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2011年08月23日
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固有名詞の人間と魂は別人

仏を念じるというのは、自分自身を念じないことです。それを浄土真宗ははき違えているのです。念仏とは自分自身が空になって仏を念じるのです。自分自身が生きていて、自分が成仏するために仏を念じるのは、宗教観念です。
本当の念仏は、己を捨て、己が空しくなって、自分がからっぽになって仏だけを念じるのです。今の他力本願はこれを間違えているのです。
法華経第一巻、第二巻、第三巻には、空をしっかり説いています。現世に生きている人間が空であることをはっきり言っているのです。それをふまえて、火宅煩悩の教えを説いているのです。従って、すべての仏教は本来釈尊の空をふまえるような形をとってはいますけれど、日本の仏教はそれを重視していない。これが悪いのです。
法華経は空を重んじているけれど、法華経を信じている日本の宗教者がそれを信じていないのです。法華経のいうとおりのことを実行していないのです。
念仏もそのとおりです。念仏するということは仏を念じることであって、己自身の救いを念じることではない。この点が間違っているのです。
本当の釈尊の空は自分自身のことを一切考えないことです。般若ハラミタが本当に正確に説かれたことが、日本では一度もないのです。日本では般若ハラミタがつけたしになっている。これは般若心経を軽んじていることで、般若心経を弄んでいることになるのです。だから般若心経は長い間日本にありましたけれど、本当に読まれていなかったのです。
般若ハラミタが釈尊の本当の思想です。聖書は現世に生きている自分を捨てて、新しい人を着よと言っています。般若心経と聖書は同じことを言っているのです。
皆様は固有名詞の自分で聖書を勉強しようとしている。これが大変な間違いです。これを捨てて下さい。山田太郎という名前の人が聖書を勉強していることが間違っているのです。
固有名詞の人間は絶対に救われません。これは現世に通用する人間なのです。現世に生きている人間はキリスト教の勉強をしたらいいのです。キリスト教の教義は固有名詞の人間が救われると言います。そんなことは聖書には書いていません。だからキリスト教の教義は嘘です。死んでから天国へ行くという思想ははっきり嘘です。
皆様は現世に生きている固有名詞を自分だと思っているでしょう。これはこの世に生きている自分です。この世に生きている自分は絶対に救われません。なぜならイエス・キリストの十字架によって死んでしまっているからです。死んでしまっているものは救われるはずがないのです。キリスト教でこれをはっきり言えば、信者が集まらなくなりますから、言わないのです。だから死んでからと言って誤魔化しているのです。
生きているうちに神の国に入るのです。まず神の国と神の義を求めよというのは、生きている人間に向かって言っているのです。そのためには、固有名詞の自分を解脱する必要があるのです。
こう言いますと、大変難しいように聞こえますが、実は固有名詞の自分と皆様の魂は何の関係もありません。聖書の勉強をするのは魂であって、皆様の魂には名前がないのです。霊的に物を考えることができないので、肉体的に生まれた自分、市役所の台帳に載っている固有名詞の自分を自分だと思っているでしょうが、これは現世における行政整理の問題なのです。現世の行政上の人間と、神との係わりが発生する魂とは、全然関係がないのです。
魂は鼻から息を出し入れしているという事実、皆様の心臓が動いているという事実、これは固有名詞に関係がありません。山田さんも中村さんも、鼻から息を出し入れしているという事実は同じなのです。従って、固有名詞に関係なく、自分の利害得失を考えないで、自分が救われたいという根性を捨てて、冷静に淡々として、生きているという事実だけに基づいて聖書を勉強して下さい。これが魂として聖書を勉強するための、神に対する唯一の作法です。この作法を忘れて聖書の勉強をしていてもだめです。
皆様の命は皆様の精神構造です。命は心臓が動いていることではありません。心臓が動いていることも生命には関係がありますけれど、皆様の生命の原点となるものは、皆様の精神構造です。心の持ち方が皆様の命の本体です。心の持ち方さえはっきりしていますと、心臓が止まっても命はなくならないのです。
