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2015/09/12
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772年、井上内親王にかわって山部親王が皇太子に立てられます。

山部親王は光仁天皇と百済系の女性高野新笠の間に生まれております。この高野新笠は、百済25代の王武寧王の子孫である倭乙継の娘ですから素性のはっきりとした方なのですが、山部親王の母は渡来人ということで、天皇になれる可能性は低かったのですが、この井上親王呪詛事件によって機会がまわってきたということです。

781年4月、光仁天皇の譲位を受けて、山部親王が第50代桓武天皇として即位します。37歳でした。

これで、藤原家とはまったく血脈のない天皇が誕生するわけですが、この山部親王を推したのが藤原式家の良継・百川兄弟で、すでに良継の娘も百川の娘も山部親王に嫁がせているので、将来山部親王が天皇となって自分の娘がその皇子を産めば、自分の孫が天皇にということになって、藤原不比等と聖武天皇の関係と同様の関係が実現できることになるわけです。

実際、良継の娘藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)は桓武天皇の皇后となり第51代平城天皇と第52代嵯峨天皇を生んでいます。

【東大寺】

P1240065.JPG

元正天皇715年即位から称徳天皇770年崩御まで、55年間続いた天武系の天皇のしがらみをまったく受けない桓武天皇は改革を推進します。

仏教勢力の勢いを止められなかった奈良時代ですが、それには二つの大きな理由があります。

ひとつは、聖武天皇が仏教を崇拝しすぎてしまったこと。

鎮護国家をつくるために東大寺や全国に国分寺を建立したのが聖武天皇で、その娘称徳天皇も鎮護国家と平和祈願のためということで西大寺を造営し、結果として寺院の強大化を進めました。その結果、道鏡は法王という地位につくことになりました。

二つ目は、寺院優遇の政策によって大きな富を手に入れたこと。

そして、その道鏡が765年に出した「加墾禁止令」は、寺院の荘園以外は開墾を禁じたものであり、寺院優遇・仏教擁護の政策となり、経済力も手に入れました。

【興福寺三重塔】

P1240034.JPG

ということで、平城京は東大寺や興福寺など大きな寺社勢力があり、仏教とは切っても切れない土地になっていました。僧の中には贅沢な暮らしをむさぼり、政治に口出ししてくる者もあったのです。そして政治と宗教が結びつくとロクなことにならないと、桓武天皇は実感していました。

鎮護国家の名において、その間に国家財政がメチャクチャになっていました。

そこで、桓武天皇はまず律令体制の立て直しをはかろうと考えたようです。

桓武天皇の狙いとしては、税金をちゃんと納めてもらうようにすることと、天皇の命令をすぐに聞いてもらえる体制を整えることなどがありました。

そして、桓武天皇は、781年年号を延暦と改め、“都を遷す”という誰もが驚くことを発表します。

 

《続く》

 






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Last updated  2015/09/12 07:11:05 PM
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