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2008.10.02
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カテゴリ:安土桃山時代
本能寺の変の後、山崎の合戦で明智光秀を倒した豊臣秀吉と織田家の家臣柴田勝家などの重臣は、信長の後継ぎを決める清州会議を開きました。

信長の三男・織田信孝を推す柴田勝家と、信長の長男織田信忠の嫡男三法師を推す秀吉が対立しますが、代々長男が跡を継ぐという慣例が当時は主流を占めていたために、信忠も本能寺の変で、二条城で明智勢に攻められ自害しているいじょう、その信忠の嫡男三法師が継ぐのが筋であると主張した秀吉の意見が通り、秀吉が三法師の後見人として権力を持ち、後に賤ヶ岳の戦で柴田勝家を破った秀吉が天下統一に向けて進んでいくことになります。

会議時はまだ3歳であった三法師は当然政治などわかるはずもなく、後に天下は秀吉のものとなるわけですが、後に織田秀信と名乗った三法師は秀吉の家臣として、小田原合戦朝鮮の役にも出兵します。

関ヶ原の合戦では石田三成側の西軍につきますが、岐阜城を落とされ降伏し高野山に送られます。しかしのちに高野山も追放されその後まもなく死去したとされています。

清州会議時はわずか3歳であったので、なにもわかりませんでしたが、後に自分の祖父である信長の家臣であった秀吉が天下を取っているのを見てどう思ったのでしょうか。
もし本能寺の変がなく信長が天下をとっていたなら、いずれは孫という立場から信忠のあと織田家を継ぐことになり天下も自分のものになっていたのに、という複雑な思いはあったのでしょうか。

資料やその後の行動を見てみると、秀吉に対してそういう意識はあまりなかったように感じますね。
秀吉や家康の力を認めていたのかもしれません。あるいは自分にはそのような器量はないと思っていたのでしょうか。
秀信の武将としての評価はいろいろあるみたいですが、それでも名門織田家の嫡男としての誇りは失っていなかったように思われます。






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最終更新日  2008.10.02 21:46:31


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