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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2006/04/23
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カテゴリ:哲学
先日の日記で書いたと書いた「レポート」を載せておきます。

30分ぐらいでざっと書いたもの。

終わり方が,きわめて「レポートらしい」。

なぜ,こんな風にレポートらしくなってしまったか。

普段はこういう文章の終わり方はしない。

したがってこの理由は一つで,おそらく同じ人間でも,置かれた立場によって「書き方」は変わるのである。

だから普段教える立場にいる人でも,学生の立場になると,きっとこういう書き方をしてしまうに違いない。

余談だが,レポートと言えば,昨今の学生の中には,ネットに載っている文章をそのまま写そうなんていう写経精神をいかんなく発揮しているお坊さんのような方もいるみたいだが,案外ばれるものだから,ふつうに書いた方がよいと,思わないでもない。

まあ,わざと単位を落とすことで修行したいというのであれば止めはしないが。

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「哲学とは何か?——哲学的思考法の有効性と危険性,そして限界と使い方」西條剛央

 この本は,“哲学すること”の意味を教えてくれた。現在,一般的な学生が「哲学」という学問に持っている印象は,「難解」「意味がわからない」「役に立たない」というものといえよう。しかし,竹田先生は,そうした印象を抱くのもやむをえない面があるものの,それは本来的には「哲学」というものに対する誤解に基づくと主張している。そして従来の職業哲学者は,「哲学をする者」という意味での「哲学“者”」ではなく,特定哲学者,あるいはその人の書いた書物を検討するという意味で「哲“学者”」であるという。僕なりに表現すれば,前者は「哲学実践者」であり,後者は「哲学書(者)研究者」ということになる。

 高校までの教育は最初から想定される「答え」を探しあてるというゲームということになるが,これは「哲学」ではないのは明らかである。「哲学の授業を受けた」という反論もあるかもあり得るが,高校の哲学の授業は,なんという名前の哲学者が,どのような本を書いて,どのような考えを述べたのかを概説する類の授業であり,それは哲学者についてのお勉強の域を出るものではない。

 それでは「哲学する」とはどういう意味であろうか。それを竹田先生の『言語論的思考』の一節をふまえつつ一言でいえば,<哲学とは言葉によって掛けられた呪を言葉によって解き明かし,その難問を終わらせてしまうこと>ということといえよう。以下にこのテーゼに基づき議論を展開していく。

 人間は言葉を獲得したが故に,言葉の呪縛を常に受け続ける存在ということができる。自ら「自分は何のために生まれてきたのだろう?自分の人生の最終目標はなんだろうか?」と考えたことは,哲学に関心がないひとであっても一度や二度はあるだろう。また,若い頃「君何のために生きているの?それがわからないのに本当に生きているといえるの?」という問いを他者に突きつけられて,考え込んでしまったという経験をしたひとも少なくないだろう。

 このように人間は,自ら問いを立てたり,あるいは他者に突きつけられるという形で,言葉による呪縛を受ける存在なのである。

 そして,そのときにこそ「哲学」は役立ちうるのだ。

 そうした際に,「これらの問いには“人生には達成されるべき最終目的がある”という前提や“何のために生きているか知らなければ本当に生きているとはいえない”という前提に暗黙裏に依拠していることに気づき,「人生は生きるプロセスそのこと自体に意味があるのであり,そうした問いに答えられなければ本当に生きているとはいえないということにはならない」と納得することができるようになるかも知れない。

 これが先に述べた,<哲学とは言葉によって掛けられた呪を,言葉によって解き明かし,その難問を終わらせてしまうこと>ということの内実ということになる。このような形で,哲学は,我々の人生に密接に関係し,また日常生活においても役立ちうるのである。

 ただし,「前提」自体を問い直すという特性をもつ「哲学的思考」は使い方を間違えると,危機的状況に陥る危険性にも留意しなければならない。明示的,非明示的は別として,我々が依拠している前提を問い直し,その結果,それが完全に覆される際,我々は危機に陥る可能性がある。例えば,アイデンティティの危機などもそれにあたるだろうが,それは自分や自分の生活,人生の基盤を壊してしまうようなことにもつながりうるのである。したがって,たとえば場合によっては,自らの依拠していた前提が誤っていると気づいた場合でも,突然それを受け入れる必要はなく,その代わりとなるような「前提」が準備された時点で乗り換えるということがあってもよいだろう。

 ここまで有効性と危険性を論じてきたわけだが,この時点で「それでは哲学的思考法は正しいのか,間違っているのか」といった二者択一的な問いを立てることも可能だろう。しかし,哲学的思考法を実践するならば,すでにこの問いの立て方自体が妥当なものはいえない。

 なぜなら「哲学的思考法」とは,ひとつの「考える方法」「思考ツール」であるからだ。方法は手段に他ならない。そして哲学的思考法も手段(方法)である限り,絶対的に正しいものは原理的になり得ない。なぜなら本来的に「方法」の妥当性は,各人の関心や目的,状況などに応じて規定されるものだからだ。

 以上のように,哲学的思考法の有効性や危険性,限界をふまえて,いくつかのタイプの「哲学的思考法」を身につけることが大切なのだと思う。そうすることによって,各人が関心や状況に応じて,それらを使いこなし,より豊かな人生を送ることができるようになるだろう。 
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Last updated  2006/05/13 12:20:30 AM


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