昭和天皇・マッカーサー会見
私:日中戦争の頃から終戦に至るまでの天皇の主張を記録したものとして、有名な「昭和天皇独白録」があるね。
これは、1946年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、寺崎集成御用係など5人の側近が4日間で5回にわたり、天皇から直接聞き取りをしたものをまとめたものだね。
これによると、太平洋戦争の開戦について「東条内閣の開戦の決定を天皇が裁可したのは、立憲政治の下では、やむを得ぬことで、もし、好むところは裁可し、好まないところは裁可しないとなると専制君主となってしまう」というようなことがあるという。
しかし、「木下幸一日記」によれば、日米開戦決定の御前会議前日の1941年11月30日、海軍の厭戦気分を聞いた天皇は「予定通り(開戦を)進めるように東条首相に伝えよ」との下命をしている。
木戸はそれにより、東条首相に電話連絡する。
A氏:「忠臣」東条首相はその通りにするね。
翌12月1日の御前会議の「表舞台」では天皇は無言だった。
「表舞台」では立憲君主だが、「裏舞台」では専制君主的な動きをしていることになるね。
私:天皇は「独白録」では、例外的に「専制的」に指示したのは、二・二六事件の反乱軍対応と、終戦の「聖断」の2つだけだというが、著者は、「独白録」をよく読むとそれ以外の例があることを指摘しているね。
「独白録」には、天皇の軍隊への統帥権のことが抜けているという。
統帥権により軍事問題でも指示がある例をあげているね。
著者は、「能動的君主」と「受動的君主」を天皇は使い分けている、としているね。
A氏:ところで終戦の天皇の御聖断についてだが、君のブログで劇作家の井上ひさし氏が、やはり「日記」を発掘して、次のように、「ホワイトハウスから徒歩5分」の本で興味あることを書いているね。
以下に、再録する。
「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読でわかったことで、大正天皇は早くなくなり、貞明皇后は皇太后となるが、そのボーイフレンドが長谷川清という海軍大将で昭和天皇の特使だ。
長谷川は天皇の命を受け、本土決戦がどうなるか探るが、その結果を最初に貞明皇太后に伝える。
貞明皇太后はこの話を聞いて、宮中で、このまま戦争を継続すると皇室がなくなり、国民に否定されると息子の昭和天皇を一喝したという。
これが終戦の年の6月で昭和天皇は3日間寝込んで考えて、和平に本気に乗り出す。
私:実は、終戦の御聖断に至る経過をこの本で詳しく書いているが、比べてみるとよく背景が分かるね。
07年に発掘された「小倉庫次侍従日記」によると、1945年6月22日に「最高戦争指導者会議」が、天皇の招集で開かれた。
この会議で、天皇は「戦争終結」方針を打ち出した。
ここでも「能動的君主」が登場するね。
A氏:考えがガラリと変ったのだね。
何があったのかね?
私:2週間ほど前の6月6日の御前会議では、あくまで「徹底抗戦」で決まっていたのだから、これがガラリと変わる。
この2週間の間に何かあったんだね。
その謎を上記の井上ひさし氏が「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読が解いている。
「小倉日記」にも、6日の御前会議から5日目の6月14日に急に体調を崩して病床に伏したとあるという。
これが、貞明皇后が「息子の昭和天皇を一喝した」時期で、「天皇が3日寝込んだ」ときだね。
「おっかさんの一喝」の影響があったんだね。
そして、6月22日に天皇主催で「最高戦争指導者会議」が開催され、「戦争終結」方針が打ち出されたことになる。
A氏:天皇と言っても普通の人の子だね。
立場上、悩み、試行錯誤することはあるね。
特に万世一系の天皇制と、三種の神器を守るためにーーーー。
「能動的君主」になったり、「受動的君主」になったりする。
それはそれとして、歴史の事実は明確にすべきだがね。
私:そういう意味で、知的興味をひいた文庫本だね。
ただ、もう、ちょっと、内容を時系列で、きちんとまとめて欲しかったね。
そうすると、読むほうも楽だったがね。
まぁ、俺なりにエキスはまとめたつもりだがね。