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獣王の牙~Fang of a Beast King~

銀色―完全版―第五章

背負われる「名無し」。

水辺で名前を聞かれても答えることができない。

『…誰もつけてくれなかったから…』

 

 

 

そして語られる物語。


第五章―錆―(さび)

旱魃により家を出されたまだ幼い姉妹。

両親はそのまま自分達で命を絶った。

その後すぐに雨は降り出した。

その雨を降らせたのは大井跡の作った銀糸。

銀糸を使って雨を降らせたのは久世。

でももう遅い。

遅かった。

姉妹は2人きりで生きることになった。

 

姉は妹に握り飯を食わせるために体を売ち続けた。

何も知らずに姉を待つ妹。

そうして2人は生きた。

 

姉は妊娠していた。

苦しむ姉に何もできないでいる妹。

たまたまそこに通りがかったのは悪しき者から銀糸を隠そうとする久世。

その久世の手によって姉から産まれたのは女の赤ん坊だった。

 

ある夜、いつものように握り飯を食べている時。

赤子に名前がつけられた。

『あやめ』

水辺にあやめが綺麗に咲いていた。

 

姉は病にかかった。

そして妹を自分の子供に別れを告げて去った。

妹が最後に姉を見た姿だった。

 

もう姉から握り飯はもらえない。

あやめはぐったりとしてきた。

妹は姉の真似をして通りすがりの男達の前で服を広げてみせる。

それがどんな意味かも知らずに。

 

妹はあやめを連れたまま町で倒れた。

身も心もぼろぼろになり、もう動くことすらできなかった。

あやめは男達に連れて行かれた。

あやめの名前を知ることもなく。

妹はそのまま死んでいった。

誰にも知られることなく。

でも確かに生きていた。

そう思いながら死んでいった……。

 

 

これが「名無し」の生い立ち。

大井跡とあやめは例の花の咲かない水辺に行くことにした。

間違いなくそれが最後になることがわかっていた。

あやめは一旦里に帰って見せたいものを持ってくると言う。
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夕刻に例の場所で待ち合わせをして2人は一旦別れた

あやめは三井と公園の水辺で待ち合わせの約束してカウンセリングへと向かう。

三井にもらった自信と勇気を持って。

 

しかしそれは入り口の前に来た時に崩れ去った。

 

聞こえてきたのはもうあやめは治らない、というカウンセラーと助手の会話。

部屋に飛び込み、カウンセラーを問いただすあやめ。

カウンセラーはそのことを認めた上で三井のことまでも否定する。

それに反論しようとしたあやめに怒鳴り散らすようにカウンセラーは言う。

そんな若造に何が出来る。

そして治らなかったのはあやめが自分の治療法に従わなかったのが原因だ、と。

全ての責任をあやめ本人に押し付けるカウンセラー。

今まで積み重ねてきたものが全て崩れ落ちた瞬間だった。

あやめは里から帰ってきても大井跡のいる小屋には入らなかった。

小さい頃から作り続けた着物を纏ったあやめ。

嫁ぐ時に着ようと決めていた着物。

でもそれを着て大井跡に会おうとは思わなかった。


 

 

2人が結ばれてからの初めてのデートだった。

三井は浮かれた気分で公園の水辺であやめを待ち続ける。

 

いつしか待ち合わせの時間は過ぎ、それでもあやめはやってこなかった。

空を暗い雲が覆い始め、そのうちもの凄い勢いで雨が降り始めた。

あやめは来ない。

でも三井は待った。

 

 

水辺であやめを待つ大井跡。

大井跡に残された時間は僅かだった。

その時目に入ってきたのは一輪のあやめの花。

思わず声を上げるほどに嬉しかった。

「咲いたっ! 咲いたぞっ!」

でもあやめはやってこない。

そろそろ待つことすらできなくなる時間。

「お前も、罪な咲き方をするな…」

まるで自分をこの場に留めたいかのように、と思った時。

全身に震えが走った。

鳥肌が立ち、寒気さえ感じた。

「…あやめ?」

大井跡は全力で小屋に向かって駆けた。


 

