、利益を伴わない、自虐にふけることです。

 比丘たちよ、如来はこれらの両極端には近づかず、中道をよく悟りました。
それは眼を作り、智を作り、寂止のためになり、勝智のためになり、正覚のためになり、涅槃のためになります

 ・・・その中道とは何か。それは聖なる八支(はっし)の道です。
すなわち正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です。・・・

 つぎに、比丘たちよ、これが苦という聖諦(しょうたい)です。
生まれも苦です。老いも苦です。病も苦です。死も苦です。
愛さない者たちと会うのも苦です。
愛する者たちと別れるのも苦です。求めるものを得ないのも苦です。
要するに五取蘊は苦です。

 比丘たちよ、これが苦の生起という聖諦です。
それは再生をもたらし、歓喜・愛着を伴い、あちこちに歓喜する渇愛です。
 すなわち欲愛、有愛(うあい)、無有愛(むうあい)です。

 比丘たちよ、これが苦の寂滅という聖諦です。
それはその渇愛の、消滅による残りなき滅尽、捨棄、破棄、解脱、無執着です。

 比丘たちよ、これが苦の滅尽にいたる行道という聖諦です。
それは聖なる八支の道です。
 すなわち正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定です」

                            相応部経典 大篇 転法輪経

 

 これはブッダが悟りを得てのち初めてバーラーナシーの鹿園林で先に述べた五人の比丘に説いた説教、のちに初転法輪といわれるもの。
 これを見て思うのは、ブッダは30代半ばで解脱した段階で既に彼の教えを完成していたということだ。

 悟りを開いてからも徐々に彼自身の教えを発展させていったのではないか、という考えが頭の隅のほうにあったのだが、それは違うようだ。
 それはそうだろう、彼の教えは悟性、哲学的思索によって作り上げられたものではないのだから。
 
 縁起説の内容にしてもそうだが、このような教えというのは、理性的な洞察によるだけでは無理で、ある種の超自然的洞察力を必要とするはずである。
 もっとありていに言えば、ブッダは超自然的能力を持っていたはずである。そうでなければあのような教えに到達できるはずがない。

 悟りを得た直後、ブッダはこの教えは人々には理解できないだろう、このまま自分の胸の内にしまっておこう、と考えたという話はおそらく事実であり、理性、悟性的な思考の範疇に限定されている僕ら凡人に、どうやって説いて聞かせるかかなり苦心したに違いない。

 それにしても何度も瞠目させられるのは、この教え(八正道)にある倫理的、道義的エッセンスである。
 ブッダは単なる道徳を説くために道を求めたのではない。彼が王族の豪奢な生活を捨ててまで求める動機になったのは、人間・人生の根源的な苦をどうやって乗り越えるかだった。

 そうして何年にもわたる苦しい修行の果てに掴んだものが、人生の根源苦をなくすためには倫理的、道義的に自らを高めていくしかないということだった。
 このことの興味深さは何度言っても言い過ぎることはない。

 つまり、この世界とその根源苦は何のためにあるのかということ、いいかえると、この世界を創造した存在がなにを我々人間に求めてこの世界をつくったのかということが、この初転法輪の教えの中から透けて見えてくる。
 創造主というものの本質、本性がうっすらと見えてくるということである。

 


 

 上の写真には真ん中に三つの輪が見える。
これはブッダの説いた法を表している。ごくごく初期の仏教彫刻にはブッダの姿はほとんどあらわれない。このことから原始仏教では、ブッダを像として作りそれを崇拝することを禁じていたということが推察できる。

 そのため、この彫刻のように人々は法の輪を崇拝する。
 これは初期仏教はイスラム教のように個人崇拝を戒めていたことを示している。ブッダは自分の死後、自分が神格化されて人々が彼の説いた法ではなく、ブッダという権威(今風の言葉でいえばブランド)だけが信仰の的になることを恐れたのだろう。それは空虚であり何の意味もないことだからだ。

