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2021/06/04
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テーマ:京都。(6067)
カテゴリ:若冲と応挙
【2021年6月4日(金)】

 今日はもともとフリー日。ですが、いつものように、会のこと色々でした。でも、時間の余裕があり、久しぶりに料理をしました。「肉じゃが」初体験でした。じゃがいもを小さく切り過ぎたりで、不具合もありましたが、味はそこそこでした。


 「奇想の画家 若冲と応挙」の第20回目、「その他の若冲の絵(続き)と若冲の住まい異説」です。いよいよ若冲パートの最終回です。

◆第2章 伊藤若冲(続き)

2-12 その他の若冲の絵(続き)

 動植綵絵にも、他の画家の絵を意識したかもしれないと思われる絵があります。図Aの若冲「菊花流水図」は、図Bの尾形光琳「紅白梅図屏風」(国宝)を意識して描いたものではないでしょうか。





 
 若冲の活躍した18世紀後半は、版画が隆盛した時期でもあります。浮世絵で錦絵と呼ばれる多色刷り版画が生まれ、司馬江漢銅版画を手掛けました。そのなかで、若冲は「拓版画」と呼ばれる異色の技法を取り入れた木版画の逸品をいくつか残しました。

 浮世絵も含む通常の木版印刷は、左右逆に描いた版下(はんした)と呼ばれる下絵を、版木に貼り付けて陽刻(絵や字の部分を残し、それ以外の部分を彫る)します。これに紙を貼り付けて、「ばれん」でこすると、刷り上がりで絵や文字がポジで正しい方向で再現されます。

 拓版画は、左右逆にすることなく、そのままの方向で描いた版下を版木に貼り付け、それを陰刻(絵や文字の部分を彫る)します。そして、彫った版木の上に紙を置き、水分を含ませて密着させ、彫った部分にも紙が入り込むように押しつけます。紙が乾いたら、刷毛や「たんぽ」で紙の上から墨を乗せていきます。すると絵や文字の部分(彫った部分)には墨が乗らず、そこがネガのように白抜きになります(図C参照)。「正面摺り」とも呼ばれています。






 図Dに拓版画の代表作である「乗興舟(じょうきょうしゅう)」を示します。大典顕常が賛文を寄せており、それによると、明和4年の春、大典が当時52歳の若冲といっしょに、伏見から舟に乗って淀川を下り、その体験をもとにこの作品が描かれたことが分かります。漢詩の賛もあるためか、中国風の装いになっています。版画はその技法から、オンかオフかの明暗のはっきりした絵になりますが、この「乗興舟」では、暈し(ぼかし)の高度な技術が見てとれます。版下の描画だけではなく、彫りや摺りにも若冲が関わったのではないかと見る向きもあります。なお、淀川下りは多くの画家が描いており、円山応挙も描いています。応挙のところで、後に紹介する予定です。






 また、若冲は「合羽摺り(かっぱずり)」と呼ばれる多色摺りの版画も、数少ないですが手掛けています。「合羽摺り」は、最初に輪郭線を版木を用いて墨塗りし、色部分は防水加工した型紙を置いて、顔料をつけた刷毛を使って彩色する方法です。色数と同じだけの型紙を必要とします。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれます。
 
 図Eに合羽摺りを使った「花鳥版画」全6図のうちの1つを示します。若冲は強烈なコントラストを意識して、背景全体を版木を使って摺り出しています。






2-13 若冲の住まい異説

 筆者が若冲研究の途中、京田辺市でガイドをしている知人から、「若冲は京田辺にも一時期住んだことがあり、その跡に立て札がある。」との情報を得ました。「京田辺に一時期住んだ」ということは、私が読んだ美術書には一切書かれておらず初耳でした。早速現地に行ってみました。京田辺市普賢寺公家谷(こげだに)という場所です。立て札は京田辺市教育委員会と京田辺市文化財保護委員会によるものですので、「京田辺居住説」は公式に認められた一説といえそうです。(図F参照)






 その知人によると、昭和50年発行の「田辺の昔はなし」という本に「若冲の画は、普賢寺の二家に保存されていたが、一つは、古物にまぎれてなくなり、もう一つは、座敷に4枚の花鳥が描かれてあったが、改築の時に親類の人が焼いてしまった。(普賢寺宮崎宗太郎談)」と書かれているとのこと。知人は、若冲は天明の大火後、1788~1790年の1~2年間が行方不明で、その時期この場所に住んだのではないかと推定していますが、その時期は第14回で書いたように、大坂西福寺伏見海宝寺に身を寄せたという説が有力です。弟子が若冲名で絵を描いたことも多いとのことなので、私は焼け出された弟子の一人が故郷のこの地に戻ってしばらく住み、若冲名で絵を描いたのではないかと推測しています。


 次回からいよいよ円山応挙です。

前回はこちら   次回はこちら


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最終更新日  2021/07/13 09:54:59 AM
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