 

三井は雨の中であやめを待ち続けた。

自分のように濡れていなければいい、と思いながら。

ただ来てくれることを信じていた。

 

 

大井跡が打ち壊すような勢いで小屋の戸を開けた。

そして暗闇に目が慣れてきた時、そこに見えたのはぐったりとしたあやめの姿だった。

抱き起こしたあやめの全身は濡れていた。

おびただしい血に濡れたあやめの足元に落ちていたのは一振りの短刀。

あやめは自分で腹を切っていた。

すぐに人を呼んでこようとした大井跡をあやめは引き止める。

一人にしないでください、と途切れ途切れに言うあやめ。

大井跡にもわかっていた。

もうあやめは助からないことが。

 

何故こんなことをしたのか、とわかっていながら大井跡は尋ねる。

どうか違っていてくれ、と願いながら。

でもその答えは予想していた通りのものだった。

大井跡の代わりに。

あやめはそう言った。

 

「花が…花が、咲いたんだ…」

「えっ…?」

「あの川辺の花だよ。一輪だけが、咲いていたんだ…」

失敗しちゃいましたね、とあやめは少し微笑みながら言った。

大井跡と一緒に見る最後の機会。

最後にあやめは大井跡に尋ねる。

自分は良い妻だったか。

大井跡は何の迷いもなく答える。良い妻だった、と。

夢だった、とあやめは言う。

「大好きな旦那様に…良い妻だと…褒めていただくのが…」

大井跡は強く強くあやめを抱きしめる。

胸が張り裂けそうに痛み、涙があふれ出る。

「大井跡さま…」

「ああ、なんだ?」

「花は…きれいでしたか?」

「ああ、美しかった。お前にも…見せたかったぞ」

あやめはかすかに震える唇を動かした。

「ん、なんだ? 何と言った?」

大井跡はあやめの唇に耳を寄せた。

そしてその言葉……

 

「一緒に…見たかった……」

 

すっ、と目を閉じるあやめ。

 

「あやめ…? あ…あやめっ、あやめぇーっ!!」

 

 

 

もうどんなに揺らしてもあやめの目が開くことはなかった。

大井跡の涙があやめの頬に何粒も、何粒も落ちる。

違うのだ、と大井跡は心の中で繰り返す。

 

あやめは一つ、勘違いをしていた。

それははっきりとそのことを伝えなかった大井跡の罪でもあった。

あまりに生々しいその内容から大井跡はそのことをあやめに言わなかった。

それが裏目そのままに出た。

 

銀糸の製法。

最後に代価として払わなければならない命。

それは誰に命でもいいと言う訳ではなかった。

代価となる命は銀糸を作った者の命、つまり大井跡の命でなくてはならなかった。

あやめが死んでも何の意味も無い。

 

大井跡は静寂と暗闇の中で泣き続けた。

しかし、やらなければならいことを思い出した。

本来の色を失い、血に染まったあやめの唇に口付けをする。

そしてあやめの体を横たわらせてから足元の短刀を手に取った。

 

自分の喉笛に短刀を押し当てる。

短刀を握る手には銀糸を巻きつけ、空いている手はあやめの手を握る。

あとは短刀を握った手を軽く引けば全てが終わる。

でもそれは里のためではない。

久世のためでもない。

他の誰のためでもない。

 

『あやめのため…』

 

『俺は…その名を持った者の為に…』

 

そして刃を引いた。

大井跡はあやめに覆いかぶさるようにして倒れた。

 

「…あやめ…いっしょに見たかったな…」


 

 

あやめは自分の部屋にいた。

自分の声がもう取り戻せないと知った時、自分と自分以外の全ての物の間に線が引かれた。

心の中で三井に謝罪し続けるだけだった。

 

雨はもうやんでいた。

三井は待ち続けていた。

もういいだろう、と思いながらも体が動こうとしない。

もう自分が何を待っているのかもわからなくなっていた。

 

そっとリボンを解いて、その下にあった銀の糸を手の上で広げてみる。

どんな願いでも叶えてくれるという銀の伝説。

あやめは願う。

線を無くして。

皆と同じ世界に連れていって。

 

お願い、お願いだから!

