ブログを作る※無料・簡単アフィリ    ブログトップ | 楽天市場
005373 ランダム
六波羅探題のブログ (そのほか)楽天ブログ 【ケータイで見る】 【ログイン】
六波羅探題のブログ

六波羅探題55の日記 [全14件]

2012年4月4日楽天プロフィール Add to Google XML

六波羅の余興  (6)

2012年3月18日夜、高岡市内のレストランにおいて、六波羅探題北方さま、由利鎌ノ助殿、小松殿、島津豊久公と決別の杯を交わして参りました。陸遜大都督からの進物もあり、大いに食べて盛り上がりました。バイキングだったのですが、元を確実に取りました。お店の方、すみませぬ。

思い返せば、北方さまとは、鮫ヶ尾城、春日山城、豊久公とは末森城、安土城、鎌ノ助殿、小松殿とは関ヶ原、上田城、小谷城と・・長征続きでしたが充実した日々がこのブログに書き込まれていますね。高松塚殿も古墳で大興奮で移動力も100・・そして忘れてはならないのが上田城での足軽大将さまとの再会・・切れ味バツグンな感じは変わってなかったです。そしてネタには事欠かない能登守さま・・長旅本当にお疲れ様でした。

120317_2040~02.jpg

六波羅探題はメンバー不足のため、しばらく活動を休止します。が、OB,OGを対象の遠征は継続しますのでよろしくお願いします。


最終更新日時 2012年4月4日 23時10分27秒
コメント(6) | コメントを書く


2012年2月1日

六波羅の航跡(3)~倶利伽羅の合戦の巻~2009/9/13  (2)

今回は大河ドラマ平清盛で話題の平家にゆかりのあるものをと考え、歴史研究サークル「六波羅探題」シーズン1が倶利伽羅峠の戦いを検証したときの話をしたいと思います。
kosen
短大を予定通り出発して約50分で集合地点の富山県小矢部市の埴生護国八幡宮前にある「倶利伽羅源平の郷」に到着しました。ここで能登守と合流することになっていましたが・・いない。周囲を探してもいない・・電話してみたら本人はいるという。メンバー一同謎に包まれ、これは源氏の計略か??などと想像をめぐらしましたが・・・現れました。ナビが神社の裏口に誘導したとのこと。これには一同大笑いしました。
kurikara01.jpg
その後、源平の郷の展示などみて、古戦場へ車で登りました。
平家本陣跡、地獄谷など平家の公達を忍びながら散策しました。中でもジョン万次郎氏と新中納言様の勇み足は特筆に値する機動力を発揮しておられました。平家ファンにはたまらないスポットですからね。

次に行った倶利迦羅不動尊は、今を去る千三百年の昔(養老二年)時の帝元正天皇の勅願により、インドの高僧善無畏三蔵法師が当山にて国土安穏・万民豊楽の祈願をなされた折に感得された倶利迦羅不動明王をお姿そのままに彫刻し奉安された御尊像があることで有名です。みんなでお守りなど購入させていただきました。

最後は木曽義仲の戦勝祈願・お礼参りをしたときの様子を見習ったという「宮めぐりの神事」が行われるという情報を聞き、最初に集合した「埴生護国八幡宮」にてこの神事を拝観して帰路につきました。木曽義仲はもっと評価されてもよい武将のひとりですね。平家も必死で戦ったのでしょうけども時代の流れは源氏の隆盛に味方しました。ただ、気品や優雅さ、風流のいてはなぜか平家の公達に魅力を感じてしまいます。新中納言様も同感ではないでしょうか・笑



・倶利伽羅峠の戦いとは...
約800年前、木曽義仲は倶利伽羅で平家の総大将平維盛と対戦した際、牛の角にたいまつをつけて平家の軍勢に放ち勝利をおさめました。この戦い以降、木曽義仲は京へ向けて進撃を開始し、やがて念願の上洛を果たします。しかしながら大軍を失った平家はもはや防戦のしようがなく、安徳天皇を伴って京から西国へ落ち延びていきました。



