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りゅうちゃんミストラル

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2005.05.20
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カテゴリ:スポーツ
元日本代表の前園が引退を決めた。
かつては鋭いドリブルが持ち味のいい選手だった。

31歳の決断…前園が現役引退(日刊スポーツ)

私にとって思い出深いのは、アトランタオリンピック予選だ。
その時彼は英雄だった。光っていた。

私はソウルオリンピック最終予選、雨の国立で中国戦の負け(注1)。
そしてバルセロナオリンピック最終予選での負け(注2)を現地マレーシアで観戦した。
それだけにこの大会での思い入れは深かった。

一次予選灼熱のタイ、スパンブリーで日本は戦った。
今考えても、あの暑さなのに日中試合を行うのは自殺行為だった。
若き日本代表は「タイの五輪代表は強い」という戦前の予想を覆す戦いぶり。
タイオリンピック代表に5-0と快勝した。
この試合小倉が緒戦で負傷したものの、日本は強かった。
(小倉はケガが原因で緊急帰国したが、ドンムアン空港で私は小倉と会った。
多分同じ便だったのだと思う)
この時オリンピック代表のエースはまだ中田ではなく前園だった。

シャーアラム(マレーシア)での最終予選でも、彼は活躍した。
スパンブリーとは違って試合は夜だったがそれでもマレーシアは暑かった。
スタジアムはクアラルンプールの中心から遠かった。

巨大で美しいシャーアラムスタジアムで流れた「FIFAのテーマ」はよく響いた。
(川口もこの曲がお気に入りだったとその後インタビューで語っていた)

日本はここで悲願のオリンピック出場を勝ち得た。
実に28年ぶりの本大会行き切符だった。
準決勝(サウジアラビア戦)では息を止めている場面が多かった。
この最終予選でMVPになったアルドサリがサウジにはいた。
(日本の田中誠はこの大会で最優秀ディフェンダーに選ばれた)
そうでなくとも緊張する試合になることは明白だった。

スポーツの三昧境   Atlanta Olympic

前園はこの試合でも2得点!
中心選手としてキレまくっていた。


思い出深いのはこの試合の後半、前園はフラッグに向かった。
コーナーキックのためだ。そして助走で彼はどうしたわけか転んだ。
後で記者に語ったところによると、「わざと転んだ」らしい。
真偽は定かではないが、日本サッカーにとってその数秒は確実に必要だった。
今と違い、当時はオリンピックに出ることすら困難だった。

もちろんアトランタと言えば「マイアミの奇跡」が有名だが、
批判を恐れずに言えば前園にとってアトランタオリンピック本大会は、
「すでに輝きを失うことが見えた」大会だった。
この大会後、彼はサッカー選手としての評価を落とす。

私が最後に「日本代表としての前園」を見たのはバンコクだったと思う。
あれは97年のキングズカップだったろうか。
彼は練習でもケガがあったのか他の選手とは違うメニューだった。
代表での選手起用法にも前園は不満だったと報じられた。
記者の一人はそんな彼を「身勝手」と評した。
当時の代表監督だった加茂がフリューゲルス時代から前園を知っていることもあって、
「甘えている」ということが言いたかったのだろう。

この時のタイ代表監督と国立競技場に隣接するMBK(マーブンクロンセンター)で偶然会った。
私は彼に「どうして日本はカズと前園を使わないんだ?」と訊かれてしまった。
そのくらい、前園は名前が知れていた。

私としてはもう一度彼の代表ユニフォーム姿が見たかった。
それだけに今回のニュースは残念だ。

前園はこれからもサッカーに関わるだろう。
とにかくお疲れだった。


注釈

(注1)ソウルオリンピック予選

この大会にはホスト国である韓国は予選出場がなかった。
そのため、予選は中国と日本の一騎打ちになった。
(ソウル予選はまだアジアで年代別の区分けがなかった。そのためにA代表が戦った)

アウェーで日本は石井監督による「守りのサッカー」を展開、辛くも勝った。
そして最終戦は国立で、日本が引き分けでもソウル行きが決まる試合になった。

選手は当時としては「アジアの核弾頭」原やキーパーの森下と松井、
キャプテンの加藤久や帰国した奥寺など、粒がそろっていた。
しかし雨の国立で日本は0-2で負けた(泣)。
すぐ隣の韓国へ、日本は行くことができなかった。

(注2)バルセロナオリンピック予選

香港や台湾、インドネシアなどと同じ組になった一次予選を何とか勝った日本は、
クアラルンプール(マレーシア)での最終予選に臨んだ。
最終戦だけは同時刻三会場で行われたが、それ以外はチャイナタウンから近い、
ムルデカスタジアム(ムルデカとはマレーシア語で「独立」の意味)での戦いだった。
監督は山口芳忠。後にあの悪名高いかつての名キーパー横山謙三が加わった。
(横山はサッカーファンに不人気で、代表監督辞任のために署名まで行われた)
選手は23歳以下の大学生とJリーグ発足を控えた日本リーグの若手で構成された。
キャップテンの澤登、キーパー下川、後の代表名良橋、ヘッドが強烈な小村、
そして名波、相馬がいた。

山口敏弘(当時近畿大)はゴールゲッターとして期待されていたが、
大学サッカーの不祥事でオリンピック代表から外れた。

また、室蘭大谷から古河(今のジェフ千葉)に進んだ京谷和幸は、交通事故で選手生活を断念。
その後車椅子バスケットでパラリンピック日本代表になる。
(この選手はすごかった。全日本ユースのプレ大会で観たが強烈な印象がある)

そして最終予選では六か国総当りで三か国にバルセロナ行きの切符が用意された。

日本は緒戦を逆転で中国に負け、二戦目をクウェートと引き分け、
三戦目はバーレーンに大勝した。
そして運命の四戦目、韓国に終了間際にゴールを決められて負けた。
ゴールを決めたのはキムビョンス。
彼は後にケガがあり選手生命が危ぶまれるが、
来日してコスモ石油でプレーすることになる。

そして日本は最終戦のカタールに負けてバルセロナへの出場権を逃す。

(記事はほとんどが私の記憶で書いています。そのため勘違いがあるかもしれません。ご了承ください)

詳しくはここが参考になるでしょう。

日本五輪代表の軌跡





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最終更新日  2005.05.20 14:17:51
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