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のーりー1967の日記 [全651件]
![]() 本城はいわゆる「崖城」である。「鏑川」をはさむように本丸を眺めてみた。結構な要害でもある。 ![]() 埋め立てられ、ガランとした郭跡の隣に、堀跡とおぼしき跡がある。これが唯一の、城跡を髣髴される部分でもあった。
![]() こうした、城跡の定石というべきか?本丸跡は「神社」になっている。 ![]() かなりの部分は、埋め立てられており、土塁の跡も無い。 ![]()
![]() 上州から信州に向かう途中、思わず「庭谷城跡」の道案内にそそられ、道を外れてしまった。 ![]() バイパスから細い住宅地の道を進むと、そこにあった。 この城の歴史は正直無知であったが、案内板で概要は知りえた。場所からすると想像できたのであるが、「国峰城」の枝城ということである。
さて、本年もよろしくお願い申し上げます。 本年、最初の書込は、昨年の書き残しである。 山形城は別名「霞城」と呼ばれるが、山形駅に降り立った時点で下記の如くであった。 ![]() その名に恥ずることなき霧である。 因みに、翌日の光景は以下のごとくであった。 ![]() これは、駅の西口広場である。 ![]() 上図のちょうど「現在地」にあたる。
![]() さて、真田氏とともにこの沼田城を彩る人物は、徳川四天王の本多忠勝の娘であり真田昌幸の長男真田信之の妻である「小松姫」であろう。 関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。 昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。 後に、自ら子供をつれて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。 一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。
![]() 本丸跡周辺に、土塁が多少は残っている。 ![]() 正直、どこまで築城当時のものかは不明である。 ![]() ただし、本丸墨に鐘楼が復元されているが、この中の鐘は真田信吉時代の本物ということである。
![]() ![]() 真田氏時代には5層の天守や3層の櫓が建てられたそうであるが、現在は「花壇」になっており、「ツワモノドモノ・・・・・」といったところであろうか? ![]() さらに、周辺はテニスコート・野球場などを含め沼田公園として整備されている。 |一覧| |
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