カテゴリ:歴史ウォーキング京都
長岡京市を歩いていると、乙訓寺と長岡宮跡の中間ぐらいに"小畑川"という川が流れています。 ちょうど、長岡宮があった場所の北西から南東に斜めに横切るように流れています。大山崎の辺で淀川(桂川)に合流しているので、当時は淀川からこの小畑川を使って船で物資を運んでいたのでしょう。長岡宮のすぐ近くまで運べるので、それは便利だったでしょう。 しかし、この小畑川が氾濫すると、長岡京内は洪水に見舞われることになり、特に長岡京内の東南部は土地が低いので災害にたびたび見舞われたと思われます。 そして、この小畑川の氾濫による災害が、長岡京を短命に終わらせることにつながっていきます。 【小畑川】 長岡京が10年で終わった原因に巨椋池や淀川の氾濫が挙げられますが、巨椋池は現在の宇治川よりも南にあり、巨椋池から流れ出た淀川は京域外の南側を流れていたため、実は大きな間違いであるということです。さらに、長岡宮のある向日市のほうが海抜が高く、巨椋池や淀川が氾濫しても長岡京が浸水することはありません。まして官庁街があった地域は丘陵地ですから影響は受けることはなかったということです。 【桂 川】(淀の宮前橋から長岡京市方面を撮影) 長岡京の時代に、桓武天皇が苦悩の中で行ったことで、その後の歴史に影響を与えたことがあります。 ●健児(こんでい)の制 まず、792年に健児の制というものを出しています。 一般的にはあまり知られていない制度ですが、この制度が長く続く平安時代の流れに影響を与えていくことになります。 もともと律令制度の中には徴兵があり、成人男性の1/3は軍隊所属でした。この軍隊のことを軍団といいますが、これを廃止し、代わりに各地域にいる郡司と呼ばれる役人の子息の中から武芸集団を結成しました。 それまで百姓に兵役を課していたのですが、これによって百姓は兵役から開放されることとなりました。 これで軍隊が無くなったというのは言い過ぎかもわかりませんが、警察署が全て交番になったようなもので、あまりにも縮小してしまったということです。 それより、今まで苦しめてきたお百姓のことを考え、負担を軽くしようと考えたのでしょうか。 ●平安京への遷都を決断 長岡京からわずか10年、794年桓武天皇は新たな場所への遷都を決心します。長岡京からのわずか10年での移転には様々な原因が挙げられます。 責任者の藤原種継暗殺など、反対の運動もあり思うように造営が進まなかったこと。 早良親王の祟りとされる身内の不幸や天災が相次いだこと。
ということで、792年には2度の大洪水に見舞われ、これが追い打ちを掛けることになったわけですが、水の利がよくても洪水が頻発しては都にならない、という考えも生じたかもしれません。他にも都市機能の整備が不十分であったとも言われています。 792年の二度の洪水で新たな都がなかなか順調に機能しないことと、次期天皇安殿親王の病気の原因が祟りといわれたことで、桓武天皇が将来に大きな不安を抱いたことが大きかったように思います。 さすがの桓武天皇も、長岡京に対する気持ちが萎えた? 《続く》 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015/09/30 07:22:56 PM
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