最終更新日時 2012年2月1日 22時1分5秒
コメント(2) | コメントを書く

2011年12月8日

浅井、朝倉攻め ~茶々、初、江ツアー~  (4)

学園祭で軍資金を調達(奮戦の結果)し、浅井氏・朝倉氏史跡巡りに行って参りました。
メンバーは、社会福祉専攻2年2名(小松殿・鎌之助殿)介護福祉専攻2年(豊久殿*総大将)看護学科3年1名(高松塚殿)〃1年(陸遜大都督)顧問(南方様)の総勢6名(北方様は実習中のため参陣できず)

午前8時に2隊(高松塚隊・南方隊)に分かれて車で福短を出発しました。小杉インターから北陸自動車道に乗りまっしぐらに南進いたしました。

まず初めに到着したのは、「小谷城戦国歴史資料館」でした。
展示室に入ると、館内ガイドの方が団体客の人へお話をしているのを、メンバーは後ろから聞き耳を立てて聞いていました。その後も展示室の方へ歩いていくと、浅井長政様やお市の方様、2代目当主浅井久政様の肖像画や木像などが展示してありました。また、お城を再現してあるジオラマ等があり、難攻不落の城であることを改めて思い知りました。
mokei

続いて浅井3姉妹が生まれた小谷城跡に登ることに・・・
一同は500円のバスに乗り小谷山の中腹(番所跡)まで行き、語り部の方のガイドと共に足を進めました(めちゃくちゃ登山)途中、大河ドラマ「江」で浅井長政様とお市の方様が「琵琶の海」を見た景色などがあり、また、ガイドの方の説明によると、ドラマでは炎上していた小谷城ですが、実際は燃えていなかったなどと様々なお話を聞くことができ、一同その時代に思いをはせていました。この間、山の下で帰りを待つ南方でしたが、救急車が山上へ向かって走って行くのをみて「すわ、もしや六波羅の者どもに何か・・」と想像を巡らして心身耗弱状態に・・・もちろん皆健在で心配は徒労に終わりましたがヒャッとしましたよ。
odanni1

続いて一同が向かったのは、「小谷・江のふるさと館」です。
入口の前にいた可愛らしいお江ちゃんと記念写真を撮ったあと、一同は、ふるさと館の中へ入りました。中に入ると、火縄銃や弓矢を持つことができるコーナーがあり、我らが大将豊久様と陸遜・大都特様が火縄銃を構えておられました(すごい迫力)少し進むと、扇子と刀を持って記念撮影ができるブースがあり「茶々・初・GO-!!!」の掛け声と共にシャッターが切られました。(一番印象に残った掛け声・・笑)

furusato

ふるさと館を出た一同は、木之本I.Cより再び高速に乗りし賤ヶ岳SAで昼食タイムとなりました。おいしい御膳をいただき一同ご満悦でした。

昼食後、一同は戦国大名朝倉氏の本拠地であり、最近ではソフトバンクのCMで有名になった「一乗谷」に出撃いたしました。到着した後、少し歩いた場所に「一乗谷朝倉氏遺跡」があり、メンバーは道を散策しつつ、途中で見つけた発掘現場らしきものを横目で見て、その近くにあったお墓に手を合わせその場を去りました。

asakura

~一乗谷の攻防と朝倉氏~
 8月15日から16日にかけて、信長は味方の将兵を労うと同時に休息を取らせた。そして17日には大軍を整え、朝倉義景(以下義景)の元家臣前波吉継を案内役にして越前に攻め入った。一方、義景は8月15日に一乗谷(一乗谷城)に帰陣したが、味方の劣勢を知った国内の武将らで馳せ参じるものも無く、もはや義景の手勢は近習含めわずか500人となってしまっていたと伝えられる。ここにおいて、従弟で朝倉氏の同名衆筆頭の大野郡司朝倉景鏡が、一乗谷を捨てて越前北部の大野郡にて形勢の建て直しを図るように進言する。大野郡は盆地であり守るに堅く、当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺を頼りに再起を期そうと促した(平泉寺は勇猛で知られる僧兵集団があり、近江出兵で丁野城の守備についていた)。しかしこの時、既に平泉寺の僧兵も所領安堵などを条件として既に信長と内通していた。