 その後の仏教の歴史は残念ながらブッダの危惧した通り、ブッダの神格化がすすみ、また、それだけにとどまらず、〇〇観音とか、〇〇菩薩とか、空想上の仏を作り出し、ひどい場合はヒンズー教の神々や教えまでが仏教の中で信仰されるようになっていった…

 これについては同様のことを上の記事のBBCドキュメンタリーの中で、おそらく風貌から言って学者であろう人物が次のように言及している。(だいたい47分50秒のあたり)

 「形骸化した儀式、個人崇拝、個人の神格化を最も禁じていたブッダが、彼の死後、世界で最も形骸化した儀式を重んじ、世界でもっとも個人、偶像崇拝される宗教の教祖になってしまったことは、皮肉です」

 このことは、その後の仏教教団の上層部が人々をひきつけ、自らを権威の力で虚飾することで、人々の統制をはかるためには必要だったのかもしれない。また、それだけ人々の救いを求める心が切実だったことの反証でもある。
 しかし、このプロセスは仏教を俗化させ、歪曲し、文字通り命のない「形」だけの、まさに仏像そのものような宗教に変質させてしまったといっていい。

 

 

 

 
 
 




最終更新日時 2012年5月28日 8時7分30秒
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2012年5月19日

縁起ということ
[ アジアの歴史 ]  

butuga

 

 

 『比丘たちよ、たとえば、山頂で大水滴の雨が降ると、その水は低きに従って流れ、山・渓谷・谷川を満たします。
 山・渓谷・谷川は満ちて、小池を満たします。小池は満ちて大池を満たします。
 大池は満ちて小川を満たします。小川は満ちて大川を満たします。大川は満ちて大海・海洋を満たします。

 比丘たちよ、ちょうどそのように、

 無明を縁としてもろもろの行があります。
 もろもろの行を縁として識があります。
 識を縁として名色があります。
 名色を縁として六処があります。
 六処を縁として触があります。
 
 触を縁として受があります。
 受を縁として愛があります。
 愛を縁として取があります。
 取を縁として有(業有)があります。

 有を縁として生(変化を伴う蘊の生まれ)があります。
 生を縁として苦(輪転の苦)があります。

 苦を縁として信があります。
 信を縁として満足があります。
 満足を縁として喜があります。
 喜を縁として軽快(楽の縁)があります。

 軽快を縁として楽(基礎禅の縁)があります。
 楽を縁として定(基礎禅)があります。
 定を縁として如実智見(弱い観)があります。
 如実智見を縁として厭離(強い観)があります。

 厭離を縁として離貪(貪欲から離れること)があります。
 離貪を縁として解脱があります。
 解脱を縁として滅尽智(省察智)があります。

                            相応部経典 因縁篇 縁経
 下線部分は僕が挿入した。

 

 これは伝統的な漢訳経典的解釈を基礎に置いたものであるため、非常にわかりにくさがあるのは否めない。わかるものだけわかればいい、というようなつきはなした、衒学的な姿勢さえ感じるのはひがみすぎだろうか。

 この衒学性が仏教を民衆の宗教から乖離させ、単なる形式、様式だけを重視する現在の形骸化した「葬式仏教」につながっているといっても決して言い過ぎではないだろう。
 
 これがパーリ語から直接、原語に忠実に現代語に訳したものであればどれだけわかりやすくなるだろう。このあたり、中村元氏の現代語訳、あるいは、パーリ語原典から英国人の学者が訳した英訳版があるので、それらをぜひ見てみたいとおもう。

 ここでは、いわゆる12縁起をブッダらしくわかりやすく述べている。
まず目に付くのは、説明の仕方が非常にシステマティックであるということ。
 ブッダという人の思考の論理性・合理性が感じ取れる。この人の際立った特徴として、この冷めた合理性と人柄の優しさが共存しているという点があげられる。

 そして彼のこの透徹した合理性が、前回の記事「無我ということ」にも指摘したように、現世というものをなるべく早く卒業して涅槃(ニルヴァーナ)へ至ることを望ましいと説く思想へと導いたのだろう。
 ここが仏教のとてもユニークな部分であり、仏教は本当は万人受けする宗教ではないと僕が思うゆえんだ。それがこれだけ世界的な宗教になったということは、非常にアイロニカルだと僕は前からずっと思ってきた。

