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ワルディーの京都案内

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2017/12/14
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テーマ:京都。(6049)
カテゴリ:研修会
2017年12月14日(木)】

 今日はガイド会の全体研修の今年度第2回があり出席しました。

 「ここまでわかった幕末 第2回 大政奉還」というお題で、京都女子大学非常勤講師 中村武生先生にお話しいただきました。前回8月22日の「第1回 薩長同盟」(こちら)に次ぐ2回目です。

 9時30分から開始の予定でしたが、あるトラブルがあって、約30分遅れでのスタートになりました。その30分をある先輩が、大政奉還のテーマで色々お話をして繋がれました。この方といい、先日の、後水尾天皇・東福門院のお話を、急きょピンチヒッターで話された先輩といい、すごい先輩がたくさんいらっしゃいます。


 さて、お話の要点です。

 
●誤解されてきた「大政奉還」

 坂本龍馬が土佐参政の後藤象二郎に。後藤から老公山内容堂に。さらに将軍徳川慶喜に。これは龍馬の驚天動地の無血革命論として評価されることが多い。しかし、実は司馬遼太郎先生の「龍馬が行く」の小説上のお話。実際は、先立つ5年前、徳川の役人大久保忠寛(一翁)の発案による。
・大久保忠寛が、政事総裁職(事実上の大老)の松平春嶽勝海舟に大政奉還を働きかける。
 「攘夷の勅諭を受けてはダメです。過去朝廷から重大な件の沙汰ある時はいつも『後々は何とかなるので、一応は請けよ』と内々にお達しがあったが、口頭なので、後日に困っても何の証拠にもなりません。」 「今度はどこまでも攘夷は国家のためには得策ではないと進言し、それでも朝廷がお聞き入れならず、攘夷を断行すべきと仰れば、政権を朝廷に奉還し、徳川家は神祖の旧領、駿遠三の三州を請い受けて単なる一諸侯に降りるべきです。政権を奉還すれば、世の中がどうなるか分からないが、徳川家の美名は千歳に伝わります。攘夷をして、見識のない失敗をし笑いの種になるよりは、よほどの得策です。」

 勝海舟のもとでその使いをしていたのが龍馬。だから龍馬は大政奉還のアイデアは知りえた。しかし徳川慶喜も山内容堂も大政奉還のアイデアはすでに知っていた。ただ現実化しなかった。それどころか、松平春嶽はその後もたびたび将軍家茂や後継者慶喜に訴えつづけたが、無視された。龍馬の意義といえば、タイムリーなときに再発言したことに過ぎない。決して龍馬主導の驚天動地に無血革命ではない。


●具体的な大政奉還への過程

・慶応3年10月3日、山内容堂が将軍慶喜へ上書
・同年10月11日、慶喜が在京の諸侯重役に、13日の二条登城を命ず。
・12日、慶喜が二条城黒書院で、守護職、所司代、大目付、目付、禁裏付、町奉行などの
 公辺役に大政奉還の意志を伝える。
・13日、紀州・尾張・加賀・阿波・仙台・薩摩・土佐・安芸・備前・宇和島など50人ほどが集合。
 大目付戸川伊豆守安愛が諸侯宛の書付を渡す。重役らにもみせる。
・老中板倉勝静が将軍に何か申し述べる希望者がいないか問う。
 薩摩家老小松帯刀、土佐参政後藤象二郎・福岡藤次、安芸家老辻将曹、備前牧野権六郎、
 宇和島都築荘蔵
が希望
・いったん控室に下がる。あらためて6人以外が大広間に。
 主君宛の書付が渡され、上洛が命じられる。
・6人大広間へ。将軍慶喜の謁見。小松がそばの板倉にすみやかな朝廷への奏聞を力説。
・小松・福岡ら摂政二条斉敬を訪ね、すみやかな上表の受理をするよう要求。
・小松「王政復古の義、十分に相立ち、実に意外の事」
・福岡「土州抔にても意表に出、驚愕」
・翌14日、慶喜が二条摂政へ大政奉還建白を差し出す。15日慶喜参内、受理。


●「二条城で大政奉還」の虚構

・「奉還」は書類が二条摂政へ渡った時点。二条城ではない。
 受理が「奉還」としても、場所は禁裏御所(小御所)。二条城ではない。
・ニノ丸大広間の人形陳列/二条城が発行している案内紙の説明/
 聖徳記念館の村田丹陵筆の絵なども誤解を招いている原因の一つ。


村田丹陵の大政奉還の絵。
これは黒書院。従って12日の将軍が幕臣に大政奉還の意志を伝えている場面





ところが上の図と同じような場面の人形展示しているのは大広間。
そして以前は大政奉還の場面として説明されていました。

以前の二条城パンフレットから

 これが、「大広間にて将軍から直接諸藩重臣に大政奉還が伝えられた」との誤解を招く原因になりました。慶喜は、大広間で直接諸藩重役には会っていないし、大政奉還はこの場で成立していません。あくまで大政奉還の意志を伝えただけです。

 村田丹陵の絵は、明治神宮の依頼によるもので、聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)に収められた幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた絵群の一つです。丹陵は当初、13日の将軍が大広間で小松らに謁見している場面を描き完成させる予定だったようで、下記のような下書き残っています。ところが、徳川慶光公爵と旧幕家臣団から新政府側の人物ではなく、幕府の人物を描くよう変更を求められ、明治神宮においても了解が得られたため、上記の現在の画になったといいます。






 ここまでのところは、この9月の二条城ガイドの準備で勉強してきたところですが、曖昧なところも多かったので、今回頭の中がしっかり整理されてよかったです。


 その後、「家康が征夷大将軍に任じられた場所は二条城」は間違い、「二代秀志の将軍宣下は、この二条城で行われた」は間違い、正確な「二条城ものがたり」の構築が必要などのお話が続きましたが、これらの部分は私も頭の中が整理できていたので、特に新規に知ったことはなかったです。


 今回にしても前回にしても、相当の予備知識を持っている観光ガイドが対象ということで、いつも話す内容より濃くして、レジメもパワポ資料も一から作っていただいての熱弁で、とても参考になったし、面白かったです。


 最終回(第3回)は新選組をテーマにしたお話です。


 21日の「光雲寺」の参考資料をコピーしていただくために事務所に寄って、京都駅のポルタで修学旅行昼食処の下見を兼ねて昼食をとりました。→こちら


 その後、年賀状の写真に使う、寺社などの門の写真撮影で京都を回りました(こちら)。


(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)

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最終更新日  2019/08/25 10:23:48 PM
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