8月18日、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧、これを焼き払った。往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った街は灰燼に帰した。この時、朝倉氏になおも忠義を尽くそうとする者数百名が織田軍と戦ったと伝えられている。それより以前に手勢のみを率いて一乗谷を逃れ、景鏡に促され大野郡へと移動していた義景は8月20日、仮の宿所として景鏡に指定されていた六坊賢松寺を、周到に主を裏切った景鏡の手勢に囲まれた。近習らが奮戦・討ち死にする中で義景は自刃した。
-------------------------------------------------------------------------
越前の有力戦国大名朝倉氏をわずか8日間で壊滅させた織田信長の力は本当に強大であると感じました。その後、小谷落城の悲劇となるわけですが、意地と誇りを失わずに最後まで戦った浅井長政さまには六波羅一同敬意を表さずにはいられませんでした。合掌


最終更新日時 2011年12月11日 23時16分44秒
コメント(4) | コメントを書く

2011年10月26日

上田城の戦い他の巻 ~後編~  (10)

しばらくのご無沙汰でした。後編をアップいたしまする。
信州に来たのなら蕎麦を食さねば!!と言うことで昼食は上田城の前にある「上田市観光会館」のそば屋「千本桜」様で頂きました。
お昼時だっったので陸遜部隊と豊久部隊と別れて各員席につきました。陸遜グループでは「真田そば」なるとろろ芋がかかった蕎麦を食しました。(後に南方様は胃もたれを起こされました)ちらりと豊久グループの方を見てみると、「六紋銭そば」なる巨大なかき揚げがのった(胃もたれ確実)を食している強者のメンバーがいた昼食でした。

昼食後は観光会館の中にあるお土産屋に突撃し、各自がクリアファイルなどを購入いたしておりました。
一足先にお土産を買い終えた南方様とその他二名は城門付近にある「真田十勇士アイス」なるものを発見し、満腹ではあるが・・・・甘いものは別腹!!!と言うことで、舌鼓をうっておりました。(その日はかなり暑かった・・はず)

観光会館を出発した一同は、高松塚様のメインイベント関東で一番大きい「森将軍塚古墳」へと到着いたしました。
受付の美しいお姉さんに、「実際に古墳を見てから、博物館を見た方がいいですよ」と言われたため、一同はシャトルバスに乗り込みました。
kofun

メンバーはガイドの方と共に古墳へ接近、間近で見る古墳の大きさに感動しながら前方高円墳の円墳側に移動しました。ガイドの方から「この下に遺体があるんだよ」と言われた時には背筋が少し凍り付きそうでしたが、各自ガイドの方に質問したり、埴輪を見たり、景色を撮ったりなどをしていました。その中でも高松塚様が、古墳を移動の時、先頭を歩く(証拠ビデオあり)ガイドの方の隣で説明を聞くなど、熱心に古墳へ思いをはせておられました。

みなさんが古墳に登っている最中に南方は足軽大将と二人きりに・・いいムードで話しているときに、真ん中が親指ほどの太さの虻(アブ)がバスに進入しパニックに・・「能登守」に助けを求めようとしたがすでに山の彼方へ・・足軽大将だけでも逃げてくれればいいのにさすが看護師、傍を離れませんでした・立派(涙)

kofun

山に登った高松塚隊が帰還し、一同本物を見た興奮が冷めないまま、博物館へ・・
博物館でまず目に飛び込んできたものは、円墳部分の遺体が安置されている石室の再現レプリカでした(本物かと思うほどのリアリティー)中に入れないことに落胆しつつも盗賊が作った穴から中を覗くことが出来ました。そしてありました!!博物館が作成?したDVDが!!!内容的に笑える部分は全くと言ってほど無かった(笑)ですが何となく記憶に残るDVDでした。

