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亀田の試合やそれを巡る言説はちまたで話題になっている。 僕はほとんどテレビはみないが,ミクシーの亀田関係のコミュニティなどをみるとそれがよくわかる。 千差万別いろいろな意見がある。そしてまったく正反対の意見で溢れている。次元の違う意見が同じかのごとくとびかっている。 ぼくもそれに対する私見はあるけども,なんとなく,そうした現象それ自体が気になっていた。 気になるということは,そこに自分にとって重要な何かあるってことだろうからただただ読んでいた。 そしたら何かがみえてきた。 さて,今回の亀田家の騒動を聞いている中でこんな風に感じたひとは多いと思う。 1)なんでこんな正反対の意見をいうやつがいるんだろうか。バカなんじゃないか。盲目的なんじゃないか。 2)なんで足をひっぱろうとするのだろう。がんばっているのに。イジワルなひとたちだな。 3)なるほど,それぞれ一理があるがなんともいえないこの感じはなんだろう。そもそもなんで,こんなに問題がこじれているんだろう。 4)以上の複数に当てはまる。 とかね。 僕もそんな風に感じていた一人。 それで,ああこれはまさに「信念対立の温床」だったんだなあということがわかった。 そうと分かれば,信念対立バスター(低減装置)の【構造構成主義】の出番である。 「構造構成主義がインストールされているひとはアプリケーションの中から起動しますか?」 と表示が出たら「はい」を選ぶ。 といっても心の中で起動すれば良いんだけど。 その中でも今回は,関心相関性という原理が使えそうだ。 関心相関性とは何かって? それはね「存在や意味や価値はすべて身体や欲望や関心と相関的に規定される」というもの。 この観点からすれば,そのへんにある水溜りも,普通はなんでもない水溜りだったとしても,ぼくらが死にそうなほど喉が渇いていたとしたら,貴重な飲料水になると思うんですね。そういう飲料水としての価値,あるいは存在として立ち現れるコトとしてとらえ直すことができる。 これはすべてのことが,ぼくらがこういうもの抜きで,価値とか意義というものを汲み取ることはできないということを意識化するための原理でもある。言ってみれば,価値というものはどこかに転がっている絶対的なモノではなくて,自分の関心と相関的に立ち現れるという当たり前だけど,当たり前であるがゆえに,当然のごとく失念してしまうことを可視化する認識装置なのです。 この観点から読み解けば,ここまでコジレタ問題もスッキリと理解できるようになる 。 以下に今回の事件を例にそれを例示してみよう。 1)関心が【努力】にあるひと →「なんであんなに血のにじむような努力をしてチャンピオンになったひとを否定することができるんだ。彼ほど努力していないひとにそんな権利はあるのか!」 2)関心が【家族愛】にあるひと →「なんで今頃珍しくあれほどの家族愛をもっているひとを否定することができるんだ。すばらしいじゃないか」 3)関心が【フェアプレイ】にあるひと, あるいは【純粋な格闘技としてのボクシング】にあるひと →「ふざけんじゃねえ,中立的にみたら,あれは亀田の負けだ。八百長だ」 4)関心が【ボクシング界が注目されること】にあるひと →「なんだかんだいっても,結果的にボクシングがこれほど注目されてからいいんじゃないか」 5)関心が【スポーツとしてのボクシング界の発展】にあるひと →「あんな八百長と思われかねないような試合をやっていたら,ボクシングもK1やプロレスと同様にイカサマだと思われかねない。ボクシングがなめられる。まじめなボクサーがバカをみる」 6)関心が【ホームのメリットとアウエイの洗礼】にあるひと →「あの程度だったら,ホームのメリットが働いて勝つことだって十分ありうる。それは中立的な判定ではないかもしれないが,それはボクシング界の常だからある程度仕方ないし,今回はその範疇内の判定だった」 7)関心が【親心】にあるひと →「判定はともかく,親たるものいかなる状況でも子ども肩をもつのが正しいありかたである。ゆえにオヤジあっぱれである」 8)関心が【青少年の保護】にあるひと →「判定はともかくまだ19歳なのにがんばっているじゃないか。おおめにみてあげようよ」 9)関心が【礼儀正しさ】にあるひと →「何歳だろうがスポーツマンたるもの,あんな態度はありえない。礼儀を守るべきであり,彼は態度を改めねばならない」 10)関心が【関心の強度】にあるひと →「こんな風に多様な意見が強く提起されるってことは,内実のよしあしはおいてもいても,相当な関心を集めているのは確かだから,その意味では亀田一家やTBSの戦略はうまくいっているのかもしれない」 11)関心が【社会】にあるひと →「判定の是非はともかく,亀田一家をバックアップしてきたやくざ親分の誕生日に世界戦をやって,組長クラスが最前列に並んでいる様子が全国放送で流されるのはいくらなんでもやりすぎだろう。いずれにしてもTBSの視聴率とれればいいといわんばかりのやり方は許せん」 12)関心が【亀田興毅の健全な成長】にあるひと →「彼の成長のためにも負けさせてあげたらよかったが,ホームのメリットがなければ負けたことは亀田興毅自身がよくわかっているはずだ。しかしこれまで応援してくれた人もいるだろうし,ベルトを返上するわけにはいかないだろう。TBSの食い物にされて彼はむしろ被害者ではないか。そうしたどうしようもない奴らはおいといて,亀田興毅の健全な成長をねがっていろいろな意味で応援してあげよう」 こういった強固な信念対立が生まれるときには,関心相関的観点を起動させてみると,自他の関心を相対化(対象化)することによって,それまでみえなかったものがみえるようになり,それぞれの「一理」を認めることができるようになる可能性が拡張される。その結果,不毛な信念対立に拘泥せずに済む可能性が高まる。 もちろん,その上で,どの視点(関心)が妥当なものかを議論するというのはありだろう。 また,実際,自分の以外の視点(関心)を知るにつれて,自分の関心自体が変化していき,試合の判定や亀田一家に対する意見もまた徐々に変化していったんじゃないだろうか。 また,おそらく多くのひとは,以上の関心を複数有していたのではないだろうか。 そういう人の場合「なるほどそうだよね,でも,こっちの意見にも一理あるなあ」といったように,いくつかの意見に同意していたと思う(また,関心の強度の配分によって,その意見に対する賛否の比重はちがっているだろう)。 さて,関心相関性とは「概念」である。 世の中には「概念など抽象的で現実の役に立たない」と宣う方はけっこういる。 そも気持ちはわからないでもないが,けどそうした発言自体も概念を駆使したものであることにあまり気づいていないようにもみえる。 逆に「抽象的な概念」だからこそ便利ということもあるのだ(その概念がそれだけの原理性を備えていればという限定付きですが)。 概念(コトバ)だから,重たくもないし,かさばらないし,スペースもとらないし,臭いもしないし,洗う必要もない。 この認識装置は頭のどこかにとどめておくだけで,適時起動すれば「観点」として利用することができる。 「観点」とは世界をみる「無色透明無計量の眼鏡」のことである。 そして上記の例で示したように,それを通して社会を読み解くことができるようになる。 高度に抽象化された概念(原理)だからこそ,具体的なテーマや事象や専門や時や場所を問わずにそれを通して「理解」することができる。 しかも一度身に付けてしまえば一生モノである。 この便利な装置をちゃんとインストールしようと思えば,ネットからダウンロードできるのである(税込み2940円)。 ひいき目“で”見てお買い得といわねばなるまい(笑) ってことで,役に立たない授業の第二回を終わります。
Last updated
2006/08/22 11:26:39 PM
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