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ワルディーの京都案内

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2017/11/16
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テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:京都研究
2017年11月16日(木)】

 嵐山の公募ガイドがは12時で終了でしたので、その日のガイド仲間と嵐山で昼食した後(こちら)、京都市中央図書館に行き、客員研究員の研究のため、「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」の続きを閲読をしました。(前回の閲読はこちら

 「お塚」や「お滝」に関係すると思われる部分を、第1部第5章から閲読しました。

 参考になるところを列挙します。

●第1部 第5章 近・現代の伏見稲荷大社
 第1節 官幣大社への軌路


・徳川将軍と愛染寺(P259~)

 将軍家茂の上洛時、稲荷社本願所「愛染寺」に「小休」すること5度、一橋慶喜が「小休」すること7度あった。

 「稲荷社本願所 愛染寺」にいつ頃なったかは不明だが、寛永10年(1633)に天阿が愛染寺に入っている。明治元年に廃絶された「愛染寺」の名称が定着、継続されるのは元禄期(1688~1704)頃であった。


●>第2節 あらたな歩み

・上地と神仏分離(P268)

 愛染寺の堂塔が神仏分離でなくなるやいなや、「稲荷山巡拝者、私に訳け無き拝所、且つ紛らわしき神号を信じ、石を持ちこみ、神蹟破壊に及ぶおそれ」、それらの停止、取り払いの旨の制札が3か所に立てられた。


・稲荷山のお塚と経塚(P267~)

 しかし、個々人の「私の」お稲荷様は制札を立てて収まるような、魅力のない神様ではない。明治7年~8年にかけて、神社側から、稲荷山へ向けた正統な信仰の仕方の標識として、いくつかの神蹟が一段高いところに築かれた。しかし、これが却って呼び水となって、「お塚」がさらに増えた。大正年間の中ごろには好景気を後ろ立てに、登る人より登る石のほうが多かったと言われれる。


・工事・祭儀・奉納などの推移


昭和9年8月 清明滝改修 地鎮祭(P292)


●>第6章 稲荷信仰と行事
  第3節 稲荷信仰の流布


・農業神としての稲荷信仰

 中世期の稲荷社には、真言宗関係の堂塔があり、修験僧が稲荷山で修行していた痕跡もあるから、熊野信仰などと同じように、稲荷信仰を奉じる修験者の存在した可能性は否定できない。彼らが中世後期の農民のなかに稲荷信仰をひろめたに違いないのだが、確実な資料のない現在では、あくまでも想像の域を出ない。(P349)

 江戸の流行神としての稲荷信仰が庶民の話題となり・・・(中略)・・・これら突然に起こり、流行する信仰には、必ず修験・山伏・法印・巫女など、さまざまな下級宗教者が仕掛け人として存在しており、彼らが政情不安などに乗じて、都市民を煽っていたはずである。(P350-351)


・愛染寺と御師(十穀聖)

 「愛染寺の十穀聖(勧進聖)が、中世末期から近世を通じて、稲荷信仰の布教や配札に活躍していた」とあるが、彼らが修験者や山伏であったりとか、稲荷山で修行をしたなどの記述はなし。(P351)


●>第4節 稲荷山の信仰と民俗

・雨乞いと膝下の村々

 農民たちが稲荷山で雨乞いを行った。社務の「日記一一冊」(万治2年(1659))に、滝壺を浚えで雨が降ったとある。(P356)


●>第7章 稲荷山の社叢
 第2節 近代の社叢の管理と現状


・明治から昭和初期の変遷

 上地令で境内地を失い、知らず知らずの間に多くのお塚が建ち、茶店が出店し、信者の登拝でにぎわい、責任体制の明確化が必要となり、神蹟巡拝に必要な土地の復旧が明治35年に許可された。大正13年には、神社境内、官有地併せて2336基のお塚を数えた。お塚の多さは稲荷山の社叢を大きく変えるとともに、多くの人が登拝するお山へと変貌した。(P383)


・戦後の社叢管理

 戦後、神社が国の管理を離れ、宗教法人としての法人格を保有した結果、昭和25年に、上地した土地は元の所有者に無償譲与されることになった。
 しかしその面積は、かつて上地した半分にも満たなかった。神域を保全し、尊厳を高めるためにも奥山は必要であるので、境内地周囲の国有林と等値交換を行い、その後も境内地隣接地を買収した。(P385)


●第2部 伏見稲荷大社の建築と美術
 第3章 稲荷山の景観
 第2節 近代の境内景観


・お塚の新設と茶屋>新拝所と鳥居の出現(P527,528)

