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Revolve99.8

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知識人よ、さらば!~呉智英批判

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米村こなん



呉智英『吉本隆明という「共同幻想」』 を読了しました。
内容は酷いですね。吉本のテクストの引用は恣意的だし、呉お得意の和文和訳も解釈に疑問が残ります。なにより現代文風の解釈が味気なく、詩人吉本隆明の文学的香気をそぐ、無粋な代物です。
むろん、厳密な論証を旨とする学術論文ではなく、筆者の発想の冴えや飛躍の妙を楽しむ評論文ですから、これはこれでいいのかもしれませんが、以下の点が触れられていない点は根本的にダメな点であります。
第一に吉本隆明の京都学派にたいする怨念が語られてない点。
第二に呉の吉本にたいする愛憎が秘匿されている点。

以上が語られていないため、平板な吉本批判に終止しています。例えば吉本は大衆を金科玉条とする吉本大衆神学だ云々。呉は孔子を尊敬しているというが、孔子とは実は吉本隆明のことではないかという印象を彼の過去の著作に触れた者として私は感じます。
だが、この本は実は吉本隆明批判の名を借りた知識人論であるのかもしれません。吉本も呉も自らの思想を体系的・理論的に著述する階層という意味では知識人です。知識人にとって自らに内在する〈大衆性〉をどう総括するかは重要な問題です。吉本は〈大衆の原像〉を繰り込まない思想はダメだといいましたが、吉本とは対称的に教養人を自負する呉は〈大衆性〉から如何に知識人は脱却すべきかという問題意識を持っています。
いずれにしても、知識人にとって〈大衆〉とは何かという定義を巡って議論がぐるぐる周回している印象があります。

ただし私は一億総オタク化した現代日本では、一個人のなかに〈知識人性〉と〈大衆性〉が混在していると思いますし、両者の比率の問題にすぎないと考えます。むろん、大衆の定義がいるでしょう。私は大衆とは〈食う〉〈寝る〉〈遊ぶ〉の欲望機械だと思います。だから、文学思想政治なんて大衆にすれば、どうでもいいのです。

呉も吉本も文学思想政治の範疇に生きる知識人だから、大衆のそうした強かな現実をしらないし、知識や思想を切り売りして、大衆に買ってもらって、その印税収入で暮らす彼ら知識人は、永遠に大衆の奴隷でもあります。

自らの〈大衆性〉を倫理的に如何に総括するかという知識人論のばかはかしさは、印税収入で暮らす知識人にとっては大問題であっても、大衆にはどうでもいいことなのです。

結局、知識人は大衆に食わして貰ってる。この冷厳な現実だけが浮き彫りになった著作でした。吉本大衆神学を崇めた読者の思想的責任を呉は云々しますが、だったら、あんたは、あんたの大好きな西部邁がいうように、村の外れで半基地外扱いされて、晴耕雨読の生活に浸りながら、仲間内の知識人たちと清談に耽ってろよ、とそんな風に思うわけなのです。


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