肉の思いは死である。霊の思いは命であるという言葉が聖書にありますが(ローへ人への手紙8・6)、人間は精神によって生きたり死んだりするのです。だから皆様が世間並の精神を持っていれば、必ず死にます。今まで皆様が持っていた精神は、必ず死ぬに決まっている世間並の精神です。世間並の常識を持って、常識的に生きている人は必ず死にます。常識を捨てて、常識ではない精神を持てばいいのです。これを信仰というのです。
信仰とは何かと言いますと、魂が生きているその生き方です。例えば何かを食べると甘いとか辛いとか感じます。その感覚の状態、五官の働きが前世からの精神構造です。これを魂と言います。魂が救われればいいのです。
皆様は魂で生きないで現世の常識で生きています。これが間違っているのです。常識は般若心経でいう五蘊です。この世に生きている人間の気持ちです。これは罪人の気持ちです。罪人の気持ちで生きているから死ぬに決まっているのです。
聖書は罪人の気持ちを捨ててしまえと言っているのです。古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着よと言っている(エペソ人への手紙4・22 ~24)。このとおりにしたらいいのです。これをしなければ、死ぬべき自分を永遠の命の方向へ転換することはできません。
宗教は嘘ばかり言っています。キリスト教が言うやりやすいこと、耳ざわりな言い方は皆嘘です。皆様の魂の眼が開かれなければだめです。魂の眼が開かれるとはどういうことかと言いますと、五官が働いていること、目で見ていること、耳で聞いていることがそのまま命の言葉を見ている、聞いていることだと理解できることをいうのです。
現に皆様が目で見ているのは命の言葉なのです。それを見たり聞いたりしているのです。皆様が生きているのは命の言葉に触れているのです。だから生きていることの実体を把握するのです。
心臓が動いているから生きているのではありません。精神構造が神の言葉に触れているから生きているのです。そこで皆様の精神構造が神の言葉に触れようとするのです。
皆様は第一に人間としての精神ではなくて、魂としての精神に目覚めて頂きたいのです。固有名詞の自分ではなくて、魂の自分に目覚めるのです。魂の自分に目覚めるためにはどうすればいいのか。霊的に見ることが必要です。固有名詞の自分の利害得失の感情にとらわれないで、生きているという事柄を中心に考えるのです。そういうことを自己訓練するのです。自己訓練をすればできるのです。やろうと思えば誰でもできるのです。
世間並の人間ではなくて、生きている人間を見るのです。生きていることは霊です。リビング(living)は霊です。リビングという霊なる自分を見るのです。神に生かされているのが魂ですから、これに目覚めるのです。世間で商売をしているとか、月給をとっている自分とは違います。固有名詞の自分ではなくて生きている自分が神に結びつくために、魂の目覚めが必要です。
要するに自分についての考え方を変えるのです。これを悔い改めるというのです。花が咲いていることが神の国です。前世が花として咲いているのです。皆様の魂は生まれる前に神の国にいました。その時、皆様は花を見ていたのです。花が咲いていることの中に、神の国があるのです。イエスが神の国を求めよと言っているのは、花が咲いていることの中に神の国があるから、それを求めよと言っているのです。
花の美しさ、リンゴの味、魚の味、果物の色、形、香りはすべて霊です。霊なるものは神を現わしているのです。これが神の国です。だから神の国を求めるのです。神の国と神の義を求めるのです。
皆様が生きているのは、おいしいものが食べたい、美しいものが見たいからでしょう。これは無意識に神の国と神の義を求めているのです。ところが固有名詞の人間が間違っているのです。
皆様の魂は間違いなく神の国を求めているのに、皆様の常識が間違っているのです。常識がごたごたと理屈を並べている。現代文明の学理学説はユダヤ人が造った理屈ばかりです。こういうユダヤ主義に毒されているために、神の国が全然分からなくなっている。この間違いを解脱して霊に従って物を見る、五官に従って神の国と神の義を求めるのです。これをぜひして頂きたいのです。







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Last updated  2011年08月23日 11時49分30秒
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