 稲荷山の朱の鳥居とお塚は、そのほとんどが明治以降に奉納されたり、つくられたもの。お塚の信仰は中世にさかのぼるとされ、三ヶ峰と荒神峰も明治に入るまでは、上ノ塚、中ノ塚、下ノ塚、荒神ヶ塚と称された。
 こうした古くからの神蹟地の拝所のほかに、人々の信仰による新たな拝所がつくられたことが史料に確認されるのは明治2年頃。この時期、参拝者のなかに私設の拝所をつくったり、石を持ち込む者があり、これに対して神社側は神蹟を破壊する恐れがあるとして、こうした行為の停止と取り払いを示した、制札を参道の上り口や四ツ辻に立てている。参拝者によって鳥居が建て始められたのもこの頃。明治2年鳴滝に建てられた鳥居を、命婦谷へ引き移すかどうかが検討されている。このことは、以前には、山中のい参道に信者が寄進した鳥居が立ち並ぶことはなかったことを示している。近世の絵図や明治初期の境内図にも、命婦谷(奥社奉拝所)以外は、こうした鳥居は確認できない。新拝所や鳥居の出現は、山上の信仰が新たな性格を帯びていったことを物語る。あわせて山上に参拝する人々も増加していたようで、参拝者を相手にした茶屋を山内に出店することを願い出るものも増えている。
 新拝所に対して、神社側は強硬な態度をとっており、新造を禁止するとともに再三撤去作業を行っている。しかし、明治4年の上知によって、稲荷山のうち七神蹟とそれらを巡る参道以外が官有地となったことで、神社の管理・監督が徹底したのは七神蹟の周辺に限られた。官有地は明治19年までは京都府の管理下におかれたが、管理体制が確立していないなか、新しく官林に編入された面積は広大で、なかば放置された状態の山林が少なくなかった。そのため官有地となった場所では、新拝所が次々と築かれるという状況を招いた。国の対応は遅く、明治21年にようやく付近に出店していた茶屋に取り払いを申しつけている。新拝所がお塚と呼ばれ始めるのは、明治20年前後とされる。鳥居についても同様の経過をたどったと考えれられる。


・>お塚の方針転換と茶屋の役割(P529,530)

 神社におるお塚の規制にもかかわらずお塚は増える。明治35年の大規模な官有地の境内地への編入があった。編入後の境内地に存在した標石の数は633基。この標石は認めるが、新造は禁止。
 茶屋も境内地に含まれることになった。山内に茶屋がつくられた時期は明らかでない。四ツ辻に建てた家に西村氏を常駐させ、そこに茶屋を開いたのが最初とされる。明治41年から44年の修理記録によると、この当時山茶屋があった場所として、青木谷、栗木谷(2)、グワラ(3)、御膳谷、新池ノ向(4)、小灯籠、間之峰があげられている。これらは現在の茶屋と大きく違わない。神社は茶屋に神蹟近辺の清掃を義務付けている。
 お塚新造は禁止したが、実際には増え続ける。最も盛んだったのは大正期前半とされる。昭和7年の「お塚台帳」では2254基。明治35年から3.5倍。
 戦後昭和37年の境内地の拡大を機に、お塚建設を許可。昭和41年調査で、境内3322基、境外4440基。
 お塚が増えたもう一つの要因は、昭和2年に結成された稲荷講社。この講社の信仰活動で重要な位置を占めたのが、お塚や滝などの稲荷山の施設を巡ることだった。彼らは茶屋に滞在した。


・近代化のなかの稲荷神社>鉄道の開通と参詣道の変化(P535~537)

*明治10年 国有鉄道東海道線 京都~大津 営業開始
*明治28年 京都電気鉄道 塩小路東洞院~伏見油掛 開通
      第4回内国勧業博覧会・遷都1100年記念祭
      稲荷新道完成 稲荷神社~稲荷道停留所(のちの勧進橋駅)
*明治37年 京都電気鉄道支線 勧進橋~伏見稲荷間 開通
*明治43年 京阪電車 大阪天満~五条 開通


>観光旅行の流行のなかで(P538~540)

 参拝者が大幅に増加するのは大正期後半以降。旅行や観光が全国的に流行する。京都では明治28年の第4回内国勧業博覧会をピークに多くの観光案内書が刊行され、市も観光を産業の柱の一つにした。大きな盛り上がりは、大正期後半から昭和初期。
 吉田初三郎が大正14年に「伏見稲荷全境内名所図絵」を発行。鉄道路線や駅を正確に書いたのは、全国からの観光客を意識したもの。山上風景が詳しく描かれ、「御山めぐり」の解説がある。発行者は稲荷神社ではなく、茶屋経営者の西村秀孝、蜂須賀伊三郎。


 今回の閲読で分かったこと、確認できたことのうち特記事項。

・愛染寺の僧が修験僧だったり、山伏だったりということは記載がない。

・中世期の稲荷社には、真言宗関係の堂塔があり、修験僧が稲荷山で修行していた痕跡がある。修験者の存在した可能性は否定できない。しかし肯定もされていない。

・私的な「お塚」は明治2年頃が最初。明治2年鳴滝に建てられた鳥居を、命婦谷へ引き移すかどうかが検討されている。

・明治35年のお塚数は633。昭和7年2254。昭和41年3322、4440。

・境内地の国有化、返還、交換が行われており、これらが谷間のお塚や新しい寺社群の登場に関係しているかもしれない。

・昭和9年に清滝の修理が記録として記載されている。

・昭和2年に結成された稲荷講社。その信仰活動で重要な位置を占めたのが、お塚や滝などの稲荷山の施設を巡ることだった。

・国鉄の開通だけでなく、京都電気鉄道、京阪電車開通も参拝者増加に寄与している。大正時代の好景気が後押し。

・吉田初三郎の俯瞰図は茶屋経営者による発行。



「伏見稲荷大社御鎮座千三百年史」


伏見稲荷大社HPから


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最終更新日  2019/06/13 07:48:48 AM
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