 ブッダは心優しい人でありながら、同時に徹底的なリアリストである。
 彼が説くこの思想は、まるで自然科学者が自然を観察するかのような徹底した合理性に裏付けられた分析から生まれたものだからだ。

 ブッダから見るとこの世は病んだ世界・状態であり、まず自分が病んでいるということを自覚した人でなければ、そもそも病気を治すことができない。

 すべての存在のはじまりは「無明」、無知から始まると説き、そこから最終的な解脱に至る大まかなプロセスを段階的に説明している。
 まるで数学の方程式の説き方を教わっているようだ。これが2500年も前に存在していた人の、思考なのだ!

 ブッダが現代の学校で教師をやっていたら、落ちこぼれる人はいなくなるのではないかとさえ思うほどの、わかりやすく巧みな教え方である。
 

 

 




最終更新日時 2012年5月21日 8時40分59秒
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無我ということ
[ アジアの歴史 ]  

butsuzou

 

 『比丘たちよ、色は無常です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)病にかかりません。
 また色に対して
 《私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな≫
ということができます。

 しかし比丘たちよ、色は無我です。
それゆえ色は(変化し)病にかかります。
 また色に対して
 《私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな≫
ということができません。

 受は無我です。・・・想は無我です。・・・もろもろの行は無我です。・・・
 識は無我です。・・・《私の識はこのようになるな≫ということができません。

 「比丘たちよ、そのことをどう思いますか。
つまり、色は常でしょうか、それとも無常でしょうか」

 「無常です、尊師よ」

 「それでは、無常なるものは苦でしょうか、それとも楽でしょうか」

 「苦です、尊師よ」

 「それでは、無常であり、苦であり、変化する性質のものを、《これは私のものである》《これは私である》《これは私の我である》と見ることはふさわしいでしょうか」

 「ふさわしくありません、尊師よ」

 「比丘たちよ、聞(もん)のある聖なる弟子は、このように見つつ、色を厭い、受をも厭い、想をも厭い、もろもろの行をも厭い、識をも厭います。
 厭いつつ、離貪します。

 離貪によって解脱します。解脱したとき、《解脱した》という智が生じます。
《生まれは尽きた。梵行は完成された。なすべきことはなされた。この状態のほかにはない》と知ります。

                                相応部経典 蘊編 無我相経

 

 これはブッダが初転法輪(悟りを開いた後初めて法を説いた時のこと)の5日後に、バーラーナシーのサールナート(鹿園林)で、五比丘に説いたものだ。
 色は身体、受は感受、想は想念や判断、行は意思、識は意識をあらわす。つまりこのすべてで我々が自分だと思っているもののすべてを表しているといっていい。

 ただ、ここでは単なる自分だけでなく、この世のあらゆる物質、想念、意志、意識すべて「無我」、すなわち、そこに実体はないといっている。
 仏教の根本基盤をなす思想、「無常」「空」の思想。

 五比丘というのはブッダがまだ悟りを開く前、苦行に励んでいた時ともに修行していた修行仲間だ。ブッダの最初期の弟子になる。
 彼らはブッダの直接の指導の下、解脱し、初期仏教教団を形作った。仏教を大河に例えれば、まさに、その源流の水源地・原点を形成した人々ということになる。

 仏教では現世的なあらゆるものに対する執着を捨てよと説く。そうすることによって縁が消え、涅槃に至る。
 ということは、僕らがこの世に転生するのは、何者かによってそうさせられているだけではなく(つまりまだ消し去るべきカルマがあるために転生させられるだけでなく)、自ら強く望んでそうなっている部分もあるということになる。

 これは僕にとっては非常に興味深い。案外、輪廻というものに対して自己の意思、願望が影響を与えているということになるからだ。

 ブッダは、我々が執着するこの世を構成するあらゆるものである五蘊は、実は「無」であると言う。実体のないもの、つまり幻想になぜそんなにこだわって何度も何度も輪廻し、さらなる罪を作り(再生の因)輪廻を繰り返すのか?と問いかける。

