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りゅうちゃんミストラル

りゅうちゃんミストラル

天国はどこ?キリスト教を疑う

2005-11-09 14:52:072005-11-09 14:51:57 ネコ宙返り 天国はどこ?キリスト教を疑う ネコ宙返り 2005-11-09 14:52:072005-11-09 14:51:57
このページは日記を再編集したものです
(2004年6月16日の日記から)
先日ある人の日記で「天国」について書かれたものがあった。 
ドラマなどである「きっとお父さんが天国で・・・」
という台詞について、「本当なのか?」と疑問を投げかけていた。
殺伐とした世の中にあって、この日記はいい点に目をつけていた。
私はこの疑問に興味があって逆の立場からこうコメントした。

私は(死者が)天国にいると信じます。というか天国とは「死んだ者が行くところ」ではなく、
「死者を送った者が信じる場所」ではないかと考えるからです。
送った者が信じるなら死者は天国にいます。
問題は信じているか否かなのです。
嘘でもなんでもいい。信じたい者がいるならそれでいいではありませんか?
(カッコ内は後から足したものです) 

この考えに賛同してくれる人もいたが、全く違う考えの人もいた。
これは仕方のないことだ。誰も天国を知らないのだから。
だが、今でもこの考えは何も変わっていない。

NHKで放送されていた人気海外ドラマに「アリーマイラブ」がある。
シカゴにある弁護士事務所を舞台にしたものだ。
この中で「私はサンタクロースだ」(実は彼の娘は弁護士だ)という人がいて、訴訟になる。
裁判所でこの人は「信じるなら毎日がクリスマスだ」と言う。
実はこの台詞はある有名な詩の一部だ。
ドラマでしか考えられないようなくだらない訴訟と言ってしまえば簡単なことだが、
私はこの「信じるなら」ということがとても大切に思える。

信じるならそこに天国はある。当然目には見えない。
信じる人の中にしか存在しない。
それがたった一人でも、その一人のために天国は存在する。

息子を亡くした人がこう言った。
「戻ってこないところを見ると、きっといいところなんでしょう」
ものは考えようである。
こんな言葉は一流の哲学者が考えてもなかなか言えまい。
また、天国について考えるなら、「いつでも会える」(菊田まりこ)を推薦する。

「いつでも会える」(童話の広場)   いつでも会える(とっておきの絵本)

「いつでも会える」 菊田 まりこ(cottonsnow の気まぐれ日記)

これは絵本ではあるが、哲学的な内容をうまくまとめている。
涙もろい人は号泣必至である。


私は昨日の日記で「疑うこと」について書いた。
私は今もキリスト教を信じてはいない。
キリスト教は地球が宇宙の中心でないと主張した天文学者のブルーノ(イタリア)を火炙りの刑にした。
理由は簡単。地球が宇宙の中心でないとキリスト教にとっては都合が悪いからだ。
だから「異端者」を殺す。命は大切ではないということだ。
そこには「言論の自由」はなく、キリスト教の大原則である「許すこと」はなかった。
進化論の提唱者であるダーウィンに対しても弾圧を加えた。
そこにも「許すこと」は実践されなかった。
ダーウィンの進化論が何でも正しいとは言わない。
このことについてはまた別に語ることがあるかもしれないが、
少なくとも彼の持論は科学にとっては「叩き台」にはなった。
「言論の自由」はキリスト教の存在とは別に存在しなければならない。
信じられないのはキリスト教信者にこれらの事を聞くと、
歴史的な事実にもかかわらず、こうした弾圧をほとんど知らない。
「良い面」ばかりではなく「暗い面」も見て欲しいものだ。
事実は事実なのだから。

キリスト教は確かに人の心に安定をもたらしただろう。その存在価値はある。
しかし考えて欲しい。
あのイラク戦争をしたアメリカはキリスト教の国ではないか?
なのにイラク人に対する虐待事件まで起こしている。これはどうしたことか?
イスラム教徒は「異端者」だから何をしてもいいのだろうか?
CBSの報道によれば、キリスト教会では性的虐待が絶えないそうだ。
「このままでは裁判による巨額賠償金で教会の存続がが危うくなるのではないか」
とまで言われている。

