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ユトプスの日記 [全380件]
ブッダにかんする興味深い海外のドキュメンタリーがあるのでぜひ見てみることを勧めたい。ただし、日本語の字幕がない…
『比丘たちよ、出家者はこれらの二の極端に従うべきではありません。 比丘たちよ、如来はこれらの両極端には近づかず、中道をよく悟りました。 ・・・その中道とは何か。それは聖なる八支(はっし)の道です。 つぎに、比丘たちよ、これが苦という聖諦(しょうたい)です。 比丘たちよ、これが苦の生起という聖諦です。 比丘たちよ、これが苦の寂滅という聖諦です。 比丘たちよ、これが苦の滅尽にいたる行道という聖諦です。 相応部経典 大篇 転法輪経
これはブッダが悟りを得てのち初めてバーラーナシーの鹿園林で先に述べた五人の比丘に説いた説教、のちに初転法輪といわれるもの。 悟りを開いてからも徐々に彼自身の教えを発展させていったのではないか、という考えが頭の隅のほうにあったのだが、それは違うようだ。 悟りを得た直後、ブッダはこの教えは人々には理解できないだろう、このまま自分の胸の内にしまっておこう、と考えたという話はおそらく事実であり、理性、悟性的な思考の範疇に限定されている僕ら凡人に、どうやって説いて聞かせるかかなり苦心したに違いない。 それにしても何度も瞠目させられるのは、この教え(八正道)にある倫理的、道義的エッセンスである。 そうして何年にもわたる苦しい修行の果てに掴んだものが、人生の根源苦をなくすためには倫理的、道義的に自らを高めていくしかないということだった。 つまり、この世界とその根源苦は何のためにあるのかということ、いいかえると、この世界を創造した存在がなにを我々人間に求めてこの世界をつくったのかということが、この初転法輪の教えの中から透けて見えてくる。
上の写真には真ん中に三つの輪が見える。 そのため、この彫刻のように人々は法の輪を崇拝する。 その後の仏教の歴史は残念ながらブッダの危惧した通り、ブッダの神格化がすすみ、また、それだけにとどまらず、〇〇観音とか、〇〇菩薩とか、空想上の仏を作り出し、ひどい場合はヒンズー教の神々や教えまでが仏教の中で信仰されるようになっていった… これについては同様のことを上の記事のBBCドキュメンタリーの中で、おそらく風貌から言って学者であろう人物が次のように言及している。(だいたい47分50秒のあたり)
『比丘たちよ、たとえば、山頂で大水滴の雨が降ると、その水は低きに従って流れ、山・渓谷・谷川を満たします。 比丘たちよ、ちょうどそのように、 無明を縁としてもろもろの行があります。 苦を縁として信があります。 軽快を縁として楽(基礎禅の縁)があります。 厭離を縁として離貪(貪欲から離れること)があります。 相応部経典 因縁篇 縁経
これは伝統的な漢訳経典的解釈を基礎に置いたものであるため、非常にわかりにくさがあるのは否めない。わかるものだけわかればいい、というようなつきはなした、衒学的な姿勢さえ感じるのはひがみすぎだろうか。 この衒学性が仏教を民衆の宗教から乖離させ、単なる形式、様式だけを重視する現在の形骸化した「葬式仏教」につながっているといっても決して言い過ぎではないだろう。 ここでは、いわゆる12縁起をブッダらしくわかりやすく述べている。 ブッダは心優しい人でありながら、同時に徹底的なリアリストである。 ブッダから見るとこの世は病んだ世界・状態であり、まず自分が病んでいるということを自覚した人でなければ、そもそも病気を治すことができない。 すべての存在のはじまりは「無明」、無知から始まると説き、そこから最終的な解脱に至る大まかなプロセスを段階的に説明している。 ブッダが現代の学校で教師をやっていたら、落ちこぼれる人はいなくなるのではないかとさえ思うほどの、わかりやすく巧みな教え方である。
『比丘たちよ、色は無常です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)病にかかりません。 しかし比丘たちよ、色は無我です。 受は無我です。・・・想は無我です。・・・もろもろの行は無我です。・・・ 「比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 「無常です、尊師よ」 「それでは、無常なるものは苦でしょうか、それとも楽でしょうか」 「苦です、尊師よ」 「それでは、無常であり、苦であり、変化する性質のものを、《これは私のものである》《これは私である》《これは私の我である》と見ることはふさわしいでしょうか」 「ふさわしくありません、尊師よ」 「比丘たちよ、聞(もん)のある聖なる弟子は、このように見つつ、色を厭い、受をも厭い、想をも厭い、もろもろの行をも厭い、識をも厭います。 離貪によって解脱します。解脱したとき、《解脱した》という智が生じます。 相応部経典 蘊編 無我相経