 なぜ、魂・人格を磨いてもっと美しい、清らかな、愛と善意に満ちた、病も老いも死も、愛する者との別離もない、暴力も争いもない、幻ではない実在の世界、永遠の世界にとどまらないのか、とわかりやすく説いているようにおもう。

 結局のところ、ブッダは80数年の長きにわたる人生のすべてをかけて、これを説き続けた人だといってもいい。

 

 




最終更新日時 2012年5月21日 8時43分27秒
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2012年5月18日

インフレという妖怪が・・・  (2)
[ よもやま話 ]  

 今、藤巻健史という人の書いた「世界経済大動乱を生き延びよ」という本を読んでいる。

  その人の本から少し引用してみる。

 『国は11年度の当初予算段階で、48兆円の歳入に対して92兆円も使っています。借金(債務残高)は944兆円(11年6月末)にもなっています。
 10兆円ずつ返したとしても(そんなの不可能!)94年もかかる借金額を貯めこんでしまったのです。

 年に480万円の収入で借金総額が9440万円もある家庭を考えてみてください。100万円ずつ返しても94年かかるのですが、そのためには支出を380万円に抑えなければなりません。

 なのに920万円も使っているのです。200年、300年たっても返せません。しかも、今は金利がほぼゼロだからいいのですが、これだけ借金が溜まってしまえば、景気がよくなり金利が上昇したら、支払利息は急増してしまいます。

 9440万円なら利息1%でも94万円です。収入が480万円しかないのに、ですよ。

 この藤巻という人は大学卒業後邦銀に勤めていたのだが、モルガンスタンレーという世界でも1,2位をあらそう超優良銀行に引き抜かれ、のちには外銀初の日本人支店長に抜擢された人。
 いわばかなりの切れ者である。

 しかも、のちにあのジョージ・ソロスのアドバイザーにもなったというから、ただ者ではない。
 僕がこの本を買うことにしたのはほかでもない、この大借金を背負っている日本の将来に不安を感じているからだ。

 一人日本だけではない、自分の将来にも不安を感じているからである。
今我々はギリシャとかスペインとか対岸の火事に注目しているが、日本の置かれている状況はこの2か国どころではない。その数倍深刻なのだという。

 生活していくのに全くカツカツで、ほとんど貯金などない、という人はあまり心配することはない、というか、心配しても仕方がない…
 でも、たとえわずかでも貯金があり、不動産も持っているという人は、大いに日本の将来に関心を持ったほうがいい。

 藤巻氏によれば、これから来る日本の将来は第2次大戦後の農地改革にも匹敵するほどの大変革時代になるということだ。
 ガラガラポン、すごろくでいえば全くのスタートラインに大部分の人が戻らなければならないということである。

 今の日本の債務は、とても増税などでは返しきれない。消費税を何%に上げても無理である。もうそういうレベルの話ではない。
 ではどうやって返すか?
 インフレしかないということだ。

 なぜインフレかというと、たとえば100万円の借金があるとする。それがインフレでタクシーの初乗り料金が仮に30万円になるとすると、こんな借金は1か月で返せるだろう。

 要は税収でコツコツ返すのではなく、お金の価値そのものを変質させて借金をチャラにするということだ。
 今の国債は銀行やゆうちょ銀行が買っている、つまり我々の貯金で買われているということ。

 よく、政治家が日本には1200兆円の個人資産があるからまだ借金をしても大丈夫だ、とうそぶいていたのを覚えている人もいるだろう。
 僕はこれを聞いていつも腑に落ちなかった。

 なぜって、これはつまり、国の借金を国民の資産を担保にして借りているということだから、いざとなれば国民にかえしてもらう、と言っているに等しい。
 国債は無限に発行できるわけではない。すでに944兆円の借金があるのだから、1200兆円まであとわずかである。

 そうなると国債を売りに出してもだれも買い手がつかなくなる「未達」という事態になるらしい。
 これはすなわち日本の財政破たん、会社でいえば倒産、個人でいえば自己破産、ということになる。

