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前回書いた「車いす」の方との教えは、結果的に資金が尽きて
1年間しか出来なかったが、それがボランティアの始まりだった。 その後は札幌で短大や専門学校等を教えていたが、 ヘットハンテングされて企業に戻ったが、 その頃、経済不況でIT関連は苦しく、多くが倒産した。 コンピュータシステムに陰りが出たのは、その頃からである。 システム関係は紙と鉛筆と頭さえあれば企業を興せたのであるが それは固定資産が無い状態である。 コンピュータ業界は、人が実力さえあれば会社組織に出来た時代だったが それが終焉したのが経済不況であった。 私も若かりし頃、会社を興したが、嫌、興す状況に追い込まれて 若気の至りで社長でなければ嫌だと言って、生意気な若造であった。 だが私は3年で、自分は社長に向いてないと思い技術屋に戻った。 元来、お金儲けを考えるのではなく、技術だけを考え採算を考えない 人間であるから、向いていないのである。 それからは企業で働き、大きなシステム構築を手がけたが 技術屋は技術しか頭にないと自分で分かり、色んな企画案を 作成して、ある程度まで行ったが、このブログにも書いたように 上司とぶつかり海外へと逃げ出した。 それが海外でのボランティアの始まりであった。 2年契約で行ったが、企画案でODAを引っ張り出したので 4年に成ったが、海外では日本国内で働いていた時のように 周りを気にすることなく気軽に仕事も遊びも出来た。 確かに私の周りは外国人ばかり(自分が、その国では外国人だが) それなので気兼ねなく仕事も遊びも出来た。 日本だったら周りに気を使いながら生活や仕事をして居たが 外国では気兼ねの必要は無いのである。 ただし風習と習慣の違いで、最初は騙されの連続であった。 その時は日本の良さも感じたりもしたが、人間は慣れて来るものである。 現地人の友達も出来、また日本人の友達も出来て生活に関しても 現地方式で値切りがうまくなり、また来たかと思われるほど 嫌な顔をされた事もあったが、元来の気さくな性格が、 その国に合っていたのであろう、生活に関しては問題が少なくなった。 だが私が来た事がボランティアなのかと考えてしまう事も多くあった。 日本の政府の外部機関からの派遣であるが、中高年では初めての 試みだったので、それなりの優遇処置はされていたが、 専門と来ている人から見ると、微々たるものであったが それなりの生活は出来た。 私はコンピュータ関連のシステム構築で派遣されたが、 休日は貧民街をさ迷い歩き、危険を感じる事も当初はあったが 幾度か現地の友達と訪問する事で、問題は起きなかった。 だが、貧民街は日本で目にする事の出来ない悲惨さがあった。 日本で言えば掘立小屋、床は土で板を張りつけただけの所に 住んでいる人たちが多かった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2014.08.07 11:02:58
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