これはブッダが初転法輪(悟りを開いた後初めて法を説いた時のこと)の5日後に、バーラーナシーのサールナート(鹿園林)で、五比丘に説いたものだ。 ただ、ここでは単なる自分だけでなく、この世のあらゆる物質、想念、意志、意識すべて「無我」、すなわち、そこに実体はないといっている。 五比丘というのはブッダがまだ悟りを開く前、苦行に励んでいた時ともに修行していた修行仲間だ。ブッダの最初期の弟子になる。 仏教では現世的なあらゆるものに対する執着を捨てよと説く。そうすることによって縁が消え、涅槃に至る。 これは僕にとっては非常に興味深い。案外、輪廻というものに対して自己の意思、願望が影響を与えているということになるからだ。 ブッダは、我々が執着するこの世を構成するあらゆるものである五蘊は、実は「無」であると言う。実体のないもの、つまり幻想になぜそんなにこだわって何度も何度も輪廻し、さらなる罪を作り(再生の因)輪廻を繰り返すのか?と問いかける。
今、藤巻健史という人の書いた「世界経済大動乱を生き延びよ」という本を読んでいる。 その人の本から少し引用してみる。 『国は11年度の当初予算段階で、48兆円の歳入に対して92兆円も使っています。借金(債務残高)は944兆円(11年6月末)にもなっています。 年に480万円の収入で借金総額が9440万円もある家庭を考えてみてください。100万円ずつ返しても94年かかるのですが、そのためには支出を380万円に抑えなければなりません。 なのに920万円も使っているのです。200年、300年たっても返せません。しかも、今は金利がほぼゼロだからいいのですが、これだけ借金が溜まってしまえば、景気がよくなり金利が上昇したら、支払利息は急増してしまいます。 9440万円なら利息1%でも94万円です。収入が480万円しかないのに、ですよ。 この藤巻という人は大学卒業後邦銀に勤めていたのだが、モルガンスタンレーという世界でも1,2位をあらそう超優良銀行に引き抜かれ、のちには外銀初の日本人支店長に抜擢された人。 しかも、のちにあのジョージ・ソロスのアドバイザーにもなったというから、ただ者ではない。 一人日本だけではない、自分の将来にも不安を感じているからである。 生活していくのに全くカツカツで、ほとんど貯金などない、という人はあまり心配することはない、というか、心配しても仕方がない… 藤巻氏によれば、これから来る日本の将来は第2次大戦後の農地改革にも匹敵するほどの大変革時代になるということだ。 今の日本の債務は、とても増税などでは返しきれない。消費税を何%に上げても無理である。もうそういうレベルの話ではない。 なぜインフレかというと、たとえば100万円の借金があるとする。それがインフレでタクシーの初乗り料金が仮に30万円になるとすると、こんな借金は1か月で返せるだろう。 要は税収でコツコツ返すのではなく、お金の価値そのものを変質させて借金をチャラにするということだ。 よく、政治家が日本には1200兆円の個人資産があるからまだ借金をしても大丈夫だ、とうそぶいていたのを覚えている人もいるだろう。 なぜって、これはつまり、国の借金を国民の資産を担保にして借りているということだから、いざとなれば国民にかえしてもらう、と言っているに等しい。 そうなると国債を売りに出してもだれも買い手がつかなくなる「未達」という事態になるらしい。 未達になると、まず、国債の利回りが急騰する。これが今ギリシャやスペイン、イタリアなどで起こっている。利回りが上がるということは借金(国債)の利子が上がるということだから、大変なことである。 そうなると、藤巻氏は日銀が国債を買うことになるだろうという。 でもおそらく国は法を改正(改悪)してでもやると思う。 そして、これをやれば次に来るのがハイパーインフレだという。 これはロシアでも起こったことで、僕はロシア人の友人から直接聞いたことがある。 おそらくそうやってロシアは国の借金を返したのだろう。 ハイパーインフレの影響を一番受けるのが、貯金などの金融資産である。日本人は投資をばくちと同一視し、嫌う傾向があるので、大部分の人が貯金として銀行やゆうちょ銀行に預けているのではないか。 こういう人々の資産が一番打撃を受けるという。 ただし、上がるのは何も土地や金だけではない、すべての値段が上がっていくのだから、相対的には何も変わらないのではないか。だからあまりリスク回避にはならないと思う。残念ながら藤巻氏はこの辺については触れてない。 