テーマ:ニュース(99457)
カテゴリ:社会問題
気になるニュースがある。
受験番号のマークミス約7000件、全員救済・センター試験(NIKKEI NET) 今までもマークミスはかなり前(最初の5年間以降)から救済されていたのだそうだ。 つまり「マークミスは学力とは違う」という判断なのだろう。 これに対してイラク人質事件で有名になった流行語の「自己責任」を問う人もいよう。 賛否両論になりそうだ。 思い出すのが試験に遅れそうになって列車を本来の停車駅でない所に停めた車掌の判断。 この時も「情か自己責任か」で意見が割れた記憶がある。 以下のページが参考になる。 世間の声は厳しいですね。自分にも厳しいのですか?(ルミエのダイアリー) 「電車を停めない」=「死刑宣告」(入試過去問と著作権を考えるblog) 人によって違うであろう判断については、自分の主観でしか語れない。 私なら、可能な限り受験生を救済するだろう。 列車の車掌であれば可能な限り違う駅に停車させるだろう。 もし自分が受験生の側だったら。 救済してくれた人に感謝するし、助けてくれた車掌のようになりたいと思うかもしれない。 それって試験の良し悪しよりももっと大切な気がする。 この世には試験よりももっと大切なものがあるんだ。 一発試験に弱かった私には特にそう感じられる。 もう1つ記事を紹介しよう。 自分に甘いから、他人には厳しくなる。(sunday people life) >毎年のようにパトカーが送迎したり、電車が個人の都合に合わせて停車したりすることは「人情のある世の中」だと僕は思いません。「他人の迷惑を顧みない行為を、世の中が甘えさせている」ように思えます、どちらかというと。 この意見も理解できる。 というのも私はかつて東武鉄道の運転士が息子を運転席に入れて懲戒解雇された記事を書いた。 しかもこの記事は長編シリーズになり多くの反響をもらった。 東武運転士懲戒解雇で賛否両論 東武鉄道運転士懲戒解雇事件(Wikipedia) この記事で私は解雇に賛成の立場を取った。 「受験生に情けをかけてどうして運転士には同様にしないのか?」 確かにそうだ。こうした疑問も来よう。 だが私はこう考える。 受験生は受験という「非日常」を体験する。 慣れない列車に乗り、さらに遠くの場合には前日宿泊しなければならない。 それは若くて経験のない者には大変なことだ。 人によっては試験そのものよりも慣れないことのほうが大変だという場合もあるだろう。 日常的に列車を運転している人とは責任の重さが違う。 さらに、多くの人の命を乗せている運転士と受験生ではまったく状況が違う。 以上のことから私は受験生に温情をかけることには賛成する。 追記 受験生には「いつまでも温情があると思うな」と言いたい。 こうした温情が例外的措置であることは忘れてはならない。 関連記事 運用するのは人間 ↑この件を記事にしている。 以下の記述は新鮮でとても参考になる。 こうした意見を読めるのがブログのいいところ。 私もこんな記事が書けるようになりたい。 >法律も権利もコンピュータも使うのは人間だ。0と1だけで全てを白黒つけるだけならば、人間は不要になってしまう。0と1だけのデジタルな思考を超えた発想ができることに人間の価値がある。入試過去問と著作権の問題も同様だ。そもそも0と1を超えた何かを表現するのが劇作家さんや詩人の目指す所だったのではないですか…? センター試験「うっかり受験生」を23年間救済 本を買うなら楽天で!その他アフィリエイト バナーをクリック!小学生行方不明事件に情報をお願いします。 拉致問題の解決を願うブルーリボン運動です。 トラックバックはテーマに関係するもののみどうぞ。 その場合リンクは必要とはしません。 意見があればメッセージでどうぞ。ただし荒らしと挨拶できない人はお断りです。 今のところメッセージは全て読んでいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006.05.25 20:20:46
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