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『新編武蔵国風土記稿』には、「此辺岸村、石畑村及び当村(殿ヶ谷村)を、古へは村山と唱へたるよし、その中当村(殿ヶ谷村)は領主村山土佐守の居住せし所なれば、かく唱ふと、村山は武蔵七党の内にて、当国の旧家なり、子孫小田原北条家の幕下たりしが、天正年中北条家滅亡の時、此家も共に絶たり」とある。 村山氏は武蔵七党の一つ村山党の総領家で、平忠常の孫頼任が村山貫主と呼ばれ、狭山丘陵を中心に勢力を張った名族である。庶流には大井・宮寺・金子・山口・仙波・須黒・久米・広屋・荒波多(田)・ 難波田の諸氏があり、なかでも山口氏がよく知られている。 明治十八年に刊行された『殿ケ谷村地誌』では、「村山氏ノ邸跡、丑ノ方字山際及京北ノ方宇狭山平ニアリ、今ハ村民ノ宅地或ハ陸田トナリ、土塁小陸ノ跡微カニ存ス、里伝二元弘ノ頃村山重信及天正ノ頃村山土佐守等此二居住ス、村名ノ殿ケ谷モ是ヨリ起ルト云」と記されている。 村山館または殿垣内と呼ばれる館址の東側は残堀川に落ちる細流が南下していて自然の水堀をなし、西・南および 北側には、空堀を巡らしたらしい遺構がある。往時、周囲には土塁があったと伝えられているが、現在は確認されない。館址の北方に現在福正寺(瑞穂町殿ケ谷一一二九番地)があるが、その境域はかつては村山館の詰の城であったろうと推定されている。 殿ケ谷の城館主と伝えられている村山重信は、保元の乱で活躍した金子十郎家忠(『保元物語』に武蔵国住人とみえる)の八代の孫重延であろうといわれ、元弘の乱に際して新田義貞の軍に加わり討死している。天正頃の城主とされる村山土佐守は義光で、福正寺に位牌その他が現存している。金龍山福正寺は、かって立川普済寺の末寺で、当寺院の過去帳には「名暁雲山天正年中八月廿一口 村山土佐守事 楽叟常雅雅楽助事とあり」と『新編武蔵国風土記稿』は引用しているが、この過去帳は現存していない。 しかし位牌は現在残っており、銘文目次のとおりである。 (表)天暁院殿雲山紹白居士 青春院玉窓妙全大姉 覚位 (裏)雲 天正十五丁亥八月十二日 俗名村山土佐守義光 玉 寛永十四丑正月七日 また、福正寺観音堂の本尊の修理再建趣意言写しには次のような記述がある。 就中破 謹奉梅密慶座香座元再興者也 当寺檀那 村山土佐守 同施主 雲峰俊慶座元殊者為二親仏果次現世安穏後生善処世于時 天正拾五丁亥稔霜月二十八日願主敬白 さらに、阿豆佐味天神社(殿ヶ谷一〇〇八番地)棟札は次のとおりである 天正十二年甲申三月十三日 大順主 神主 宮崎左近 村山上佐守 大工 大野八右衛門 田中豊後 乙幡庄左術門 村山雅楽助 本願 九郎右衛門 宗 悦房 福正寺には、村山土佐守をはじめとする一族の墓と称する墓石群がある。また、著名な永禄七年(一五六四)五月二十三日付けの清戸三番衆」を定めた北条氏照印判状はこの付近の土蒙四一名示連記されているが、村山氏一族の名はみあたらない。 これは三番衆に村山氏が当たっていないからであろうが、『武蔵野話』には、「永禄の頃の北条家着到状には村山伊賀守の名がある」と記されているが、私はまだ確認するまでに至っていない。(日本城郭大系) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.05.25 06:25:14
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