 未達になると、まず、国債の利回りが急騰する。これが今ギリシャやスペイン、イタリアなどで起こっている。利回りが上がるということは借金(国債)の利子が上がるということだから、大変なことである。

 そうなると、藤巻氏は日銀が国債を買うことになるだろうという。
これはどういうことかというと、日銀がお札を刷って国債を買うということ。これは禁じ手であって財政法で禁じられている。ハイパーインフレを引き起こすからだ。

 でもおそらく国は法を改正(改悪)してでもやると思う。
そうしなければその日から日本という国は立ちいかなくなるからだ。
今の国債はほとんど社会保障費に回っているというから、国債が売れなくなれば、社会保障費が払えなくなる。

 そして、これをやれば次に来るのがハイパーインフレだという。
そうなるとさっきのタクシー代と借金のたとえのように、いまもっているお金の価値が瞬く間に少なくなっていく。

 これはロシアでも起こったことで、僕はロシア人の友人から直接聞いたことがある。
 その人の親は非常に裕福な人で貯金がなんと日本円にして1億円ぐらいあったそうな。それがハイパーインフレが起こったために、なんと、1億円がコーラ数本ぐらいの価値になってしまったという!
 信じられない話だが、僕の記憶が正しければその友人は確かにそういっていた。

 おそらくそうやってロシアは国の借金を返したのだろう。
藤巻氏によれば、日本政府(政治家や財務省)はそれを考えているだろうということだ。というのももうそれしか解決策はないからだという。

 ハイパーインフレの影響を一番受けるのが、貯金などの金融資産である。日本人は投資をばくちと同一視し、嫌う傾向があるので、大部分の人が貯金として銀行やゆうちょ銀行に預けているのではないか。

 こういう人々の資産が一番打撃を受けるという。
不動産はまだいい、インフレが起これば一緒に土地の価格も上がるから。金などもいいだろう。今、金の価格が上がっているのも世界中がインフレを恐れているからだといわれている。

 ただし、上がるのは何も土地や金だけではない、すべての値段が上がっていくのだから、相対的には何も変わらないのではないか。だからあまりリスク回避にはならないと思う。残念ながら藤巻氏はこの辺については触れてない。

 彼が提唱するのは、円資産を減らして外貨に換えるということだ。
というのも、国債がもう売れないということになったら、円は信用を無くし円の価値も下落する。そのために資産の何割かは外貨でもてという。

 ただこれも普通の日本人にはハードルが高いだろうと思う。
何せ日本人は投資を恐れ忌み嫌う。それでいながら宝くじというハイリスクローリターンなものを何万円も出して買っているのだが。

 なにがおこるのか、正直、経済通でもない僕には正確に当てることなど不可能である。
 ただ、当たり前にもらえると思っている年金でさえ、財政破たんすれば大幅に削られるし、そのうえインフレが来るとなればダブルパンチで、老後の生活は今までのようにのんきにできなくなることは明白である。

 年金だけではない、医療も危ない。少子化や貧困者の急増(女性約35%、男性約25%ぐらいだったと思う)で健康保険の加入者がかなり減ってきているからだ。そこへもってきて国債未達による社会保障費カットとインフレである…

 この本で一番印象に残ったのは、91年のバブルがはじける直前までだれもそんな事態になるなんて信じている人はいなかったという著者の回顧談だ。

 今があの時に似ているという・・・
 何をするのか、それとも何も考えずに生きていくのが結局一番賢明なのか。
まさにその人の才覚が試される時代に来ているのかもしれない。
 
 結局その人の器に従ったことしかできない、ということはたぶんはっきりしている。だから、自分の器がこのおそらく敗戦時以来の経済的大打撃を乗り越えられるものであることを祈るしかない。

 僕は一番強いのは農家だと思う。自給自足できるからだ。戦争中でもそうだった。
 一つだけ確実なことがあるとすれば、財政破たんしても、働けるからだがあればたぶん生きていけるだろうということ。選びさえしなければ仕事はあるはずだ。
 ある一定数の人間が住んでいるところには、景気不景気に関係なく必ず仕事はあるからである。