続いてメンバーが向かったのは、川中島の合戦の際、上杉謙信が陣を張った妻女山です。
曲がりくねった山道を車でひたすら進み、たどり着いた先は展望台、木々の間から見える風景に感動を覚えながらも足早に次なる目的地、真田信幸公の領地松代にある真田宝物館に立ち寄りました。江戸期の真田家大名道具が展示されており、各々の興味関心に任せて観覧いたしました。途中に武士体験コーナーのような所があり、レプリカの太刀が置いてあったので、皆で手にとって気分を楽しんでおりました。しかし・・足軽大将が刀を握った時だけは一同「切られるのでは」という殺気を感じてしまいました。さすが巴杯3位です・・気合いが違っていました。

kensin

その後、合戦の舞台、川中島の古戦場へと向かいました。
古戦場に到着し、少し進むと目に飛び込んできたのは、信玄公と謙信公の一騎打ちの銅像でした。メンバーが銅像の写真を撮っていると、川中島の戦い保存会の方に声をかけられ、「どこから来たのか」とひたすら聞かれたそうです。続いて、公園内にある長野市立博物館に向かいました。しかし、到着した時間が、入場券販売時間を過ぎており、突撃は叶わなかったのですが、雰囲気だけは・・・と言うことで記念写真を撮り、お土産屋さんに向かいました。店内には、川中島グッズと食堂が併設された場所で、皆様川中島グッズを購入したり、なぜか六紋銭グッズを購入している方もいらっしゃいました。
kana
川中島古戦場を出発した一行は松代城北駐車場へと到着し、この場所で、六波羅の生ける伝説足軽大将様と(今回の出陣でも伝説を残され)お別れいたしました。
そして一行は、信州に別れを告げ高速(上信越道)へ・・・

真田家や古墳・・いろいろありの楽しい旅となりました。やっぱ歴史探索はやめられませんね。追伸:社会人になっても足軽大将は大将のままでした・笑



最終更新日時 2011年11月12日 10時51分47秒
コメント(10) | コメントを書く

2011年9月22日

六波羅の攻防 ~学祭ラーメンの戦い~  (4)

今回は、9月17日18日に行われた福短祭の模様をお伝えします。上田城の後編をお楽しみにされた方すいません。近日中に更新させていただきます。(多分・・・)
六波羅探題のメンバーは、福短祭で模擬店を出すことになり、ラーメンを出店しました。今回のメンバーは、社会福祉専攻2年2名(小松殿、鎌之助殿)、介護福祉専攻2年1名(豊久殿※総大将)、看護学科1年1名(陸遜卿)の総勢4名。(高松塚殿、北方殿は就職活動等で参陣できず、顧問(南方殿)は、見回りなどで・・・)

「麺処豊久」と言う名前で、博多ラーメンを初日100食、2日目100食の2日間で目標200食として頑張りました。(博多ラーメン250円、味付き玉子入り博多ラーメン350円、お茶セット(博多ラーメンとお茶)300円、お茶・味玉子セット(味付き玉子入り博多ラーメンとお茶)400円)
ramen
初日は、雨などの影響で出店にかなり時間がかかり、また準備中にお客さんが来るなどあたふた状態になりながらも頑張っておりました(当初、各自コスプレしながら出す予定だったが時間に間に合わずそのままの格好で・・・)。順調にお客さんが入りラーメンを売っていたのですが、麺のゆで汁の交換や豊久殿、陸遜卿がコスプレ大会に出場することがあり暫くの間お店を閉めていました(閉店中来ていたお客様すいませんでした)。そして、再開後もぼちぼちお客さんが入りましたが、最後の3食がなかなか売れず困っていたところに、小松殿のご家族様が最後の3食をお買い上げになられて無事に目標の100食を完売しました。その後軍議で、今日の反省として準備不足等があげられ、その改善点の話をしていました。

