その5.ジョン.フォスター.ダレス
私:ダレスは1951年9月8日の対日講和条約と日米安全保障条約を調印するまで、各国の合意に至る交渉過程の中心人物だね。
1888年生まれでプリンストン大学を出て法律事務所に就職。
その後、政府関係の法律顧問などをする。
1948年に民主党のトルーマンが大統領になり、国務長官はアチソンになったが、彼は共和党との対立があった。
そこで、トルーマンはダレスのような著名な共和党員を国務省に迎えることは超党派外交の継続を国民に示すことだと考えた。
アチソンはダレスを嫌っていたが、大統領の承認を得て、1950年3月にダレスを最高顧問に任命し、5月18日、アチソンは対日講和条約締結の責任をダレスに委ねた。
A氏:サンフランシスコの講和会議が1951年だから約1年ちょっとの大仕事だね。
私:まず、当時、中国で共産党軍が優勢であるという状況から日本の中立化に反対する国防総省との問題があった。
国防総省は日本の基地をそのまま維持し、日本の講和条約締結は急がないでもよいという考えであったようだね。
国務省のほうは、吉田内閣も日本国民もアメリカ軍駐留に代表される主権侵害を望んでいないことを承知していた。
日本の政治家はマッカーサーの専制政治にはウンザリしてきていた。
A氏:吉田首相は日本国内に何らかの形でアメリカ軍が残ることは、早期の主権回復のために避けられないし、そのためにソ連や共産中国が講和条約へ不参加となり、「全面講和」ができなくても止むを得ないとしていたね。
私:ダレスは6月に訪日し、マッカーサーと会う。
マッカーサーは講和がこれ以上遅れることは反対だとし、アメリカ軍の大量の基地を置くことは反米に利用されるので反対だと言った。
また、日本の再軍備計画にも反対した。
しかし、同時に来たジョンソン使節団との妥協で、マッカーサーは自らの再軍備論の立場をやわらげる方法として憲法の戦争放棄条項は日本の自衛権を否定するものでないと提案をした。
一方、ダレスは、吉田首相と会ったが、再軍備には吉田はあいまいであったという。
吉田首相は言う。
「日本人は独立を望んでおり、ほっておいてほしいし、占領も好きではない。
特に労働者に対するドッジ・ラインの影響は好ましくない」
ダレスは失望し、次のようにまとめているという。
「日本人は再軍備すべきでないが、長期にわたってアメリカに守り続けてもらいたいと考えている」。
A氏:今と基本的にあまり変わらないね。
しかし、このダレスの訪日直後に朝鮮戦争が始まるね。
私:朝鮮戦争が流れを大きく変えた。
再軍備反対のマッカーサーがすぐに警察予備隊を編成する。
ダレスと国防総省との意見が一致し、また、日本側の「単独講和」に対する抵抗は抑えられた。
こうして、ダレスは次に極東委員会構成国と非公式の交渉に入った。
当然、多くの国の反対が多かったが、ソ連と共産中国を除けばなんとか基本的なことは了解が得られると確信するようなる。
A氏:しかし、朝鮮戦争は一時、連合軍が負けそうになるね。
私:そうなると、国防総省は日本占領を延長して講和を急ぐべきでないと主張が変わる。
しかし、マッカーサー交代後、停戦となり国防総省の意見も落ち着く。
トルーマンがダレスを大使級の扱いに昇格したことにより、各国との調整は進む。
日本との交渉は2月に吉田首相と行う。
そして日米安全保障条約と行政協定の2つの日米の単独協定を結ぶことを提案する。
各国の調整で問題になったのは意外にイギリスであった。
A氏:一番、友好国のイギリスが何故?
私:イギリスは労働党内閣で、中国共産党の北京政府を正統な中国と認め、講和条約への参加を提案していた。
そこでダレスは共産党政府と国民党政府の両者をサンフランシスコ会議には出席しないという妥協案で調整した。
国民党政府が出席しないことは、アメリカのチャイナロビーの影響を受けている共和党議員の反対があった。
そこで、講和条約が終わったら、日本と国民党政府の2国間講和条約を締結することで了解を得た。
最初、国民党政府を選ぶか、共産党政府を選ぶか、アメリカとイギリスの間に挟まれた吉田首相の態度はあいまいだったが、国民党政府と2国間の講和条約を締結しないとサンフランシスコ条約のアメリカ議会の承認が遅れ、日本の独立は遅れるおそれがあると吉田首相は考えた。
A氏:アメリカ議会での対日講和条約は1952年3月20日に批准されるね。
私:日本は1952年4月28日の対日講和条約発効のわずか7時間前に国民党政府との2国間講和条約に調印した。
これが日華平和条約だ。
両国とも簡単に批准され1952年8月5日に発効した。
対日講和・安保両条約の発効に続いて日華平和条約が批准された。
これは、ダレスにとってアメリカが支配する戦後世界秩序の中に日本を再統合するという自らの計画が完成したこと意味するね。
こうして戦後日本の針路は大きく決まったね。
ダレスは1953年のアイゼンハワー政権で国務長官になるが、1959年、ガンで国務長官を辞し、同年死去した。
71才。