 だから、万人に共通する対策はとにかく健康で働けるからだを保つこと
 喫煙、度の過ぎた飲酒、不健康な食習慣などもってのほかであろう。

 それにしても、こうなるまで放置してきた過去数十年のばらまき政治家と彼らを支持してきた国民、まさに因果応報とはこのことだろうか。




最終更新日時 2012年5月19日 18時14分35秒
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2012年5月14日

止まることなく求めることなく
[ アジアの歴史 ]  

butsuzou

 

 『このように私は聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院(祇園精舎)に住んでおられた。

 ときに、ある神が麗しい容色をそなえ、夜更けにジェータ林を隈なく照らし、世尊がおられるところへ近づいて行った。
 行って、世尊を礼拝し、一方に立った。一方に立ったその神は、世尊にこのようにいった。

 《尊師よ、あなたはどのようにして暴流を渡ったのですか≫と。

 《友よ、私は、止まることなく、求めることなく、暴流を渡りました≫

 《尊師よ、それでは、あなたはどのようにして、止まることなく、求めることなく、暴流を渡ったのですか≫と。

 《友よ、私は止まるとき、沈みます。
 友よ、私は求めるとき、流されます。
 友よ、このように私は止まることなく、求めることなく暴流を渡りました≫と。

 《実に久しく私は見た 寂滅しているバラモンを
  住することなく求めることなく、世の執着を超えたお方を≫

 とこのようにその神はいった。
師は是認された。
 そこで、その神は《わが師は是認された》と世尊を礼拝し、右回りをしてその場で消え失せた、と』

                           相応部経典   暴流超越経

 

 この聖句のエッセンスは「友よ、私は、止まることなく、求めることなく、暴流を渡りました」という一句だろう。
 暴流を渡る、というのはブッダがよくつかったたとえで、生老病死に宿命づけられ、様々な煩悩に満ちたこの世(暴流)を渡って向こう岸につく、つまり、解脱して涅槃(ニルヴァーナ)へ至ることを言う。

 「止まることなく」というのはわかる。
つぎの「求めることなく」というのは、素直に読めば、煩悩から生じる様々な人間の欲望、願望、執着を求めることなく、ということになると思う。

 僕が今読んでいる「パーリ仏教辞典」片山一良著、大法輪閣ではこのような解説になっている。

 『欲楽の実践によって止まれば沈み、自虐の実践によって求めれば流されるということである。
 あるいは、常見によって止まれば沈み、断見によって求めれば流される。煩悩によって止まれば沈み、行作によって求めれば流される、などということである。中による行道である。』

 専門的な仏教用語などを使っているためわかりにくい。
だが、一応僕なりに推測してみると、この解釈は僕の上述した素直な解釈よりも一歩踏み込んでいる。

 「自虐の実践」とはおそらくブッダが王宮を出て実践した苦行のことを指すのではないかと思う。
 これはよく知られているように、まさにブッダ自身が6年間実践してみて、この方法では解脱に至ることはないと証明して見せた方法である。

 著者はたぶん、型にはまり、形骸化、あるいは単に様式化しただけの「行」の実践を「求める」と解釈しているのだろう。
 たしかに欲望をむさぼり、地位や金、空虚な名誉などに執着しながら、いくら座禅を組んだところで解脱は望めない。

 ここでさらにもう一歩踏み込んでみるなら、解脱、つまり涅槃の境地というのは、「それ自体を」求めて到達できるものではない、ということにもなるかもしれない。
 
 ブッダの偉大なところは、輪廻の終焉であり苦の寂滅した清らかな世界、涅槃(ニルヴァーナ)に至るには、四諦、八正道などに示されているように、道義的な「善」の道をめざさなければならない、ということを世界に教えたことにある。

 それまでのインドに大勢いたバラモンのマスターたちのように、たんに涅槃に至るためのテクニックだけを教えているのではない。そうではなく、涅槃の境地に至るにはなによりも「善」な心と行為(実践)がその大本、大前提として必要であることを、宗教家としてはたぶん世界で初めて説いたのがブッダではないか。