2日目は前日より2時間早い出店でしたが、無事にできました。この日は、全員コスプレしながら販売していました。しかしこの日は、前日の雨が嘘のようにお日様がしっかり顔を出していたので正直、暑くてきつかったです。出店すぐにはお客さんが来られなかったのですが、30分ぐらいたつと看護科の先生方が来て、ラーメンを注文されました。その後からもお客さんが来られて、猫の手や徳川家の手も借りたいほどでした。

また、この日は、発達障がいのある子ども達が1日お店体験としてやってきて、自分達の分のラーメンを作っていただきました。お昼にはWコロンさんが20分間ライブに来られました。漫才はまぁまぁでしたが(←ヒドッ!)、ねづっちの謎かけは本当にすごかったです。本当に台本なしで即興に作っているので天才だと思いました。我らの総大将こと豊久殿は、ラーメンの題として謎かけを作ってもらいたく、一時職場放棄をされました(陸遜がOKしたため)。しかし、最後まで粘っていたが、作ってもらえず・・・。ラーメン屋に来たお客さんの中には、前日買われたお客さんや学生におごっている先生の姿も見られました。だいたい4時半過ぎに目標の100食以上が売れ容器をスープが無くなったため閉店しました。

今回の戦いの目的は次回の城攻めの軍用金を集めるために行いました。戦力的にも少ない中、知略をもって兵を動かした陸遜卿と、協力を惜しまなかった陸一族に感状を何枚出しても足りません。次回、論功行賞が楽しみです。


最終更新日時 2011年9月28日 22時48分24秒
コメント(4) | コメントを書く

2011年8月31日

「上田城の戦い他の巻」 ~前編~  (6)

悲願だった信州上田城周辺に行ってきました。メンバーは、社会福祉専攻2年2名(小松殿、鎌之助殿)、介護福祉専攻2年(豊久公※総大将)、看護学科3年1名(高松塚殿)、〃1年1名(陸遜卿)、OB,OG2名(足軽大将殿、能登守殿)、顧問(南方)の総勢7名。(北方殿は編入学試験のため参陣できず)

今回は7:00に車2台で富山を出発、北陸道に乗り、途中南方隊(鎌之助殿、小松殿)は境P.Aで足軽大将への献上品を購入、そして糸魚川の蓮台寺P.Aで高松塚隊(豊久公、陸遜卿、能登守)と合流したのだった。その後、上越市に入ってから上信越道にレーンチェンジし、右手に雄大な妙高山系を見ながら・・の予定だったが曇って見えず、そのままひたすら気持ちよく南下し、上田菅平I.Cに着いたのは10:10頃でした。そこから上田城に向かったのですが、南方隊が道に迷ってしまい、「すごい城下町じゃ。迷ったわ。昌幸め、やりよるわい」と心の中でつぶやきながら、(高松塚隊はナビシステム搭載なので先に到着)10:30頃上田城に着きました。ここでこの春から看護師として病院勤務となったシーズン1リーダー足軽大将様と怒濤の再会を果たしました。ショートヘアになっておられてかわいくあられましたが、武力90の雰囲気は十分出てましたぞ。

ueda

うち揃って上田市立博物館に突入し、真田家存亡を賭けた犬伏密談や信幸公の文書などを観覧、おっと、忘れてはならない上田城の全体像を把握した上でいよいよ上田城へ入りました。城門の前でまずは記念撮影と思い、真田石(石垣)の前に陣取りましたところ、上方の櫓より「アゲポヨ~~~」のこどもの声が・・。一同の緊張が解けて和んだ瞬間でありました。なぜに緊張するかと言えば、やはりここは徳川軍を2度も破った激戦地でありますし、当時は屍の山が築かれた場所だったと思うと武者震いせずにはいられない心境だったからです。

siro

櫓は上れるようになっていて、千曲川などの眺望や城のスケールの大きさをメンバーそれぞれに感じたようです。城内には他に眞田神社なる所もあって、昌幸公、幸村公が祀られており、知勇の神として地元の信仰も熱いようでした。六波羅一同も粛々とお参りさせていただきましたぞ。

yukimura

この城で徳川の大軍を二度も退けた真田父子の活躍は、小勢でも地の利を得、民の心を掌握すれば困難を乗り越えることができることを人々に教えたのだと思います。真田幸村については兄の信幸の弟評が幸村君伝記に残っており、そこには次のように書かれていました。

