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 小さな不動産会社のBOSS日記

小さな不動産会社のBOSS日記

青春時代その2

財産なりし我が青春


この四畳半の部屋は、私にとって正にはパラダイスだった。

月に1万~1万五千の実家からの仕送りは、時に遅れ、時に送られてこない事もあった。
ガスがあっても炊く米もなく、米があってもガスがなくということもあった。

私が唯一親に甘えたのはこの進学だった。

高校三年の時に父の会社が倒産し、進学どころではないのに、多くの人の援助と犠牲によってとりあえず大学に転がりこませてもらった。
だからその状況下において仕送りもままならないのは当然で、悔やむ事もなく、実に有難いと思うと同時に、多くの人に感謝の気持ちを忘れることはないのだ。

しかし、自分でいうのもなんだけど、小さい時から気持ちだけ純粋培養され・・要するに世間知らずに、正義が正義として存在するのだというようなことを信じてこられた私には、まだ世の成り立ちの大変さなど気づくこともなかった。
だから、その後、卒業して社会人になってからは、その未熟さ故、人間関係には大変苦労したものだ。

悩みも喜びも、のほほんと純粋な部分だけに想いを馳せるような、自由な心で自分世界に生きていられる日々というものは、例えチキンラーメンをかじりながらの生活であっても、心だけは実に満たされていた。
このまま永遠に、贅沢云々ではなく、綺麗な素晴らしい世の中が存在し続けるとさえ思った。

友にも恵まれて多々世話になりながらの日々は実に楽しかった。
振り返っても、嫌な事もつらさもなく、心に充足感を持った私だけが甦ってくる。

隣接する大家さんが、部屋の横の通路を
「また家賃が遅れているか・・」とぶつぶつ言いながら通っていくときはつらかったけど。”^_^”

いや~しかし、
コカコーラーの配達助手、土木工事、空調ダクト取り付け助手、キャバレー&クラブのボーイ、警備員、手際よくボンベを回して移動させるのに苦労した酸素ボンベの配達助手。
中国自動車道の工事現場での飯場生活。
帰省したときには漁船のペンキ塗り、鉄工所。
様々なバイトをした。

競艇場の警備には、制服を着てバスに乗って通った。
駐車場の整理で、斜め付け駐車した黒の大型外車に、持っていた拡声器で注意を促しながら、
言う事聞かない相手に。
「こら~~!ちゃんと停めんか!!」(@_@)
と拡声器でどなったら、黒いスーツの厳つい怖い兄さん達が四、五人勢いよくこちらに走ってきて取り囲まれたこと。
それまで怖い人なんかみたこともなかったし、私は、警備の服を警察の服。拡声器を拳銃くらいに思い違いしていたのかもしれない。”^_^”
まあしかし、若い頃は正義感が結構強かったのである。

中国自動車道の建設現場では、鉄建公団の下請けの下請けの・・ずっと下請けのような二人組みの兄さんに雇われ飯場生活。
しかし、私の気分は、映画「黒部の太陽」の石原裕次郎のような感じだった。

中国自動車道は俺が造ったんだ!。

まあ、仕事と言うのは、車道の側面、走っていても決して見えない法面に排水のためのU字溝を設置したりしていたんです。
真夏の朝早くから夜まで、汗びっしょりへとへとになりながら、その法面の草地で仰ぎ見る青空は素晴らしかった。

キャバレーのボーイも楽しかった。
客を待っているホステスさんの世界。
人生悲喜こもごも。

時に、オードブルをつまみ食いし、並べ直して客に出したり。
裏方である調理のおばさんによくしてもらったり、客にチップをもらったり。
ホステスさんはみな私より年上だったけれど、好みのホステスさんを指名してあげたり、時に弁当を作ってもらったり。”^_^”
クリスマスにはサンタクロースの衣装を着けて、街頭でビラを配ったり。
恥ずかしく赤面状態だったけれど、衣装も赤でこれ幸い。
客と喧嘩したこともあったな。^_^;

宴が終わってホステスさんと一緒にマイクロバスで送られて帰る。

いや~~、学生生活は勉強はした覚えがないけれど、幸せな最高の青春だった。



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