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ワルディーの京都案内

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2020/02/02
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テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:京都案内
2020年2月2日(日)】

 「京の冬の旅」光照院の9日目でした。今朝は晴れていたので、京都の最低気温1.8度と、そこそこ冷え込みましたが、最高気温は11.7度と10度を超え、暖かかったです。日曜日なので、拝観者は多かったですが、もっと多くてもおかしくなく、新型肺炎の影響で、日本人も旅行を控えているのかもしれません。

 蛇足ですが、今日の日付は数字の配置が面白い。令和でいくと、020202、西暦でも 20200202です。

 何故、持明院仙洞御所の場所に、光照院が現在建っているかについての説明に入っていきますが、その時代は南北朝です。光照院のお話しはあとでするとして、ここしばらくは、ちょっと横道にそれて、何故天皇が並立する、南北朝に至ったかということについて説明します。といっても、ここは私が勉強不足の領域ですので、他のサイトの情報をお借りしながら、私の勉強を兼ねて説明します。主に「歴史人(れきしびと)」https://history-men.com/ の情報をもとにしています。

 後高倉院を父に、藤原陳子(ちんし・のぶこ)を母に持つ後堀河天皇が母方の持明院殿を里御所として使い、持明院殿という場所が天皇家と直接関わることになったと書きました。その後堀河天皇の2代後の天皇が後嵯峨天皇です。





 
 後嵯峨天皇は鎌倉時代中期仁治3年(1242)に即位しました。翌寛元元年(1243)、後嵯峨天皇に久仁親王(後の後深草天皇)が誕生します。後嵯峨天皇は、わずが在位4年で2歳である久仁親王に譲位し、自らは上皇となり院政を開始しました。天皇が物心が付いてしまわないうちに、上皇として実権を握っておきたいとの策略でしょう。

 その後、正元元年(1259)、後深草天皇に譲位をさせ、建長元年(1249)に誕生した次男・恒人親王を天皇の座に就かせます(亀山天皇。当時10歳かそこら)。後深草天皇が16歳かそこらの頃です。そろそろ意見を色々言うようになってきたか、そのことを恐れたのでしょうね。また同じ方法で実権を握り続けたかったのでしょう。そして、後嵯峨法皇は、文永9年(1272)53歳で崩御しました。

 しかし、後嵯峨法皇は、次の天皇をどうするかということを決めずに崩御してしまったため、残された後嵯峨法皇の息子で兄である後深草上皇と弟の亀山天皇の間でどちらが実権を握るのか、どちらが政治を主導していくのかということで対立が生じました。後深草上皇の血筋を持明院統というのは、後深草上皇が譲位後に住まい(仙洞御所)としていたのが持明院殿であったからだというのは前回お話しした通りです。亀山天皇の血筋を大覚寺統というのは、子の後宇多天皇が大覚寺の再興に尽力し、出家後は大覚寺に住んで院政を行ったからです。

 後深草上皇(持明院統)と弟の亀山天皇(大覚寺統)の対立に対し鎌倉幕府は、持明院統、大覚寺統が交互に皇位につくことを提案し、以降、それぞれの家系から交互に天皇が誕生することとなりました。この仕組みは「両統迭立(てつりつ)」と呼ばれています。

次回に続きます。


 


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最終更新日  2021/01/29 09:52:42 AM
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