カトリック教会の性的虐待事件(Wikipedia)

これでは「ゲルマニウムの夜」(花村萬月)とその続編「王国記」の世界そのままではないか。
こうした事件に対して、どうしてキリスト教信者は「自浄努力」をしようとはしないのだろうか?
まさかキリスト教を宣伝する時だけ「聖書は世界で一番売れている」ということを言い、
「アメリカで起きていることは日本には関係ない」と言うつもりではあるまい。



National Geographic 日本版の2004年11月号に、気になる記事が載っていた。
その記事によると、2001年にアメリカで行われた調査では、
18歳以上の人1000人に聞いたところ回答者の45%が、
「この約一万年間のある時期に、
神がほぼ現在のような人間を創った」と回答した。

(「進化の証明。ダーウィンは間違っていたか?」から)
いくらアメリカが「キリスト教の国」だとしても、これは「危険思想」でしかない。

こうした背景にはキリスト教的世界観とバトラー法がある。

自然科学と階級的立場    はてな  

生物の進化:グールドの死を悼む

「宗教は宗教、科学的事実は事実」という判断はできないものだろうか?
もう21世紀だというのに。
日本でも2004年の調査で、「小学生の4割は天動説を信じている」と報道されたが、
こうした「科学的無知」に対して危険なものを感じるのは私だけだろうか?
日米の調査結果の違いは、「宗教的な考えからの無知」であることと、
「ただ単に知らない」ということになるが、どちらも「お粗末」であることに変わりはない。


5月3日の読売新聞に、新ローマ法王ベネディクト16世の就任が決まったことを受けて、
プロテスタントが主流のアメリカで、カトリック信者はどう思っているのかを、
ジョングリーン(アクロン大教授)にインタビューした記事が載っていた。

「カトリック信者はここ50年で米社会にほぼ同化した。
プロテスタントとの対立はもうほとんどない」

「深刻なのは聖職者の不足だ。神父の結婚や、
女性の聖職者を認めるべきという声は信者の間に広まっている。
それしか選択肢がないからだ。
(米国のカトリック教会を揺るがした)
児童への性的虐待も神父の結婚が認められていたら、
これほど広がらなかったはずだと考える信者は多い」

---ベネディクト16世は前法王と同様に保守派だ。

「リベラル派が新法王に求めるのは、米国では(社会問題に柔軟な対応ができる)
リベラルな司教を指名してほしいということだ」

(一部改変)


私は今も「キリスト教は危険な宗教」という認識を変えてはいない。
キリスト教に限らず、宗教は一歩間違えると大変なことになる。
人の命など簡単に奪ってしまう。今までも何回そうしたことがあったか。
ただ、信じる自由はある。「信じるな」と言うつもりもない。
「少なくとも私はキリスト教を信じない」というだけの話だ。

先日、村上宣道さんの話を直接聞く機会があった。
この人は有名な牧師さんだそうだ。 
なるほどこの人なら信用できそうだ。そう感じさせる言葉の力強さがある。
しかし彼が言った「すべての問題はキリスト教に答えがある」というのは傲慢ではないか?
年間3万人以上の自殺はともかく、年金問題までキリスト教で解決できるというのは私には信じられない。
キリスト教信者は本当のこうしたことを信じているのだろうか?
だとしたら私の目には「おめでたい人」にしか見えない。
こうした点を村上さんに質問したいが忙しい方らしいので、それは無理だろう。残念だ。

この方にはメールを出したので、必要があれば返信が来るだろう。

信じることは大切だ。しかし盲目的に信じているとしたら、そこには危険な香りがする。
信じるのも時と場面によるのか?

宗教を信じるのも疑うのも個人の自由だ。
だが、無知から来る「差別」や「虐待」には注意が必要だ。



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