東京大空襲の事
1945年3月10日未明、10万人の死者が出た東京大空襲。私の亡き母は、この日東京都板橋区にいた。日テレ、TBSと東京大空襲を題材にした特別のドラマをやるというので、この機に母から聞いた戦争体験を少しだが書き残したいと思う。当時私の母は9歳。4女1男の次女だが、2歳年上の叔母(姉)は学童疎開の為東京を離れていた。祖父は結核の為、戦時中に亡くなっている。祖母は気丈なタイプではなく、9歳にして母は祖母を支える立場になっていたようだ。東京に限らないと思うが大変な食料難で、配給などではクジ引きもあったそうだが、クジ運が強い母はよく当てたそうだ。東京大空襲のその時、自宅の庭に掘った防空壕に逃げ込んだが、隣家のお婆さんが大量の焼夷弾が降り注ぐ恐怖から気が触れてしまい、「たまや~!」と庭で拍手喝采をしていたのを目撃している。(その事以外の様子は残念ながら聞いていない)母の家は焼けなかった。なぜなら板橋区志村にある凸版印刷の工場に隣接する位置にあったからだ。アメリカ軍は後の軍事利用の為、こういった施設を調べて攻撃しなかった。通り一本隔ててたら焼けていたらしい。同級生の家も焼けたと。今にして思えば、同級生で亡くなった方も居るのかもしれない。昭和天皇の人間宣言について子供の頃質問した事がある。「天皇陛下が本当に神様だと思ってたの?」「そうだよ。そういう風に教えられてたんだよ。」母は昭和天皇が神でなかった事実よりも、学校の先生がそれまで「鬼畜米英」と罵っていたのにも関わらず、戦後はアメリカ様々に180度態度を豹変させた事に腹をたてていたようだ。かと言って母はアメリカが嫌いなわけでは全くない。但し東京大空襲の日時について、卒業式出席の為に疎開先から久しぶりに東京の家族の元に戻ってきていた小学6年生が被害にあっているのが、非常に悔しそうであった。終戦直後それまでの「7歳にして、男女席を同じうせず」な教育ではなくなり、母は男子を含めた友達グループで上野に出かけ事がある。そこで戦争で親を失った浮浪児(=戦争孤児)に絡まれ、一緒に居た男子がひっぱたかれたそうだ。母は早く亡くなってしまったので、私がこれらの話を聞いた当時はあまり興味なかった。もっと色々聞いておけば良かったと後悔している。