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2016/07/28
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テーマ:癌(3513)
カテゴリ:癌治療情報
読売新聞「一病息災」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。

なかにし礼さんの最初の「がん」治療のときの古い記事です。その後、再発され、すでに復帰されています。


≪2014年6月5日の記事≫ 

[作家・作詩家 なかにし礼さん]食道がん(1)満州からの逃避「自分で生きる」


 「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」。レコード大賞を3回受賞した売れっ子の作詩家だった。

 作家に転身して直木賞を受賞。執筆やコメンテーターとしての活躍を続ける。根底には、浮き沈みの激しい過酷な人生体験があった。その苦労から、心臓は発作を繰り返す。食道がんが見つかると、心臓の負担を考え、手術をしないで治す選択をして病魔と闘った。

 満州(現中国東北部)の旧ソ連国境に近い牡丹江で1938年(昭和13年)に生まれた。北海道・小樽から4年前に渡ってきた一家は造り酒屋を始め、裕福になっていた。「中国語やロシア語なども使って、他国の子供たちと遊んでいました。日本とは違って、軍国少年にはならなかった」

 45年8月、ソ連軍の侵攻で、生活は一変。母、姉との逃避行が始まった。現地を出る最後の軍用列車にまぎれ込んだが、ソ連戦闘機が迫ってきた。

 家族で逃げようとすると、母は「ここに隠れていなさい」と座席の下に潜り込ませ、自分は別に逃げた。列車は機銃掃射に襲われ、車内で多数の軍人が死んだ。戻ってきた母は惨状を見て、幼い息子に「これからは母さんの言うことも信じてはいけない。自分で逃げ、生きなさい」と諭した。

 「母のあの言葉に目覚めて以来、自分で考え、決断していくようになった。今も変わりありません」


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 なかにし礼さんは、最初の「がん」になったとき、粒子線治療の一種である陽子線治療を受け復帰され、話題になりました。この記事は2014年6月の記事で、私が「がん」発病を知る前、身体に変調が出ていた時期の記事です。読売新聞を購読していましたが、当時「がん」に切迫感がなかったため、この記事は読んでいませんでした。

 もし、この記事が、もう1ヵ月遅くて、私が発病した後だったら、粒子線治療の知識を持ち、展開が違っていたかも知れません。でも知っていなかったのが、かえってよかったのかも知れません。もし、抗がん剤治療の後、「残っている腎臓ごと切除します。」と言われたとき、「粒子線治療はどうですか?」と聞いて、もし「あれはダメですよ。切除が確実です。」と言われたかもしれません。そうなると、セカンドオピニオンで、「主治医は、粒子線治療には否定的です。」と言っていたでしょう。セカンドオピニオンの先生も、「粒子線治療は選択肢の一つになる可能性はありますが、主治医のおっしゃっていることは正しいです。」とおっしゃって、粒子線治療は選択しなかったかも知れません。


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最終更新日  2019/04/17 07:45:59 AM
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