私の願いをかなえてよ!


 

握り締めた糸に涙がこぼれおちる。

 

…私はあやめ。…咲かないあやめ。

誰にも埋められない距離を持った者…


 

(咲いた、咲いたぞ!)

 

…えっ?

 

(…あやめなんて…どうだ?…)

 

…だれ?

誰の声なの?!


 

どこからか確かに聴こえた声。

そして手に持った糸がぼんやりと光を放ち始めていた。

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…これは?

…これは…いったい?…


 

(…たまにでも思い出して下さい…)

 

(お、お姉ちゃん…)

 

…私に、私に言ってるの?


 

光った糸があやめに何かを言ってくる。

 

(…生きた証が欲しい…)

 

…生きた証?

 

((…花を…))

 

…花? …あやめの花のこと?

 

((一緒に見たかった…))

 

…いっしょに見たかった?

…いっしょに見れなかったの? ねえ?


 

((…一度でいいから…一緒に…))


 

その瞬間、ぼんやりと輝いていた糸が光を失った。

まるで何事も無かったように。

 

 

「帰るか…」

独り言のように三井は呟く。

「…お前も、いつになったら咲くんだ?」

来ないあやめに重ねて、目の前のあやめの草に呟いてみる。

そして諦めて踵を返した時。

「…?」

目の前で何かが光った。

気がつけば淡い光を放ちながら無数の蛍が水辺を飛び交っていた。

 

(…あやめ…なんてどーだ?…)

 

「えっ?」


 

確かに光点…蛍の向こうから聞こえた。

 

「なっ…」

 

淡く消えそうな光点の中、ぼんやりと白い影…「名無し」の姿が揺れていた。

 

(…わたし…光ってた?)

 

「…お前は…いったい?…」


 

その淡い影がだんだんとはっきり見えてくる。

そしてそれは見覚えのある顔に。

待ち続けていた顔に。

 

「あやめちゃん!!」

 

来ると思ってたぞ、と呟く三井の腕の中で声もなく嗚咽の涙をこぼすあやめ。

 

(咲いた、咲いたぞ!)

 

「えっ?」


 

思わず2人同時に顔を見合わせる。

「…いまの聞こえた?」

小さくうなづくあやめ。

「…やっぱり聞き違いじゃ……あっ!?」

 

さっきまでただの青草だった水辺のあやめ。

でも2人が見つめる先は一面の薄紫に染まっていた。

 

咲く事を忘れていたあやめが一斉に咲いていた。

 

(( よかった… ))

 

そしてまた目の前に薄っすらと浮かぶ人影。

とても嬉しそうな笑顔。

銀糸に命を捧げた「あやめ」の笑顔。

 

(( うれしい?… ))

 

(( 一緒に見れて良かった?… ))

 

「…えっ?」


 

あやめの持っていた銀糸が光りだす。

「…糸が光ってる?」

 

(( よかったな…あやめ… ))

 

(( はい、よかったですね… ))


 

そんな声が聞こえた瞬間、あやめの胸元の糸が一際鮮明な光を放った。

 

 

 

「…あれ?」

思わず顔を見合わせる2人。

糸は消えていた。

 

全ては幻だったのか。

そう呟いた三井の腕をあやめが引っ張る。

そして促された視線の先。

 

淡い月明かりの中、一面に薄紫のあやめの花が咲き乱れていた。

 

「やっぱり幻じゃなかったんだ…」

コクンっと頷くあやめ。

 

 

 

…それは何年か振りに再会した、自分と同じ名を持った花。

まるで幼い日に分かれた己の分身のような花…


 

 

 

「…綺麗だな」

 

「…うん」

 

「一緒に見れてよかったな…」

 

「…うん、そうだね」

 

「だけど、さっきのひか…」


 

思わず言葉を止める。

 

「あやめちゃん!!」

 

「えっ、ん、なに?」

 

「あやめちゃん、声が…」

 

「えっ、ええ!? あっ…」

 

 

(( 良かったね。一緒に見れて ))






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