朝日新聞朝刊 2014年5月15日の記事です。
念願の宿泊施設ができ、その輪が広がっていきます。患者の男性は、状態が安定し退院され、税理士の資格もとられ故郷に戻って、新たな生活を始められています。
「かんがる~の家」で母親は男性に料理を作った=絵本「やさしさの木の下で」から
横紋筋肉腫(おうもんきんにくしゅ)の治療で、男性(32)が小学1年生で、山梨県から東京・築地の国立がん研究センターに初めて入院してから1年半がたっていた。
1991年6月、男性の母親(58)は、同じ病棟に入院する子どもの母親らと、がんセンター隣の朝日新聞社にいた。飯塚眞之(いいづかまさゆき)編集委員(当時)に、地方から出てきた家族の宿泊施設が必要と訴えた。飯塚さんは前年、米国の闘病家族の宿泊施設を取材していた。
飯塚さんは後に寄稿で、母親らの訪問を振り返っている。「あるお母さんの言葉が印象的でした。『経済的な面だけではない。知らない東京に来て話し合える人もなく、1人で落ち込んでいる。同じ病気を持つ子供の親が励まし合える場所が欲しい』」。飯塚さんは母親たちの思いを記事にした。
91年秋、親を看病した経験をもつ女性が、東京都足立区の自宅2階の提供を申し出た。その後も部屋提供の申し出が続き、92年暮れには渋谷区のマンションの一室が宿泊施設「パピーの家」として誕生。93年、調布市に専用施設「かんがる~の家」が建てられた。
同じ年に施設運営のボランティア組織「愛の家」もできた。97年に現在の「ファミリーハウス」と名称を変え、99年にはNPO法人になった。今年4月時点で、都内11施設57部屋を運営。がんセンターに限らず、地方から都内の病院に入院する子どもの家族が滞在する施設として提供されている。
男性は小学4年生の時、数日間の外泊で母親と「かんがる~の家」に初めて泊まった。苦手な病院食や苦しい治療から離れ、母親の手料理や散歩を楽しんだ。
小学校卒業間近の95年2月、男性は状態が安定し、がんセンターを退院。地元山梨に戻って中学、高校を卒業し、再び上京して東京の大学、大学院に進んだ。大学院生の時に周囲の反対を押し切り空手を始め、今も続けている。「精神的に鍛えられて自信がついた」
卒業後は都内の企業に勤めた。働きながら税理士の資格試験に挑戦し、昨冬合格。故郷に戻り、新たな生活を始めた。今も無理をするとリンパ浮腫で腕が腫れる。
「がんセンターの友達は、数え切れないくらい亡くなった。その分、自分は頑張らないと」
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