私:国務省のグルーとドゥマンの二人は、日本の早期降伏のカギはアメリカが天皇制存続と経済面での独立を保証することにあると考えていた。
1945年5月末、東京が空襲で壊滅状況になりつつあった頃、グルーは日本に降伏を勧告する適切な時期と考えた。
そこで、ドゥマンに日本に対する降伏勧告の簡潔な大統領声明書の草案を作るように命じ、これをトルーマンに提出した。
後のポッダム宣言のもとになる案だね。
しかし、トルーマンは側近とトップレベルの話し合いの結果、この進言は退けられた。
A氏:でもそれは5月の話だろう。
ポッダム宣言は7月だよ。
随分、間が空いたね。
私:遅らせた原因に並行して進んでいた原爆開発がからんでいるね。
7月に第1回のテストがあるので、テストが成功すれば強力な外交の脅迫カードに使える。
陸軍長官スティムソンは、それによって日本に降伏勧告をすれば、米軍の本土上陸やソ連の参戦を待たずに、日本を降伏させることができると進言した。
トルーマンはそれで降伏要請の大統領声明の発表を7月まで遅らせた。
A氏:やれやれだね。
私:しかし、グルーは諦めなかった。
再度、大統領と話した。
その間、スティムソンの考えも変化して、「現皇室のもとでの立憲君主制」を許すというグルーとドゥマンが満足する内容の案が作成された。
ところが、7月3日に国務長官がバーンズになった。
バーンズは国務省官僚よりも側近を信頼しており、ルーズベルトの後を継いで戦後もソ連と密接な関係を保ちたいと考えていた。
A氏:天皇制維持の問題はどうなったの?
私:バーンズの側近は天皇制存続には反対意見だった。
背後に世論もあった。
決め手になったのは元国務長官のハルの天皇制存続反対の意見だった。
A氏:また、ハルの登場か。
私:7月21日、原爆実験成功のニュースを受け、原爆投下が降伏要求の検討条件に加わった。
だから、トルーマンは7月26日のポッダム宣言では天皇制に関する言及は無理して入れるに必要がないと判断した。
A氏:天皇制はまな板の鯉だね。
風前の灯だね。
私:日本側が国体護持の保証がポッダム宣言に明記されていない、ということで1週間くらいもめているうちに、原子爆弾が落とされ、ソ連が参戦する。
これに対して、日本側は国体護持を認めるのであれば、ポッダム宣言を受諾すると8月10日に回答してきた。
A氏:天皇制反対のバーンズ長官はこれを拒否するだろう。
私:ところが、ソ連参戦はバーンズ国務長官の態度を変えさせた。
ソ連の中国への進出を食い止めるには、戦争を早期に終結させ、天皇制護持の日本の主張を認めることが必要だと判断する。
A氏:グルーやドゥマンが心配した通りにソ連が動いたではないかね。
原爆よりもソ連参戦が終戦の決定打だね。
私:バーンズ国務長官は回答の検討に入ったが、最初、グルー、ドォマンなどの日本専門家を議論に加えなかった。
プライドをもっているグルーは、自分の部屋とバーンズの部屋の間の扉を開け「国務長官、日本に対する通告を作成しているのなら、私か誰かほかの者が役に立つと思うのだが」と言った。
バーンズは、しぶしぶグルーやドゥマンが議論に参加することを認めた。
それに基づいたアメリカの回答で日本側は8月14日の2回目の御前会議での聖断で降伏する。
A氏:はからずも、ソ連の進攻が天皇制を救ったのかね。
事実、もっともたもたしていたら、8月23日にはソ連軍が北海道に上陸しただろうから、戦後の日本占領はアメリカとソ連の分割占領になっていただろうね。
そうしたら、天皇制はなかったかもね。
タッチの差だね。
私:65歳のグルーは持病の胆石もあったので8月15日を機に国務省をやめる。
後任にはアチソンが国務次官となる。
アチソン嫌いのドォマンも国務省をやめる。
皮肉なことに、日本占領開始とともに二人が去ったので、国務省の知日派は弱体化し、かえって、中国派が復活することになる。
56歳のドゥマンはロビー活動に移ることになる。
グルーも3年後、「ジャパン・ロビー」の共同名誉議長になり、ドォマンと一緒になる。
これがマッカーサーの厳しい占領政策を覆す「逆コース」の原点になるね。
明日から、本題のスガハラ本人の外伝に移ろう。
日系二世のスガハラも逆コース活動に参加するね。