 これがなぜ重要かというと、この世を含めた宇宙(この世を超えた世界も含む)を透徹して流れている最優先の摂理・霊的原理が、自然科学でもなく、偶然でもなく、弱肉強食、力が正義というものでもなく、「善・徳」であるということを知ることは、この一見無秩序で冷厳なルールが支配しているかに見える世界に住む我々にとって、非常に大きな希望をもたらしてくれるからだ。

 これがどれほど革命的なことか、言って言い過ぎることはない。
 この聖句の中で「もしかしたら」ブッダが暗示していることは、単に涅槃そのものを目指して修行するのではなく、まず自らの人格を「善」を志向するものに変えること、「徳」を血肉のように身に着けることを目指せ、それができたうえで初めて涅槃に至ることができる、ということではないか。

 つまり、ただ単に目的地(涅槃)に到達するためだけに修行するのではなく、自己の人格を磨き続けることで、自然に涅槃に到達している、というものだということを言っているのかもしれない。涅槃はそのご褒美、果報だということだろう。

 
 『友よ、私は求めるとき、流されます。』

 読めば読むほど重層的で深い一句だと思う。

 

 
 




最終更新日時 2012年5月15日 23時25分2秒
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縮まる二人の距離?
[ 犬と猫 ]  

 12日、ついに念願の猫が来た。
三毛である。三毛猫は遺伝的な関係上、99%近く雌になるそうだ。
なのでうちの子も雌だと思い、たまたまこの子を引き取りに行くために乗った電車の名前から「こまち」にした(笑)

 まだ2か月と1週間なので小さいし、かわいい。かわいいことこの上ない。
鳴き声もまさに赤ん坊の声である。
 最初、もっと早い時期からほしかったのだが、この子でさえ育つかなという不安がちょっとよぎったので、全く猫の、しかも幼猫の飼育が未経験な僕には育てるのは無理だったのではないかと思う。

 問題はうちにいる犬とどうやってうまくやっていくかだ。
家に入れると案の定、うちの犬(ゆみ)がアグレッシブにほえたり、顔を近づける。

 するとこまちも怖いのだろう、シャー、シャー、する。
まだこんな小さいのに一人前である。ただ、猫パンチは出ない。まだ小さいからだろう。

 来て3日目だが、だんだん二人の距離が縮まってきた。
きょうはついに添い寝までするようになった。
 でも、安心はできない。

 僕がそばから離れるとゆみが吼え始める。
柵で仕切るといつまでも吠えつづけるので、どうしてもこまちを僕の膝の上に乗せなければならない・・・

 こまちにすまないな、と少し思っている。ストレスをかけすぎているかもしれないからだ。
 でも何とか仲良しにさせてみせる。

 とにかく猫というのは神出鬼没だ。
犬では絶対にいけないところ、入れないようなところにも入る。猫が本気で隠れようと思えば、たとえ家の中でも飼い主でさえ見つけられないだろう。

 素晴らしいと思ったのは、トイレの仕方を教えなくても自分でできるということ。
ケースに入れた砂を置いておけば、そのうえでして自分で砂をかける。
 ゆみのときはトイレで大変な苦労をしたので、猫は楽だなぁと思う。

 あと、仔猫がご飯を食べるときによくやる「うまい、うまい」(じっさいには『うわぁ、うわぁ』にちかい)といいながら食べる姿を、ぜひ見てみたいと思っていたのだが、今日その姿を目撃した。おもわず、笑顔。
 もう2か月にもなるとこれはやらないかもしれない、と諦めていたのでこれはうれしかった。

 さぁ、この子をゆみと共生させることができるか、たのしみながら頑張ってみたい。



soine1

初めて添い寝した瞬間。

 

soine2

ゆみの穏やかな表情。うれしいのかな?

asobi

ついにゆみのしっぽで遊び始めた。

 




最終更新日時 2012年5月14日 23時46分13秒
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生まれた年: 非公開
誕生日: 03月15日
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