テーマ:40代の視点と日常(771)
カテゴリ:徒然草
私には「 姉 」と呼べるひとがいる。 私の父を 「 おにいさん 」と呼び、母を 「 おねえさん 」と呼ぶこのひとは、 本当は父の従妹なのだけれど、私と12歳しか違わない。 何より、父が母と結婚するまでの間、 乳児だった私は、この父の従妹の家で育てて貰っていた。 当時6年生だった彼女は、乳児の私に慣れぬ手つきでミルクをくれたり、 オムツを替えたりもしてくれたのではなかっただろうか。 顔も激似のとても近しい、優しい 姉代わりのひとである。 我儘言って日本に独り残った高2高3時代 の私を引き受けてくれて、一緒に暮らし、 その間、自分は会社に勤務しながらも、 当たり前のように二人分の炊事洗濯を一手に引き受け、私を甘やかしてくれた。 本当に本当にお世話になったひと。 誰よりも倖せになって、と願っていたひと。 東国の旧家に嫁ぎ、身を粉にしてイエに仕え、尽くしたのに、 体面第一、血縁第一、あくまで嫁は余所者、お女中代わり。 これでもか、これでもか、と繰り出される姑、小姑の攻勢に負け、 ぼろぼろになって帰って来て。 リスタートした職場でめぐり逢い、苦しい恋の末に結ばれた相手とは、 もう、結婚はこりごりと、事実婚の形を取り。 けれど、共に暮してみれば、やはり郡部の大きなイエの本家の長男の故か、 相手の余りの唯我独尊性、幼児性、男尊女卑思考が露呈する。 男性を観る目のなさを嘆く暇もなく、 またまたイエの姑・小姑に絡め取られて、うまくこき使われ。 そのひとに仕え、四季折々に姑、小姑に仕え。 仕事も辞めず、そのなかで、自分の伯母、父、母を看取り。 もう限界、と、姉が別れを切り出すと、この超絶甘えんぼの相手は自殺を図り、 優しい姉は、突き放せなくなり。 そしてこの彼は12年前に体調を崩したことから鬱になり、 3年前に肺気腫となり、酸素ボンベが手放せなくなるが、 決まった投薬と酸素吸入以外にできる治療はないので、 入院もできず、月1で往診を受けるだけの在宅酸素療法のみ。 認知症も出始め、ほぼ寝たきりとなり、在宅で全介護になって2年。 姑も小姑も、この3年、1度も訪ねてくることもない。 姉はたった独りで、1歩も外に出られず、彼を介護する毎日。 姉は多彩なひとで、なかでも書では 全国でもトップレベルを走ることのできるひとなのに。 それでも姉は、彼が3日間一睡もせず、2日間丸々眠るサイクルのため、 5日間のうち2日間も自分が好きに使える時間ができて、 とても助かっているのだ、と泣きながら笑う。 月1で往診される先生に、 床ずれが1つもできておらず、こんなに清潔で、快適な状態に 保たれている患者さんを診たことがない、と毎回感嘆して褒められること、 が、今の姉の唯一の頑張る支えなのだ、と笑う。 もう意地なのだ、と。 彼を見送るときに、ほんの僅かのこころの染みも持ちたくないのだ、と。 そんなこんなで、このふたりはもうすぐ30年を迎えるのだったが。 水曜朝。 その姉の彼が意識不明になって、救急車で運ばれた、と母から連絡が入る。 もう意識がないので、ここ数日が勝負だろうから 貴女も心積もりをしておくように、と。 咄嗟に 良かったね!!! 長かったもんね? おねえさん、やっと、やっと楽になれるのね? そんな声が出てしまいそうになって、口と目を固く固く瞑る。 喪われていくいのちに対し、 そんな想いを抱かされる生とは――― そんな想いを抱く、自分、とは――― 言いようがない寒々しい想いを抱え込む。 これから姉の元へすぐ駆けつける と言ってくれる母。 姉を想い、常に彼の不甲斐なさに憤っていた母だったけれど。 私の「 姉 」の 最後の頑張りどきに、 私の「 母 」が ただ黙って寄り添ってくれることに、熱い厚い感謝を。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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