彼が提唱するのは、円資産を減らして外貨に換えるということだ。 ただこれも普通の日本人にはハードルが高いだろうと思う。 なにがおこるのか、正直、経済通でもない僕には正確に当てることなど不可能である。 年金だけではない、医療も危ない。少子化や貧困者の急増(女性約35%、男性約25%ぐらいだったと思う)で健康保険の加入者がかなり減ってきているからだ。そこへもってきて国債未達による社会保障費カットとインフレである… この本で一番印象に残ったのは、91年のバブルがはじける直前までだれもそんな事態になるなんて信じている人はいなかったという著者の回顧談だ。 今があの時に似ているという・・・ 僕は一番強いのは農家だと思う。自給自足できるからだ。戦争中でもそうだった。 だから、万人に共通する対策はとにかく健康で働けるからだを保つこと。 それにしても、こうなるまで放置してきた過去数十年のばらまき政治家と彼らを支持してきた国民、まさに因果応報とはこのことだろうか。
『このように私は聞いた。 ときに、ある神が麗しい容色をそなえ、夜更けにジェータ林を隈なく照らし、世尊がおられるところへ近づいて行った。 《尊師よ、あなたはどのようにして暴流を渡ったのですか≫と。 《友よ、私は、止まることなく、求めることなく、暴流を渡りました≫ 《尊師よ、それでは、あなたはどのようにして、止まることなく、求めることなく、暴流を渡ったのですか≫と。 《友よ、私は止まるとき、沈みます。 《実に久しく私は見た 寂滅しているバラモンを とこのようにその神はいった。 相応部経典 暴流超越経
この聖句のエッセンスは「友よ、私は、止まることなく、求めることなく、暴流を渡りました」という一句だろう。 「止まることなく」というのはわかる。 僕が今読んでいる「パーリ仏教辞典」片山一良著、大法輪閣ではこのような解説になっている。 『欲楽の実践によって止まれば沈み、自虐の実践によって求めれば流されるということである。 専門的な仏教用語などを使っているためわかりにくい。 「自虐の実践」とはおそらくブッダが王宮を出て実践した苦行のことを指すのではないかと思う。 著者はたぶん、型にはまり、形骸化、あるいは単に様式化しただけの「行」の実践を「求める」と解釈しているのだろう。 ここでさらにもう一歩踏み込んでみるなら、解脱、つまり涅槃の境地というのは、「それ自体を」求めて到達できるものではない、ということにもなるかもしれない。 それまでのインドに大勢いたバラモンのマスターたちのように、たんに涅槃に至るためのテクニックだけを教えているのではない。そうではなく、涅槃の境地に至るにはなによりも「善」な心と行為(実践)がその大本、大前提として必要であることを、宗教家としてはたぶん世界で初めて説いたのがブッダではないか。 これがなぜ重要かというと、この世を含めた宇宙(この世を超えた世界も含む)を透徹して流れている最優先の摂理・霊的原理が、自然科学でもなく、偶然でもなく、弱肉強食、力が正義というものでもなく、「善・徳」であるということを知ることは、この一見無秩序で冷厳なルールが支配しているかに見える世界に住む我々にとって、非常に大きな希望をもたらしてくれるからだ。 これがどれほど革命的なことか、言って言い過ぎることはない。 つまり、ただ単に目的地(涅槃)に到達するためだけに修行するのではなく、自己の人格を磨き続けることで、自然に涅槃に到達している、というものだということを言っているのかもしれない。涅槃はそのご褒美、果報だということだろう。 読めば読むほど重層的で深い一句だと思う。
12日、ついに念願の猫が来た。 まだ2か月と1週間なので小さいし、かわいい。かわいいことこの上ない。 問題はうちにいる犬とどうやってうまくやっていくかだ。 するとこまちも怖いのだろう、シャー、シャー、する。 来て3日目だが、だんだん二人の距離が縮まってきた。 僕がそばから離れるとゆみが吼え始める。 こまちにすまないな、と少し思っている。ストレスをかけすぎているかもしれないからだ。 とにかく猫というのは神出鬼没だ。 素晴らしいと思ったのは、トイレの仕方を教えなくても自分でできるということ。 あと、仔猫がご飯を食べるときによくやる「うまい、うまい」(じっさいには『うわぁ、うわぁ』にちかい)といいながら食べる姿を、ぜひ見てみたいと思っていたのだが、今日その姿を目撃した。おもわず、笑顔。 さぁ、この子をゆみと共生させることができるか、たのしみながら頑張ってみたい。
初めて添い寝した瞬間。
ゆみの穏やかな表情。うれしいのかな?
ついにゆみのしっぽで遊び始めた。
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