「ものごとに接する態度が柔和で、忍耐強い。口数は少なく、腹を立てたりすることがなかった。いわば左衛門佐(幸村)は国郡を支配する本当の侍であり、それに対して我らは、造り髭をして目つきをとがらせ、肩を怒らせている道具持ちほどの差がある」


ゲームなどではかっこうよい台詞を述べていますが、ここからは寡黙で歴戦を戦い抜いた武士らしさを感じますね。
大坂夏の陣の直後、島津家の上方留守居と思われる人物が国元に送った書状にその幸村の奮戦ぶりが次のように書かれています。

「5月7日、幸村は徳川家康の本陣に三度にわたり攻め込み、本陣の兵を蹴散らしたので、家康の家来たちは三里も逃げてしまった。そして幸村も三度目に討ち死にした」
  
 「真田日本一の兵つわもの、いにしへ(古)よりの物語にもこれなき由」

この書状が幸村の奮戦ぶりを絶賛しているために現代でもTシャツなどにこのフレーズがよく書かれています。記述内容が戦況を外観していた生リポートだけによほど凄まじい戦い方をしたのでしょう。大河ドラマの署名嘆願活動をやってましたが、その理由にも納得できるかと。
江戸時代以降、徳川家に敵対したのに大名や武士や庶民にまで尊敬の念と賞賛を得た武将が2名おりまして、それが大坂夏の陣の真田幸村と関ヶ原の戦いで有名な大谷吉継です。どちらも信義に厚いことではやはり日本一かと思います。歴史は人生の勉強になりますね。 

            後編に続く





最終更新日時 2011年9月24日 11時38分20秒
コメント(6) | コメントを書く

2011年8月16日

六波羅探題南方の単紀行(2)~平城宮周辺と蒲生氏郷の旅~  (4)

 お盆です。みなさまいかがお過ごしでしょうか。
 今回もなんとなく旅に出てみました。気温35度の奈良へ・・
 朝8:00に出発しまして、奈良に着いたのは12:00頃、まずは先頃イベントが開催された平城宮跡へ行ってみました。出迎えてくれたのは朱雀門。これは壮麗な建物で、主に迎賓や参賀の儀式などに使われたとのこと。広大な土地が発掘調査のための空き地となっており、第1次大極殿なども復元されておりました。
hei
 訪れたのは「平城宮跡資料館」「東院庭園」などで、都建設のエピソードや調査の詳細、当時の人々の文化、食物、生活様式まで思いにふけるには十分な展示でした。「東院庭園」では解説ボランティアの方(京都人とのこと・笑)が、構造復元の際の不明点、すなわち、スカートのような服装と木製の靴でどうやって櫓の2階に上がったのかなどわからないまま復元に至っているなど話してくださり・・六波羅軍をうならせるとてもマニアックなお方でした。気温36度のせいか、聞いているうちに意識が遠のきそうになりましたが、こんな話も聞けるのが旅の醍醐味というものでしょう。

 続いて大般若経を印度から持ち帰ったお方で西遊記でも有名な三蔵法師の旅を描いた「国宝 玄奘三蔵絵展」が行われている「奈良国立博物館」へ行きました。過去、連合艦隊司令長官だった山本五十六元帥がふれあった鹿の出迎えを受けまして、元帥が残したややこしい手紙の中の「鹿がくうくういっておりましたので・・」の一節を思い出し、耳を傾けましたがまったくくうくう言ってくれませんでした。とにかく糞を踏んではいかんと思いながら慎重に博物館に入り、長い長い渋滞の中、三蔵展などを鑑賞いたしました。
 
三蔵法師の踏破した距離はなんと3万キロとのことで、人間がやる気になればこんなこともでいるのかと感動を覚えました。印度ではサンスクリット語やパーリ語も覚えないと知識は得られないはずですが、唐に帰還してさらに我が国にも教典が伝わっているのをみると、彼の偉業がとてつもないスケールのものとして感じられますね
 この博物館の地下にすばらしいレストランとミュージアムショップがありまして、15:00ではありましたが遅い昼食を取りました。怪しい冷麺でしたがそこそこうまかったです。ショップにはグッズがいろいろ揃っており、六波羅の者どもがいたら買いまくるやろうなあと思いながら、携帯に貼附用の正倉院模様ステッカーをget!、シーズン3用お土産に阿修羅クリヤファイルを購入しましたので楽しみにしていてください(奇抜すぎたか・苦笑)。

 宿泊は奈良駅前の奈良コンフォートホテルというビジネスホテルで、ユニバーサルルームが設置されていました。結構快適でしたが唯一駐車場が遠かった。これはきついぞ・・汗 夜は予算的にもあれで・・〇ーソンにお世話になりました。

 翌日はバイキングの朝食を元を取る勢いで食し、前々から行きたいと思っていた、あの蒲生氏郷公の故郷、滋賀県の日野町へ向かいました。ラジオをつけますと折しも甲子園で本県の新湊高校が東洋大姫路高校と死闘を繰り広げており、応援しながら国道306号を北上いたしました。途中、神君伊賀越えの看板があって、「ここが家康公がお逃げになったルートか」などとと独り言を連発、さらに進むと滋賀県信楽町の紫香楽宮跡なる聖武天皇の離宮跡がありました。百済寺という寺の跡地とのことでなんとなく気温を見ると29度。そうです。奈良より涼しいのです。聖武天皇は5年間に4度遷都(行幸か?)したと伝わっていますが、暑かっただけかもしれませんね。

 さらに進むと水口城が見えてきました。ここは徳川家光が上洛の際に泊まったことで有名で、戦国マニアなら豊臣五奉行の一人、長束正家の自刃した城と言えば解るかもしれません。資料館は残念ながらお休みでしたが、なかなかの石垣でしたぞ。そしていよいよ日野城下へ入りますとそこいら中に氏郷饅頭の看板が・・日野から松坂、そして会津へ転封となった蒲生家なのにさすが出身地といったところでしょうか。
 
 現在、日野城跡はダムの底にありまして石垣が一部残るのみでしたが、あの本能寺の変の際、安土城留守居役の蒲生賢秀、氏郷父子が信長の側室生駒殿らを連れて同城に庇護したのは有名です。氏郷公は信長公の娘婿ですのでとくに信用されていたのでしょう。『常山紀談』には、陸奥92万石を与えられたとき、氏郷は「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ」と激しく嘆いたと言われています。さすが大物ですね。

gamou
 
 さて、利休の七哲に数えられるほどの茶道の腕前や教養をもち、従三位参議にまで登り詰めた氏郷公は、残念ながら40歳で生涯を終えました。しかしながら公の経済感覚や人材登用、商人育成の取り組み(日野商人)は現在でも十分に通用するものと私は思います。彼の人生を研究するだけもけっこう勉強になりますね。まさに知勇兼備の驍将かと!







最終更新日時 2011年8月21日 23時9分20秒
コメント(4) | コメントを書く

一覧

Powered By 楽天ブログは国内最大級の無料ブログサービスです。楽天・Infoseekと連動した豊富なコンテンツや簡単アフィリエイト機能、フォトアルバムも使えます。デザインも豊富・簡単カスタマイズが可能!

Copyright (c) 1997-2012 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.